シジョウ
柿.
絵
チケットを係員に渡して手を消毒し中に入る。照明はできる限り絞られていて人
はまばらだった。順路にそって歩を進める。こうやって外出するのは久しぶりだっ
た。この油絵の展覧会は何人かの日本人画家によるものだけれど、わたしは参加した
画家の名も代表作も知らない。ただ先日読んだパンフレットに載っていた絵が目に留まったのだ。
画力市場というものはここ何年かで凄い注目を集めている。才能の売買、何でもありな世の中になってしまった。とはいえこれがなければわたしは助かっていない。
両親のいないわたしには兄が唯一の肉親だった。だった、と言うと死んでしまっ
ていると思われるかもしれないけれど、死んでしまった。兄は売れない画家でわたし
たちは貧しかった。そんな中、わたしが奇病に罹った。治すには法外な金が要った。
わたしたちの持つ物で最も高価な形見の腕時計ではしばらくの入院費しか賄えずとうとう兄は才を手放すことにした。まったく売れなかった兄の才能はかなり高価で査定されたらしく、時計の何倍にもなった。結果わたしは助かった。退院当日これを兄から聴いたとき人生で一番泣いて謝り倒したけれど、ずっとヘラヘラした調子で「ゴッホは死んでから認められたんだ。それに比べたらおまえを助けられたんだからこれでよかったんだよ」
ばか兄だった。「本来絵で人を助けることなんかできないんだ。いい時代になったよ」
かくしてこの救済で兄の才能は証明された。
半分くらい見終わったけれどいまのところ目的の絵はない。じっくり見るつもりもないので歩みを止めるつもりもない。
兄は絵に関する才能を上限いっぱい換金してしまったから画力は5歳児並になり筆を持つことにさえ強い不快感を抱くようだった。これは結構な社会問題になっているようだけれど、そんなことになるくらいならそんな売買、搾取を始めなければよかったんだ。
兄の絵はトリだった。正面に立って思わずほ、と息をはく。兄と違って芸術についてからきしのわたしは絵のことは全然わからないけれど兄の絵ということはわかる。ただ良さはわからない。いろんな色をぐちゃぐちゃにぬったくったような絵だった。作家の名前は知らないものだし、タイトルもぱっとしなくて笑ってしまった。ネーミングセンスはないらしい。ただこの人の手に兄は生きている。本来作家になんてなれないような人間の手の中に。兄はわたしの命だけでなく、この人の夢も叶えたのだ。
――この世にいない兄はわたしより長寿になりそうだ。
シジョウ 柿. @jd2020
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