代わり映えないある日の夕暮れ

 定時で戻ってくる同僚たちから雑務を言い渡されてからが、真尋の仕事が一番忙しくなる頃合いだ。


 真尋はそこそこ大きなビルの上層数フロアを占めている企業で、秘書課の雑務をしている。

 元々は、そんな職位が会ったわけではない。新卒で総務課に入社して、仕事振りを気に入ってくれたお偉いに数年前引っ張られたのだ。だけど、そのお偉い様の専属秘書になることを、真尋は断った。僅かに入り交じった意味ありげな視線を許容できなかった。

 元々この職場には、秘書といえば重役の個人秘書しかおらず、部署の部屋はあるものの常在する者はいなかった。真尋は個人秘書を断る代わりにと、秘書室庶務係となることで事を納めた。それで納められるくらい、お偉いのお気に入りだという噂を残して。


 日々、やっていることといえば、雑務ばかりだった。

 数人いる重役たちの専属秘書から、資料づくりや連絡調整、調べもの、手書きやボイスレコーダーの文字起こしなんかまで、振られた仕事をただこなす。

 部屋にいるのは、いつもほとんど真尋一人だった。真尋はそれを、ある意味快適な環境だと思っている。

 出来ない、間に合わない、手抜きをする。そんな風に評価されるのを受け入れられないくらいには、真尋はプライドが高い。だが、こなせばこなすだけ、雑務は降りかかってきた。それでも働きを認めさせる事で、同期たちと比べて良い俸給を貰っているし、残業代も滞りなく支払われている。

 真尋は、今の仕事を疎む気持ちはあるものの、厚待遇であることも理解していた。


 ブラインドの隙間から、かすかに赤く夕日が光る。自分のデスク以外には明かりがない静かな部屋には、その光は深く射し込むでもなかった。

 紙束を捲りながら、パソコンに抜粋した資料をまとめていた真尋は、机の上で鈍い音を立てて振動するスマホに気付いて視線を見て向けた。

 社用と私物。二つ並べて置いているスマホだが、真尋は仕事中に私用のメッセージは扱わない。電話も出ない事が多い。もし、あひるとしての連絡が入っていたならば、会社で対応なんて出来はしないからだ。あくまで連絡を取らなければならない何かがある可能性がゼロではないから、私用のスマホも置いているだけなのだ。

 だけど、この時間になるバイブの音を聞けば、真尋の頭のなかにはかなり的中率が高い予感が過る。

 酒井はいつも、このくらいの時間に最初のメッセージを送ってくるのだ。


『真尋さん、まだ仕事中?俺は今から帰るとこ』


 だいたいいつも、そんな内容。それに、今日はああだった、こうだった、こんなことがあった。顔を合わせて片手間に話すような、日常の些細なこと。

 そうして、ほとんど同じ結末に辿り着く。


『ってことで、今から迎えにいくね』


 酒井の通う大学から真尋の職場までは、電車の乗り継ぎを加味して1時間余りかかる。気楽に通う距離ではない。

 だけど、週の大半は同じようなメッセージでしめられていた。


 キーボードを打ち込む真尋の手の速度が早まる。

 もしかして、今日は違うのかもしれない。スマホを見たら、がっかりするのかもしれない。そんな思いもどこかにある。

 メッセージを見たい。でも、今までの自分のスタイルを変えたくない。そこまで待ちわびてるなんて、微塵も察されたくない。

 だけど。だけど。急がないと、待たせてしまうかも。退屈させるかも。嫌気がさすかも。ここまでしてくれる人なんて、普通はいない。

 葛藤を胸に捨て置いて、頭と手を動かす。絶対に手を抜かない。仕事への矜持も捨てられない。

 そうして、ひたすらに作業に没頭し、ノルマの最後を画面に叩き出してから、真尋はようやくスマホへと手を伸ばした。

 静かに深呼吸して、ドキドキしていないフリをして。誰も見ていないというのに、期待も不安もなかったような平静な顔を、しっかりと繕って。


 どうせ、勝手に知らない内に会いに来たんだし。

 胸の中がじんわりと温かくて、張り詰めていた緊張も、体に染みついた疲労も解けていく。

 勝手に待ってるんだから、自分には非はない。毎日のように、迎えに来なくていいとも、待っていなくていいとも言っている。

 それでも、酒井は真尋が拒否しないから会いに来るのだと笑う。

 打算はなくて。自己犠牲でもなくて。ただ会いたくて、会えたら嬉しいと。顔中を喜びに染めて、出迎えてくれる。


 そわそわとした気持ちを誤魔化すようにまた深く息を吐きだして、真尋は上着を掴んで部屋を出た。

 自然と早まる足なんて、きっと気のせい。浮かれてなんてない。嬉しくなんてない。幸せで緩んだ頬を引き結べずになんていない。

 俺だって、会いたかった。

 その一言を懸命に胸の奥に隠して、必死に何でもない顔をして。

 息を弾ませて、真尋は恋しい年下の恋人の元へ急ぎ向かった。

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