イルリガートルの檻

悠鶴

イルリガートルの檻

 眼前に迫る肉塊に、湧き上がる苛立ちがフォークを突き刺した。高い天井に、汚らわしい嗚咽と叫び声が曇って反響し、木苺の如く零れ出る血を俺は真っ直ぐ見つめていた。フォークをゆっくりと引き抜けば巨大な肢体は暴れ、白い壁や床に不浄の深紅が散らばってしまった。

 辺りは一瞬の静寂、後に喧騒と引き裂いたような悲鳴。桃のタルトが無残な姿になっている。優雅な食事会が台無しになってしまった。この男のせいで。今、腕を抑えながら立ち上がろうとしている、薄汚い権力者。臭い笑みを引っ提げて、甘い汁ばかり啜ろうとした溝鼠。俺の仲間を愚弄し、俺だけを手篭めにしようとした卑しい男。

 気が付けば、我に返った護衛やら部下やらが、俺を拘束しようと動き出していた。銃や剣は置いてきた。本来は平和な外交の予定だったから。隠し持っていたナイフ一本で応戦する。普段の半分も力が発揮できていない。多勢に無勢。急所を一撃で仕留める他にない。

 それでも大立ち回りをして、雑魚は全員消し去った。ナイフはもう使えない。肩で息をする。辺りの惨状は、目の前が掠れていてよく分からなかった。ただ、薄気味悪い笑い声だけが背後から聞こえた。男はまだしぶとく生きていて、まるで勝ち誇ったように──そう、自分が勝者であるかのように、けたたましく笑っていた。

 俺はそれに何処か薄暗いものを感じて、男に詰め寄った。早く殺さなくては。一刻も早く。俺が聞きたくないことを聞いてしまわぬうちに。

「貴様、何故笑っている」

 男は口角を殊更に吊り上げながら、残念だったな、と言った。俺は眉根を寄せて、そのまま無言で禿げ上がった男の頭をかち割ろうとした。

「お前の仲間は、今頃全員殺されているだろうな」

 真意が汲み取れない。脅しか、強がりか、それとも戦略性のない悪口か。まさか、本当に……。俺は蹴り上げた足を力なく下ろした。

「貴様、今更何を言っている? そんなことを言わずともすぐに殺してやるというのに」

 腹の底から嗄れた声が出た。この男の手が、数十分前には自分の頬に触れていたことを、今や激しく恨んでいる。俺を見る目が明らかに爛れていたことに、もう少し早く気付くべきだったのだ。悪態をつく。

「溝鼠如きが俺を手に入れられるなどとはゆめゆめ思うな」

「私の言うことが信じられんらしいな。無線はどうだ? お仲間達の声は聞こえるか?」

 嘲笑うように言われて、咄嗟にこの男を切り刻みたくなる。が、無線からはノイズの音しか聞こえない。呼びかけても、誰も返事をしない。そう、まるで管制室など何処にもなかったかの如く。嫌な汗が額を伝う。

「まさか」

「そう。そのまさか、だよ。お前ひとりをおびき出したのはある種口実で、本来の目的はお前たちの本拠地を殲滅すること。お前ひとりを残して、全員消滅させること」

 間髪入れずに発せられた言葉は、余りにも非現実的だった。奥歯が上手く噛み合わない。脳髄を鷲掴みにされた感覚を覚えて、膝の力が抜け落ちる。胃の中からせり上がってくる何かを鎮めるため、血塗れの右手で口を覆った。

 我々の軍において、最高戦力は俺だった。指揮官としても、実働部隊としても、実力は群を抜いていた。故に、仲間たちは脆弱だった。彼らは彼らなりに努力をしたが、追い付けない領域というものは少なからずあった。だから、この手で、この身一つで、ありとあらゆる脅威から彼らを守るのが俺の役目だった。こうして外交に赴くのも、一番頭が回るからで、それはよくあることであった。

 それなのに、まんまとおびき出されて、俺以外全員が死んで――何だこの有様は。

 目の前が暗くなって、揺れる。耳の奥から、ガラスを掻いたような甲高い音がしている。何かに腕を掴まれたような、そんな気がして振り払おうとした。瞬間、首元に激痛が走る。


 ぼんやりとした目を開くと、白い天井。

 脳が処理を終えるのに時間を要した。仰向けに寝て、布団をかけられている自分の左右にぶら下がる、沢山のイルリガートル……恐らく、点滴。分量としては異常のようにも見えるが、全て自分の腕に繋がれている。ここは、病院だろうか?

 ただ、小さな窓と、今寝ているベッド、小さな机と椅子以外に何もない部屋のように見える。ドアは入り口であろうものが一つと、トイレと書かれたものが一つ。壁も床も天井も白い。微かに色づいた点滴が、異様な存在感を放っている。己の細くなった腕を見て、少しぞっとした。

 腕の点滴を全て引き剥がして、ベッドから起き上がる。変わってしまったのは腕だけだろうか。トイレの鏡を見た。そこには、少しやつれた青年がいた。流れるような銀の髪、深い海のような目。変わらないものはあったが、頬は青ざめ、やせ細り、全体的に生気を失っていた。これが自分なのか。そう独り言ちれば、以前の勇気と自信に満ち溢れていた自分が、まるで他人のように思えた。

 あの男は、俺の仲間は全員死んだ、と言った。しかし、果たしてそれが真実なのであろうか? あの時、実は無線の電波を妨害されていて、俺は騙されただけなのではないのだろうか。本当は全員無事でいて、拠点に襲撃なんぞまるでなかったのではないだろうか。

 微かな光明が差して、鏡の前の青年は、その瞳を爛々と輝かせた。そうだ、きっとその通りに相違ない。あの男は、何の目的かは知らぬがこの俺を手に入れるために嘘を吐いたのだ。仲間を失ったと思い込んだ俺が弱体化するのを狙っていたのだ。ここは、おそらくあの男の管轄にある施設か何かであろうが、抜け出すことぐらい赤子の手をひねるが如く簡単にこなせる。

 勇み足で小さな窓の傍による。入り口らしきドアには厳重にロックが掛かっていた。しかし、この窓には何も掛けられてはいない。それどころか容易に開いた。白いレースのカーテンが風になびく。薄い病衣しか着せられていなかったので、少し肌寒い。この部屋は運良く一階だったが、もし二階以上であれば靴を履いていない以上、足が使えなくなっても仕方がないと覚悟していた。

 こっそりと地面に降り立つと、景色に見覚えがあった。どうやら、今までいたのはあの男の屋敷らしい。食事会に呼ばれた時に、あの趣味の悪い豪勢な門を通った記憶がある。茂みに隠れながら、柵の隙間を縫って進む。幸いなことに、誰にも見つからなかった。敷地から何とかして這い出たら、後は簡単だ。拠点まで、そう遠くはない。

 だが、歩みを進めるうちに、異変に気付かないわけにはいかなかった。硝煙の匂いが鼻につく。土埃が顔を覆った。地面には、戦車が駆けずり回った跡。遠くに火の手が上がっている。戦争でもあったかのような光景。それでも叫び声はなくて、辺り一帯を静寂が支配していた。不吉な予感がして、走る。恐ろしい考えから逃げようとした。だが、振り払おうとしても纏わりついて離れない。そして、崩れたレンガの残骸。よく見ると、それはかつての拠点だった。

 仲間の姿などどこにもなかった。それどころか、誰の姿もなかった。このただ広い世界の中で、自分一人だけが実体を持っていたまま、空虚だった。

 感情の洪水が襲ってくる。何も受け止められないまま呆然と立ち尽くした。涙は流れたのだろうか? それすらも把握できなかった。

 ふとした時、視界の端に金色の欠片を捉えた。見覚えのあったそれを拾い上げる。間違いなく、彼の物だった。俺の右腕で、いつも無茶を言っても聞いてくれて、たまに制してくれて、いつか感謝を伝えたいと思っていた男。そいつが肌身離さず付けていた指輪。その指輪、俺にくれないか? こんな単純な言葉がずっと喉に突っかかって、結局言えなかった。まさか、こんな形で貰い受けることになろうとは思うまい。そして、こんな形で別れを告げることになろうとも。

 彼には生きていてほしかった。否、生きている。指輪だけ残して、今でも生きているのだ。そう思わねば、狂ってしまいそうだった。これは何かの脅かしで、いつも彼をからかってばかりの俺に仕返しするために、彼が仕組んだことなのだ。だからほら、いつものように笑って、馬鹿にして、名前を呼んで。そう、名前を。名前を、呼んでほしい。


「 」

 嬉しくて、胸が張り裂けそうな思いがした。彼は生きていた! それだけで、今までの絶望が全て、洗い流された。彼の顔を見たい。彼に触れたい。彼のその大きな腕に包まれたい。溢れ出る思いが止まらなくなって、振り返る。


 そこにあったのは、暗闇と絶望だった。

 あの男だった。何故ここに居るのか、どうして俺を見つけ出したのか、そんなことまで考える余裕はなかった。ただその醜い表情と体躯に、憎悪の情が沸いた。

 男は俺の腕を掴んだ。

「気色の悪い下種野郎。その腕を離せ!」

 叫んだ、つもりだった。声が出なかった。口だけが動いて、声帯から音が発せられなかった。

「なんで? どうして」

 それも、音にならない。男にどれほど罵詈雑言を浴びせても、全て相手には届かない。そして、掴まれた腕を見て、やせ細った自身の体躯を急に自覚してしまった。湧き上がる寒気が、一気に全身を伝う。今の俺は、何者でもない。この男に殴られでもしたら、すぐに屈してしまう。強靭な精神も肉体も奪われて、一体何ができようか。声も出ないのなら、抵抗もできない。その事実が、脳髄の底から俺を侵食して、理性を決壊させた。

 子供のように泣きじゃくる俺を、俺は何処か鳥瞰しているようだった。男に口を塞がれ、車に押し込められた。さながら手慣れた誘拐犯のようで、ひどく滑稽だった。殴られているうちに、俺は男の目的を察したのだ。結局、男は優秀な人間を囲い、ひいてはその人材を政治的に利用するために行動を起こしたのではなかった。強いて言えばかなり個人的な、それも性的な欲求から、一人の青年の身体を限界に至るまで壊したのだった。生意気な、実力も自信もある強者を、弱者の側に引きずり出して踏みにじることが、男の趣味で、俺はその何人目かの被害者に過ぎない。

 思えば、あの点滴の量、そして色は普通ではなかった。現に、壊れた青年は、おれは、その管をまた全身に張り巡らせたくて仕方がなかった。白い部屋に閉じ込められて、一生外に出られなくてもいい。最高にハイになろう!

 イルリガートルの檻が、おれをまってる。

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