火事と幽霊、執着
黎井誠
火事と幽霊、執着
その土地は更地になっていて、ぱっと見ても火事の痕跡は見つからなかった。庭の木も撤去され、狭い公園ほどの広さの土地に渡って茶色い地面があるだけだ。通りかかってその様子を目にした彰一は、思わず身震いして白いマフラーに顔を埋めた。寒さもあるが、何の痕跡も見当たらないのが却って不気味だったのだ。
小学校への通学路の途中にあったその大きな一軒家は、数か月前に全焼した。田畑に囲まれた家だったので、周辺への被害はほとんどなかった。住んでいたのは倉田という苗字の家族で、父親、母親、男の子の三人だ。その男の子は洋介といい、彰一と同じ小学校の上級生だった。彼は酷い火傷を負って病院に運ばれたらしいが、一命は取りとめたと聞いている。
上級生ではあるが、彰一は洋介と近所付き合いや学校で何度か会ったことがある。彼は悪戯好きで、彰一にも手の中に潜ませていた小さな蛙を飛び出させるという悪戯をしたことがある。しかし、彰一が驚きすぎて腰を抜かしてしまい、それを申し訳なく思ったのか、以降は会っても仕掛けてくることはなかった。
火事が起きたのは深夜のことだったが、彰一が消防車と救急車のサイレンで目を覚ますことはなかった。しかし夢の中でその唸るような音を聞いていたらしく、起きたときには既に近くで火事があったことを知っていて、嫌な気分のまま登校していったのだ。その後になって被害に遭ったのが洋介だと知り、火事をより身近く感じてしまって数週間ほど憂鬱な気分が抜けなかった。しかし病院に見舞いに行くほど仲も良くなかったので、詳しい様子も分からず、結局は忘れようと努めるほかなかった。
だから彰一は、暫くこの家があった道は避けて登下校をしていたのだが、今日下校するとその別の道は工事中になってしまっていたのだ。火事への恐怖と洋介への心配を思い出し、更地を横目に彰一は足を急がせようとした。と、
「なぁ、彰一くん」
声変わり前の男子の声に呼びとめられた。振り返ると、その家があった土地の前の道に洋介が立っている。癖毛で、すこしつり目。白い肌に火傷の跡はまったく見当たらない。火傷が酷くて病院へ運ばれたとの話だったけれど、もう完治したのだろうか。数か月経ったならそんなものなのだろうか。それにしても、どこにいたのだろう。気配が全くなかったので気が付かなかったが、まあちょっとだけ驚かそうとでも考えて隠れていたのかもな。
首を傾げつつも、彰一は洋介が元気そうなことに胸を撫で下ろした。
「あ、洋介くん、こんにちは。あの、すごく火傷したって聞いたけど、無事みたいでよかった……」
そう言いながら彰一は一歩、洋介と話しやすい位置に行こうと近づく。すると洋介は一歩、彰一を避けるかのように後ろに下がった。
「どうかした、したんですか?」
以前どうやって話していたが分からなくて、慌てて敬語を付け足してしまった。
「敬語なんて使うなよー。中学生でもないしまだいいよ」
「う、うん」
白い歯を見せて笑う洋介に、つられて彰一の口角も上がる。上手く話を逸らされたような感覚がしつつも、再び尋ねる勇気はない。きっと変に近づいて、まだ治ってない怪我とかに触られたら嫌なんだろうな、と一人頷く。
「ところで、さ。頼みごとがあってさ」
洋介が気まずそうに言う。
「頼み事? 良いけど、どんなこと?」
彰一が聞き返し、洋介は続きを話そうと口を開いたが、一度閉じてしまった。そのまま視線を泳がせる。何かに迷っているようだ。
「どうしたの? なんか難しいことだったりするの?」
「いや、あー……うーん、まあ相談に乗ってほしいだけだから難しくはないけど、うーん」
はっきりしない洋介。彰一は、洋介が答えを出すまで待とうと思い、しかし沈黙は気まずいので、俯いて足元辺りを見つめた。
「ん、あれ……?」
何かがおかしいような気がして、彰一は顔を上げる。洋介と視線が合う。
洋介は、哀しそうに眉根を寄せ、口角を上げて微笑んで見せた。
「気が付いちゃったかな」
その声はがらがらに嗄れていた。先程喋っていたのと同一人物とは思えない程に。驚いて彰一が後退ると、洋介の服が黒くなって消え去り、その下の皮膚が現れた――赤黒く変色して爛れた皮膚が。所々に白いままの肌が残っているのが無駄に現実味を帯びていて、彰一には余計に怖かった。
夕方の通学路の真ん中で強い西日に当てられても、その足元の地面に影がない――いや、思えば最初から彼に影は存在していなかった。
「俺、死んじゃったみたいなんだ」
嗄れた声のまま、洋介らしきものが言った。彰一は目の前のショッキングな出来事に、声が全く出ない。手も足も金縛りにあったように動けない。今のは何なの、悪戯? マジック? じゃあ影が無いのは何? 幽霊なの? 洋介くんは死んでいるの?
洋介らしきものは自分の嗄れた声に気付いたのか、焼け爛れた身体を見下ろして焦ったように、
「あ、ごめん、この姿だと怖いよね」
と元の声で言ってその姿を元に戻し始める。火事に遭う前の、健康体の少年の姿。癖毛、つり目、白い肌。グレーのカーディガンと黒い長ズボン。裸足。現れない影。
彰一はずっと動けない。理解が追いつかないのだ。
「怖がらせてごめん……どうにか生きてる時の姿でいたかったんだけど、気付かれちゃったから気が緩んで」
幽霊でも気が緩んで失敗するのか、と思ってやっと、目の前で起きたことに彰一の体の反応が追いついて、「あ、ああ……」という、悲鳴になり切れなかった呻きが口から漏れた。早いペースで深い呼吸を繰り返し、跳ね上がって早鐘のように鼓動する心臓に痛みを覚える。
その場に崩れ落ちるように座り込んだ。これは夢なのか、洋介くんは死んでいたのか、この道を使うんじゃなかった、今日の給食美味しかったな、噂が立ってないのはなんでだろう、幽霊って存在するのか、明日の授業なんだっけ……。
ぶつぶつと、纏まらない思考を呟く。頭上から洋介の声が降って来る。
「出来なくてもいいけど、俺がさ、成仏する手伝いを……」
申し訳なさそうな声だった。その言葉にはっと顔を上げると、
「ふざけるな!」
迫力のある、低く嗄れた声が彰一の背後からして、辺りに響き渡った。
「ひっ!?」と彰一は肩を強ばらせて息を飲む。洋介は声のした方を見つめて「あ……」と驚いたように目を見開く。そして唇を噛み、俯く。
「その子に近づくな」
再びその低い声が言った。恐ろしかった。
またも固まった彰一の目の前で、洋介は空気に溶けるようにゆっくりと消えた。最後、彼は思い詰めたような顔をしていた、ように彰一には感じられた。何かをまだ迷っているような、悩んでいるような。
「大丈夫だろうか」
先ほど辺りに響いた声が言った。彰一は、ぱっと首だけで振り返る。
そこにいたのは老人だった。短い白髪に白い髭、ぎょろりと大きいつり目、皺だらけの顔。背筋が伸びているが、その体は宙に浮いていた。
思考が麻痺したのか、彰一はもう驚かなくなっていた。また幽霊かあ……。
「あの、貴方は、誰ですか」
「ん? ああ、守護霊だ」
「……守護霊?」
「……そうだ。お前の守護霊だ」
老人は頷いた。
彰一は以前友達の家で読んだオカルト系の本の内容を思い起こす。確か守護霊って憑いた相手を守る霊で、その人の先祖であることが多いんだっけ。ということはこのお爺さんは俺の先祖とかだったりするのだろうか。
「ひょっとして、俺のお祖父ちゃん……?」
この言葉はほぼ当てずっぽうだ。彰一が生まれる前に、父方の祖父も母方の祖父も故人になっていたからだ。家に仏壇はなく、彰一は二人の顔も知らない。
そんな彰一の言葉に老人は「そうだ」と肯定する。
彰一は正解したことには驚かなかった。
そうか、お祖父ちゃんが幽霊に襲われそうなところを助けてくれたんだ、と一人納得している彼に老人は再び口を開く。
「まあなんだ、今後はさっきの霊に耳を貸さないようにするんだ。成仏すると困ったことになるからな」
彰一が素直に頷くと老人は、用は済んだ、とでも言いたげに頷き返し、先程の洋介と同様に溶けるようにその場から消えた。
その場で座り込んだまま、彰一は先程までの出来事を思い返した。洋介くんが現れた。幽霊だった。成仏させてほしいと言ってきた。俺のお祖父ちゃんの幽霊が追い払った。
どう考えても現実的な経験じゃない。でも本当に今あった出来事だ。ひょっとして夢の中なのではないか、と思ったが、座り込んだまま動かさなかった足の痺れがそうじゃないと言っている……。
ぐるぐると彰一は考え続けた。何となくひっかかることがあるのに分からない。洋介くんは怖かったけれど、態度とか表情とかは優しそうだった。けれどもお祖父ちゃんは追い払った。洋介くんにその気がなくても、俺が関わったら危険なのだろうか。それに普通は成仏させる方が良いんじゃないか。そもそもさっき起こったことが夢でないなら本当に現実なのか、幻覚とかじゃないのか、まったく分からない。頭が回らない。
気が付いたら彰一は家に帰っていて、無意識のうちに家族にただいまを言い、夕飯を食べて、風呂にも入り、寝ようとしてベッドに潜り込んでいた。はっと明日提出の算数の宿題があることに気がついて、一旦帰り道での出来事について考えるのをやめた。宿題に身は入らず、計算をいくつも間違えながらもなんとか終わらせて、やっと彰一は眠りにつけた。
§
翌日、彰一は上の空で授業をやり過ごした。友達と話す気になれず、休み時間は寝たふりをしたり必要以上にトイレに立った。帰り道、洋介の家の前を通らなくて済む道の工事は、今朝と同様に終わっていない。ため息をついて引き返し、通りたくない、洋介の家がある道に入っていく。
そうだ、一気に走って通り抜けてしまおう。そう思い立った瞬間、
「こっちだ!」
昨日の老人の幽霊の声がした。
彰一の耳に声が届いた瞬間、反射的に道路の真ん中に飛び出す。声が聞こえたのはどこからだろう、と振り返ると、道の向こうから大きなトラックがこちらへ走ってきている。
彰一は進行方向を向き直して右端に避けようとする。
が、右足が動かない。足枷が地面と結びついているみたいな感覚がする。
あれ、と驚いて右足を振り返り見ると、太腿を半透明で皺だらけの骨ばった手に、がっしりと掴まれていた。
両の手だけが見えていた。腕とか胴体は無かった。
彰一の心臓が飛び跳ねて、反射的に「うわああああ!」と声が出る。その途端、半透明の手首側から両腕が生え、肩が見え、彰一の足にしがみつく胴体と、実体があるかのように地に着いて踏ん張る足と、顔が姿を現した。
それは昨日の老人の幽霊、先程の声の持ち主だった。
鬼のようにどす黒い赤色の肌色になった老人は、鬼気迫る迫力で彰一を見上げ、
「わしの孫を、可愛い洋介を、勝手に成仏させるな! 殺すな! まだ、まだあの子は生きているんだ!」
憎悪に光る黒い眼が彰一を射抜く。ぎょろりと見開いたつり目だった。眉間の皺一本一本に、怒りが刻まれている。
「生霊でも、未練がなくなれば成仏する。さすればやがて体も死ぬのだ。そんなことを許すものか。殺人者になる前に死ねることを寧ろ感謝するがいい、ショウなんとかとかいう少年よ」
歯の根が合わずにがたがたと音を立てるが、彰一は足も首も動かせない。老人の迫力が恐ろしくて、老人の言葉の意味が噛み砕けなくて、どうすればいいか分からなくて、だから迫りくるトラックの音にも気づけない。
キィーッと甲高いブレーキ音。
彰一の意識が暗転した。
§
目を覚ますと、白色しか見えなかった。天井と、カーテンと、細いカーテンレールに映るその二つの白色。
眼球だけを動かして周りを確認して、あ、ここは病室か、と洋介は悟った。全身に包帯が巻かれている感覚に気が付いて、成功したんだ、と安堵する。元の体に戻った。生き返れた。
火に囲まれて、暑くて熱くて、怖くて、熱くて……。そうして洋介は意識を失っていた。意識を取り戻したらもう身体から魂が離れていたので、洋介は自分が死んだのだと勘違いしたのだ。
死んだら成仏しなくちゃいけないんじゃなかったかな、と思った洋介は未練をなくそうとした。だが『もっと生きていたかった』という感情以外はなく、晴らし方が全く分からなかった。自分が死んだことはすごく悲しくて、もっと友達と笑ったり家族と過ごしたり、大きくなれば結婚したり子供ができたり、どこかの会社でお父さんみたいに仕事したりしてみたかったとは思うが、全く具体的ではなかった。取り敢えず成仏させてくれそうな霊能力者などを探そうとするも、何故か焼けた家の敷地から外には、前の道にまでしか出られない。この家は小学校から少し遠く、同じ方面から通うのは下級生の彰一だけだった。一度悪戯を仕掛けたらすごく驚いていたっけ、と洋介は思い出した。
洋介は、彰一くんが前の道を通ってくれたらもしかしたら自分が見えるかもしれない、という希望に縋り、彰一を待ち続けた。平日の朝と夕方、小学生が通学する時間帯に。信じてもらえないかもしれないし、そもそも見えないかもしれないけれど、これしかない……。
そして数か月後、彰一がやっと前の道を通ったのだ。
しかし洋介の成仏は、洋介の祖父の霊によって妨害された。確かに、彰一くんに迷惑を掛けるのも申し訳ない……。
彰一と接触し、祖父の霊が突然に姿を現して以来、何故か洋介は家の敷地より外に出られるようになった。それに気づくと洋介は近くの寺に行って、僧から自分がまだ生きていることを知らされ、魂のような霊体のような自分の状態を、元に戻してもらったのだ。
生霊であった頃の記憶を思い返して、洋介は医者や看護師を呼ぶことより先に、彰一を心配して考え込んだ。祖父の生前の、自分への愛情――というより執着を思い出したのだ。自分が成仏していたらきっとそのまま死んでいた。それを知っていたから祖父はきっと妨害したのだ。もし彰一のことを『洋介を成仏させて殺そうとした』人物だと認識していたら……。
いや、さすがに祖父でもそんなことはしないだろう。まさか、ね。
洋介は嫌な予感を抑え込んで、首を振った。そうしてからやっと、誰かを呼ばなくてはいけないことに気が付いて、ナースコールを探した。
火事と幽霊、執着 黎井誠 @961Makoto
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