現代病床雨月物語 第四十二話 「平岡君と由紀夫は心中した(その二)」

秋山 雪舟

第四十二話 「平岡君と由紀夫は心中した(その二)」

 由紀夫の実体である平岡君は決して大男ではなく壮健な男性でも無かったのです。身長は、一六二センチであり戦時中の兵庫県加古川町(現加古川市)での徴兵検査では甲種合格ではなく第二乙種合格であったのです。平岡君はどちらかというと虚弱な肉体の持ち主でした。そのコンプレックスから戦後は男らしい男へと肉体改造をしたのです。それは後に出版された由紀夫の男性美を誇張する裸の肉体をメインとした『薔薇刑』という写真集からも観てとれます。

 私は由紀夫の『仮面の告白』を読んで「変わった人=本だなあ」と思い、それに続く『禁色(きんじき)』では面白い本だなと思いました。タイトルは忘れてしまったのですが私は以前に戦国時代の武将達の繋がりを書いた本の中で他人が割って入る事が出来ないのが地縁血縁や男女の繋がりよりも男同士の男色(衆道・若道)でありそれは絶対に裏切らない強い繋がりであると書いてありました。真実は定かではないのですがその例として森蘭丸と織田信長が有名です。ですが私は関ヶ原合戦での西軍方の代表である石田三成と島左近との関係の方が記憶に残っています。

 話は戻りますが『禁色(きんじき)』に続くものが『豊饒の海』だったのだと橋本治さんの『三島由紀夫とはなにものだったのか』を読んで理解できたのです。由紀夫の人生はこれらの小説とシンクロするかたちで平岡君は由紀夫と心中したのです。

 同性愛を表現する作品は、『仮面の告白』と『禁色(きんじき)』の二作品だけであり『豊饒の海』とは違います。しかしこの三作品には深く関係する一つのテーマがあるのです。それは『仮面の告白』で同性愛を表現・告白し『禁色(きんじき)』で男性の雄としての本能(性交)を拒否された男と(共同=共犯者として)同性愛の主人公が女性に復讐を成し遂げる物語となっています。しかし作者である由紀夫は『禁色(きんじき)』で女性に復讐する小説を書いても依然として消えることのない心のもどかしさを感じて次のステージへと進んだと想われます。そのもどかしさが『豊饒の海』に引き継がれ「女性に愛される男」すなわち女性の心の中に居場所=位置を確保出来る男を目指したのです。ですが、完全に忘れ去られ否定され物語は終わるのです。以前にもこれに似た終わり方の本を由紀夫は書いています。『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』(新潮文庫)にある『サド侯爵夫人 三幕』でのサド侯爵を完全に見捨てたサド侯爵夫人=ルネの最後の言葉(セリフ)です。この様な小説の終わり方=結論の後に平岡君は由紀夫と心中するのです。

 そしてもう一つの心中の原因は由紀夫の生きた時代であり、特に「戦後」(一九四五年~一九七〇年)のややこしさ、わかりにくさが由紀夫の生きづらさと重なっているからなのです。私は由紀夫とは違う一九六〇年代の生まれですが現実としての「戦後」の経済の復興と「戦前・戦中」を知っている人達の戦前・戦中時代の精神性との時代のアンバランス感・観が社会を取り巻いていたのではないかと思います。

 由紀夫は「戦後」を嫌っていた作家であり、また戦後に多用された「愛」と言うキリスト教からくる価値観を嫌っていました。

 平岡君と由紀夫の心中はそんな時代に対する反抗であり、けじめでもあり、主張でもあったのです。

 私は由紀夫の同性を愛する一つの要素は、ほとんどの男が一度は経験する思春期の通過儀礼としての青年の心の潔癖性への同調や共振の心の作用であると思っています。由紀夫の小説には端麗な青年がかかせないのであり現実においても青年との関わりを持ちたい作家だったのです。

 まったく価値観や立場が違っても青年達と接する事をいとわなかったのです。それが東大生との討論であり、また人生の最期の場所となった市ヶ谷とは、自衛隊という多くの青年達がいる場所だったのです。私は由紀夫が『豊饒の海』に出て来る二二六事件に連なる青年達の心を意識して時空を超えて同調・共心する行動でもあったと考えています。

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