第34話 誰が為の創作

 帰路の途中で夜の帳が降りた。

 花恋の家に行った時はまだ早朝だったのに……と、彼女がどれだけ長時間絵を描いていたのか遅れて気づく。流石に少し無理をさせてしまったかもしれない。また今度食事でも奢ってあげようと決意し、足早で自宅に向かった。

 玄関扉を開けて帰宅すると、たたきに更紗の靴が並べられている。

 その小さな靴の横に自分の靴を並べて、リビングに入った。


「おそいおそいおそいおそいおそいっ!」


 僕の姿を見た途端、更紗が「おそい」と連呼しながら詰め寄ってきた。

 若干仰け反り気味になりつつ、まぁまぁと両手を前に差し出す。

 拠所ない事情があったので、遅くなるのも致し方ない。


「あれ、学校行ってたんじゃないの?」


 ふと、更紗が首を傾げて訊ねてきた。

 僕の格好が制服ではなく外出着だったからだろう。


「サボっ……こほん、休んだんだよ」

「わざわざ言い直さなくてもいいのに」

「やだな、優等生の僕が学校をサボるわけないだろう」

「うわぁ、めんどくさい男だ」


 更紗はわざとらしく顔を顰めた。

 僕が学校を欠席したのを知らないということは、彼女も休んでいたのだろう。その可愛い顔には疲労と嫌悪感が色濃く浮かんでおり、朝から夜までずっと執筆に苦戦していたことがわかる。


「それで、学校休んでいたのにどこほっつき歩いていたの?」

「女の家」

「殺す」


 目尻を吊り上げる更紗を、僕は堪えきれず――


「はえっ⁉︎」


 がばっ、と抱き締めた。


「他のことはもう終わらせてきたから。後は君だけだよ」

「ほ、他のこと……?」

「あー、言い方を変えると、他の女のこと?」

「がぶッ」

「あいだッ」


 二の腕に噛み付かれて、痛みに叫喚してしまう。

 だが腕の力は弱めることなく、むしろ強くしていった。


「ちょ、苦しいって……」

「しばらくこのままでいさせて」

「……わ、わかった」


 更紗の体温がじんわりと伝わってくる。

 ぽかぽかと身体が温まるような、気分が落ち着くような心地だ。

 恋人同士のハグにはリラックス効果や幸福度が上昇すると噂で聞くが、実際にその通りだなと思う。更紗と身体を寄せ合っているだけで、徹夜の疲れが一気に吹き飛んだような気がする。

 十分、二十分、三十分と時間が経過し、一年、二年、三年と三年間の空白を温もりで埋め変えているみたいだった。

 腕が痺れてきたところで抱擁を解く。


「……っぷはぁ、長すぎるよ、ばか」

「ごめん、でもありがと」


 そう口にすると、更紗が頬を赤くして「どういたしまして」と答える。

 ややあって、彼女は僕の手の中に収まる原稿へ目を向けた。


「それで、その原稿はなんなの?」

「更紗にこれを読んで欲しいんだ」


 と、僕は更紗をソファーに誘導する。

 コツンと肩を引っ付けながら、原稿を彼女に渡した。


「”僕の大好きな幼馴染へ”って、少しキザな題名かもしれないけどさ、それは更紗にも花恋にも見せたことのない、正真正銘の僕の処女作だよ」

「凜々人の処女作……」

「うん、本当は誰にも読ませるつもりなんてなかったんだけどね」


 処女作に興味を惹かれたのか、更紗は原稿をまじまじと読み始めた。

 花恋のために書き上げた作品に比べたら半分程度の長さだ。

 読書家の更紗なら数分もあれば読了してしまうだろう。


「っ…………」


 改行する度に彼女の眉がピクリと跳ね、思わず心臓が止まりそうになった。

 更紗が読み進めてるであろう場面を頭の中で思い描いていく。学校の授業中、前の席の幼馴染をずっと目で追っていたり。廊下ですれ違う度に笑顔になったり。登下校は一緒に帰ろうと誘ったり。

 内容が乏しく、稚拙な文章で、今の僕が読み返したら軽く死にたくなるレベルの完成度だろう。当時小学生だった僕が幼馴染を想い、モヤモヤする曖昧で不確かな感情を文章に書き写しただけの自己満足な小説だ。

 ただ、これを書いて後悔したことはない。

 それどころか、駄作で自己満足以外の何物でもない、この処女作を執筆していた時間が、僕の作家人生の中で本当に一番楽しかったと確信している。

 最後のページが捲られた。

 この処女作のラストシーンは、主人公の僕が幼馴染の更紗に告白をして、ちゅーをするだけの在り来たりな展開だ。唇と唇を合わせるのは妄想の中でも恥ずかしいかったから、更紗の頬にちゅーさせたのだけは鮮明に記憶している。


「っぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」


 更紗の口がパクパクと動いた。

 最後の行まで読み終わったらしく、ちゃぶ台の上に原稿が置かれる。


「こ、これっ……なんで書こうと思ったの……?」

「さあ、なんでだろう。人が人を好きになるのに理由が要らないように、当時はなにも考えてなかったと思うけど。ただ、もしも僕が抱いてる感情が恋だったら、こんな風になるのかなって書き写しただけだよ」

「そっか……」


 更紗はしゅんと肩を落とした。


「でも――」


 僕は呼吸を整えて、彼女の瞳を真っ直ぐ見つめて、言う。


「この小説を書いてる時は、ずっと更紗のことだけ考えていた。ずっと更紗のことだけを想っていた。ずっと更紗とちゅーしたいなって妄想してた」

「っ……⁉︎」

「だからこの小説だけは、確かに、。他の人が介在する余地なんて少しもないくらい、更紗への想いがいっぱい詰まってるんだ」

「そ、それって……」

「これは世界にたった一人、更紗のためだけにある小説なんだよ」


 僕は矢継ぎ早に言葉を紡いでいく。

 堰を切ったよう、ぼろぼろと感情が溢れていく。


「正直小学生だった僕には好きとか恋とかなんてよくわからなかったよ。中学に上がって周りにカップルが出来始めたけど、僕はどこか蚊帳の外だったし、小説の中でしか恋がわからなかった。筆舌に尽くし難いモヤモヤした気持ちはずっとあった。けど、これが恋なのかはわからなかった。わからないまま、僕は更紗に酷いことをして、決別してしまった。疎遠になってからは、曖昧な感情に名前を付けようとも思わなくなった」


 視界が涙でぼやけた。

 袖先でゴシゴシと目元を拭いて、「でも」と続ける。


「今ならハッキリとわかるよ。この感情が恋なんだって。あの時、自己満足の塊みたいな小説を書いたのは、更紗が好きだったからなんだって。更紗を想った結果が、この処女作に繋がったんだって」


 自分でもなにを言っているのかわからなくなる。

 話の順序が入り乱れて、筋が通っていないかもしれない。複雑な気持ちが交差して、伝えたいことが矛盾しているかもしれない。

 だけど、要するに、僕が伝えたいことは――


「だからさっ、更紗も僕のことを想って小説書いてよ!」


 それだけだ。

 好きな人を想って小説を書くのは、凄く楽しい。

 更紗に今必要なのは、技術や筆力なんかじゃなく、作品を作り上げるためのモチベーションだと思ったから。

 だから僕は何度でも伝える。


「僕が好きなら僕を主人公にしてよ! 僕が好きなら僕を想って書いてよ! 僕が好きなら僕のために作品作ってよ! 更紗の全部を僕に費やしてよッ!」

「っ――――」

「……だめ、かな?」


 一方的に更紗に抱き付いて、彼女の耳元で囁くように訊ねる。

 本当は答えなんて聞かなくてもわかっていた。

 だって、その気がなければ、更紗がこんなにも号泣するはずもない。


「ぅんっ、うんっ、わか、ったよ……わた、し……ぁっ……凜々人のため、に……小説書く、からぁ……」

「あり、がと……っうぁ……あ、りがと……」


 きっと、更紗は強く立ち上がると、そう思った。



***


 すっかり泣き止んだ更紗が、僕の肩に頭を預けて言う。


「明日からちゃんと学校行かないとだね」

「ああ。そういえば、もうすぐテスト期間だよ」

「うっ、頭が……」

「おいこら」


 更紗のおでこにデコピンを入れると、「いったぁ」と両手で抑えた。

 そんな彼女の隙を、僕は見逃さなかった。


 ――ちゅ。


 更紗の白い頬に、僕の唇を当てた。

 みるみると頬が白色から赤色に変色していく。

 やっぱりあの小説みたいに、唇と唇を重ねるのは難易度が高い。


「あ、え、ぅあぁ〜〜〜〜〜〜」


 だけど、今はこれでいい。

 長い創作の道を歩み、二人がゴールに辿り着いた時、本当の答えを出そうと。

 僕たちはすれ違ったって、喧嘩したって、何度だってやり直せると、たった今証明したばかりなのだから。

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