第11話 鏡と博士の陰謀
鏡と博士の陰謀
薫が由香に双子の妹が居ること知ったのは、随分後の事であった。その日の講義も終わり久しぶりに何もなく帰宅出来そうな気がしていた。その一つの理由として、今週末は由香が検査入院していると言う事実もあったが、しかし夕方近くに成って、帰りすがりに立ち寄って欲しいとの内容で由香の母から連絡があった。薫は、何時もの週末の様に公園を突っ切って、今日は由香が居ない西園寺家に向かっていた。由香に何か有ったのかとも考えたが、そんな深刻な口調でも無かったし、どちらかと言えば明るい雰囲気だった。大分日が伸びた関係で、西園寺家の門に付いた時刻でも明るく、いつものメイドがこちらへ向かって来るのが見えていた。
「いらっしゃいませ。」メイドは丁寧に挨拶して、薫を招き入れてくれた。稽古の有る日は右の離れに直行するが、今夕は母屋のエントランスホールにある応接用のソファーに座った。程なくして、さっきのメイドが紅茶を運んできてくれたが、由香の母はもうじき来るとの伝言を残して去っていった。馴染みの家とは言え、薫達、一般的な人間からすれば、この空間は異様に広い。家と言うより、何処かのホテルの様な気さえする空間に、今日はポツリと座らせられて見ると、何だか寂しい感じがしていた。何時もなら、待ちかまえた様に、直ぐに由香が寄ってきては、薫の右隣に座っていたが、薫はその空虚な空間に少し違和感を覚えながら、紅茶を口に運んだ。四―五分して、由香の母葵がやって来た。いつ見ても葵は、年より若く見えて、由香と一緒の時は、彼女の母と言うより姉の様にすら思える程であった。
「および立てしてご免なさい。今日は、会って置いて欲しい人物が居るのよ。」そう言ってから、薫を奧の部屋に案内した。そこは由香の部屋で、薫としてはあまり入りたく無い所でもあった。この部屋に入ると大体長くなる、結局終電に間に合わず、従兄弟の綾佳のマンションに泊めてもらう羽目になると言う既成事実がある場所であった。
「でも由香は入院中ですよね。」薫が、不思議そうに葵に訪ねると
「ええ、そうよ。まあ、中に入って見て」葵は半ば強制的に薫を部屋に入れた。
由香の部屋は前室部分とまだ見たことは無いが、奧の寝室部分に別れていて、前室には由香のお気に入りの長椅子と幾つかの縫いぐるみ達が置いてあった。薫はこの部屋に入ると、自分が不思議の国のアリスに成った様な気分にさせられる空間だった。そんな既視感の続きかと思える様に、由香がいつもの様に右隣に座って来た。
「ええ、病院じゃ無かったのか?」薫の問いかけに、少し間を置いてから、葵と隣の由香が笑い出した。
「やっぱり、分からなかったでしょ。私の勝ちでしょ、お母様!」由香の声にしては、溌剌とした明るい口調であった。
「ご免なさい、一寸試して見たのよ。」葵が笑いながら
「この子、由香の双子の妹なの。」
「ええ・・!」
「初めまして、由紀です。姉が大変お世話になっております。」
「この子は、ロンドンの学校に行っていて、神学を学んでいるの。」
「神学て、キリスト教の?」
「うんーん、キリスト教だけじゃなくてもっと幅広くて、宗教学と言った方が良いかな。」
「宗教学?」
「そう、一応社会科学の分野よ。宗教の発生から生い立ち、そして衰退と変革、最近では
数学の解析なんかも利用するわよ。」
「数学て、たとえばトポロジーとかカオス理論とか?」
「うん、複素関数論やフラクタル解析なんかもね。社会一般の現象まで広げてしまうと、変数が多くなり過ぎるので、宗教と言う分野に限定して解析してるのよ。」
「ふーん、面白そうな勉強をしてますね。」
薫は、暫く由紀と彼女の学校の事や、由香との間柄の事を話していたが、夕食の準備が整ったとの葵からの伝言で、ダイニングへ向かった。
由紀を紹介された翌週から、夏休みに入っていた。休みの中盤には演劇サークルの合宿が計画されていたが、それまでの間、薫は特に予定を入れておかなかった。それは、由香の気まぐれを考慮してでもあったし、母の都合で何時田舎に帰るとも言い出しかねない状況も考えてとの事だった。
予想通り、週末ではなかったが由香から連絡があり、水曜日に近郊にある、大きなテーマパークに行くことになった。執事の吉山は休暇を取っているとの事で、迎えに行けない旨と待ち合わせ場所と時間を指定してきた。まあ、由香にしては珍しいなと薫は思ったが、そう遠くも無いし、電車の方がどちらかと言えば気が楽でもあった。それでも一応緊急事態のことを考えて、GPS携帯と主治医の緊急コールは準備しておいた。
由香は待ち合わせ場所の鉄道の駅前に居た。目印のテーマパークのキャラクターが付いたポールの前に一人ぽつりと立っていた。
「由香も電車で来たのか?」
「ああ、吉山さんが休みだからな…」
「ふーん、病院の方は如何だった、検査疲れしてないのか?」
「ああ、大丈夫だ。何時もの定期検査だからね。」
「それで、今日は何で此処なんだ?」
「ある博士の意思だ。」由香の言葉は例によって要領を得ない短い説明だった。
「ふーん、でもここ苦手なんだよな。由香の部屋もそうだけど、ここのアトラクションとかて不思議の国のアリスの世界みたいで、何だか迷宮に迷い込んで出てこられなくなりそうで!」薫のその言葉に、珍しく由香が噴出しながら笑った。
「あれ、前にも言ったこと無かったっけ。まあ、良く言う例え話だからな。」
二人がパークの敷地内に入るためにゲートに並びだすと、朝から怪しかった空模様がさらに悪くなってきた。
「これじゃーいつ降り出すか分からないな。」そう言いながら薫が携帯用のビニール合羽と折りたたみ傘を準備すると、由香も傘を出し始めた。
「今日はやけに用意が良いじゃないか。いつもは吉山さんに全部準備させてるくせに。」
彼女は無言のまま、その傘をショルダータイプのバッグにしまい込んだ。
平日では有ったが、いつもの様に混雑していたそのテーマパークに何とか入場すると
「取りあえず何所へ行けばいいんだ。その博士の意志とやらを感じる事ができる場所わ。」
薫は、既に気分が悪そうな顔色で、由香に訊いた。由香は、薫の顔を覗き込みながら、
「本当にダメなんだね。」
「前から知ってるだろうが・・・」
「おう、そうだ、悪いと思ったが、お告げが此所へ行けと有ったんだ。取りあえず何処かで休もう。」由香は、空いていそうな店を物色していたが、
「もう良いよ。それよりさっさと目的を果たそう。また、この間の様に座り込んで誰か訪ねて来るのを待ってるのか?」由香は暫く考えてから、
「なんせ初めてだからね。」
「お前、昔来たこと有るような事言ってなかった?」
「そうかぁー、それは間違いだろう。まあ、取りあえず彼処に行こう。何だか博士ぽいから。」由香が指示したアトラクションは、潜水艦で有名な少年冒険小説を舞台にした場所だった。
「最悪の場所だな。確かに博士ぽいけどな。此所に来ると必ず、既視感に襲われるんだ。」
「既視感?」
「何だか依然に此所で、この島て言った方が良いかな、暮らして居たような気がしてくるんだ。あのガラスの家で野菜や果物を作っていた。その時の臭いすら蘇る。」
「今日は、私じゃなくて薫に降りてきてるか?」
「何が降りてきてるんだ?」
「天使のお告げ!」
「まだ、何も聞こえないけどな。」
「そうか。」と言いながら、何時に無く楽しそうに、アトラクションに乗り込んだ。由香のはしゃぎ様とは対照的に、沈んで行く薫の様子に流石に心配なったのか、やっと空き始めたレストランで休憩に入った。
「お前、今日は変だね。僕を出しにして自分が楽しみたかっただけじゃないのか・・・・まあ良いけどね、お前が楽しければ。」薫に笑顔を戻ったのを見て
「薫は優しいね。」由香は、優しい笑顔で答えた。
「お前、本当に今日は変だな。」由香が薫の右手に絡んできたのを切っ掛けに、二人はまたアトラクションへと向かった。午後になって、ついに降り出した雨の影響も有ってか、一時の混雑は引いていたが、依然として人は多かったが、そんな雑踏の中に、薫は見覚えのある人影を見つけていた。
「綾佳さん!」その声に、相手も気がついたのか、手を挙げて此方へ向かって来ていた。
「誰?」由香が訪ねた。
「ああ、従兄弟の綾佳さん通称綾姉だ。週末良くお世話に成っている。」
「ほおー、ゆ、いやうちに泊まらずに、駆け込む所ね。あ、でも綺麗な人だね。」
「ふーんそうか、僕の母親似だけどもね。」
「へぇー、そうなんだ。」
「この間会ったろう、母とは・・・」
「ふーん、そう言えば似てるかな。」
綾佳は、ゆっくりと二人の側に近づいて、
「珍しいわね、アトラクション嫌いの薫ちゃんとこんな所で出会うなんて。」
「ああ、此方が学友の西園寺・・・」
「ええ、由香さんね。初めまして、西郡綾佳です。薫が何時もお世話になっております。」
「はあ、お世話に成っているのは此方の方ですわ。」
「一人ですか?」薫が訊くと
「たった今一人になって、たった今三人に成ったわ。お友達と来たんだけど、急用が出来て、今帰った所なのよ。」
「彼氏?」由香が笑顔で尋ねた。
「そうだと良かったんだけどね。昔からの女友達、都内に出てくる用事が有ったので、前から此所へ来てみたかったて言ってたから連れて来たんだけど、忙しい人だから・・・ちなみに、私と同じ行けず後家かな。」
「ええ、周りの男は見る目が無いね。こんなに綺麗な人なのにね。」由香が突っ込みを入れた。
「有り難う。」綾佳は嬉しそうに微笑んでいた。由香と綾佳は波長が合うらしくその後も話が弾んでいた。由香が中座している時に綾佳が
「結構面白い子じゃないの。薫ちゃんの話だと変わり者見たいな子だと思ってたけど。」
「うん、今日は、一寸変、何時も一寸変かな。その時々のお告げとかの状況で、降りてくる人物に合わせる見たいな所があるんだ。奈良に行った時は、末期ガンの中年女性に成りきってたし、福島の時は、絵本作家の少女だったな。」
「恐山のいたこか?」綾佳が笑いながら言った。
綾佳の参加で、生憎の雨と成ってしまった、ナイトツアーも楽しく落ち着いた時間を過ごす事ができ、花火やパレードは中止になったが、夜の雰囲気を楽しみながら、カフェやスイーツの店を回り、懐かしそうなゲームではしゃいだりした。そんな事もあって、こう言う場所が苦手な、薫も楽しい時間を過ごす事が出来た。
「私にも、綾佳さん見たいなお姉様がいたらな・・・」
「私も、由香ちゃん見たいな妹が欲しいな。まあ、妹じゃないけど、薫ちゃんと一緒になれば、一応親戚には成るけどね。」
「ふん、それいいね。」由香はまじめな顔をして言った。
「勝手に話し決めないでください。」薫は、怪訝そうな顔して言ったが、ふと母の同じ様な言葉は思い起こしていた。
結局、終園まで三人で過ごした後、タクシーを拾って、由香を送り、薫は綾佳のマンションに辿りついた。途中、由香は、西園寺家の入り口の前で、今日は楽しかったわと言って、綾佳に丁重にお礼をしてから別れた。綾佳がタクシーに戻り掛けていた時、薫が
「じゃー由香に宜しく。」由香の耳元で小声で話したのを
「え、気づいてたの!」
「途中からね。でも由紀ちゃんが楽しそうだったから、気づかない振りしてた。まあ、由紀ちゃんが楽しければ、きっと由香も楽しい筈だから。」由紀は少しの間、薫の顔を見てから
「薫君て本当に優しいんだね・・・綾佳さんには話すの?」
「ああ、そのうち話そうかな、でも、まだ由香と由紀ちゃんの関係も知らないから。」
二人がにこりと笑った後に、由紀が軽く薫の頬にキスをした。突然の事に驚いている薫に
「週末には、ロンドンに帰るけど、また付き合ってね。今度は由紀として。」そういって
門の中に消えていった。その後には、初夏の夜の闇にとけ込む様に、涼しい風がそよいでいた。
翌日は、図書館の休館日のため綾佳の仕事は休だった。昨日の変な疲れが出ていたのか薫はまだ寝ていたが、綾佳の
「そろそろ、起きませんか!」と言う声に反応して、客室として使っている和室から出てきた。洗面所へ消えて行く背中越しに
「モーニングにでも行きましょう。天気も良いし。」
「ええ、あの店のフランスパン美味しからね。」比較的元気な声で答えながら
「やっぱり、僕にはアトラクションは向かないな・・・ああ言う場所は苦手ですね、途中から綾姉が来てくれたから、助かったけど。」そんな薫の言葉に対して綾佳は
「由香ちゃんは楽しそうだったけれどね。」
「うん、彼奴が楽しければそれで良いんだけどね。」
薫は、由香に成りすました由紀の事を思い起こしながら、ふと本当に由紀だったのかとの思いも、寝ぼけた頭の中に過ぎった気がしていた。
濃い緑の葉を精一杯空に突き出した公孫樹達の出迎えもあって、頭の中の靄も晴れ始めて来ていた薫であったが、まだ由香と由紀の二人の存在の明確さにやや躊躇していた。
由紀と初めて逢った時には、由香が検査入院で居なかったし、由香に成りすました由紀がテーマパークに来たとき、最初の内は何の違和感も無かった。
『やっぱり、二人に同時に逢うしか無いのかな・・・』独り言の様に呟きながら、一寸大きめのボール様な器に入った、カフェオレを飲んでいた。並木が作る木陰の中にある、この店のオープンテラスは、平日の為か比較的空いている状態で、並木道を散歩する老夫婦や、ベビーカーを押す母親の姿が薫の目に付いていた。フランスパンの端に杏子ジャムを付けながら綾佳が訊いてきた。
「昨日の、由香ちゃんて心臓が悪いて梢叔母さんから聞いてるけど。」
「うん・・・その事でつい先日も検査入院してたんだけどね、まあいつもの定期検査らしいけど。」薫はその時に、由香の胸の傷を思い浮かべていた。そうか、傷で分かるか、とも思ったが由香ならともかく、由紀では無理だなと考えながら、由香の持病について話始め出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます