天使の笑顔

山本アヒコ

 

「はあ…………」

 ため息が思わずもれる。自分が今どんなにひどい顔をしているのか、簡単に思い浮かぶ。それは毎日毎日、鏡を見るたび見ているからだ。暗く沈んだ、私こそが不幸だと見るからに主張している顔。

 自分で望んでそんな顔をしているわけでは、もちろん無い。未来に待ち受けている絶望を感じて、どうしてもそうなってしまう。

 視線を胸元に落とせば、白いブラウスとチェック柄のリボンが目に入る。あれだけ憧れていたこの制服も、今となってはなぜこのブレザーとスカートを私が着ているのだろうと、後悔が次々に浮かんでくる。

 中学受験でこの有名私立学校に受かったときは、家族みんなでお祝いした。けれど通い出して半年もすれば、自分がどれだけ場違いな存在なのか自覚するようになった。

 まず、必死で勉強しなければついていけない。あれだけ苦労した中学受験より、普通の授業のほうが大変なのだから。教科書のページが、光のような速さで消化されていく。わたしは光どころか音速にもたどり着けずに置いてけぼりだ。

 受験を終えればもう塾にも行かなくていいと思ったら、授業についていくために週末には家庭教師に来てもらうありさま。まわりの生徒のほとんどは授業を苦にすることもなく、部活や趣味などで青春を楽しんでいる。

 背後から笑い声が聞こえた。アナウンスが響く駅のホームでもよく聞こえる、同年代の少女たちの笑い声。ああやって何の屈託もなく笑ったことは、中学生になってから一度もない。

「……もういやだな」

 意識していない声が出た。それは自分の心が発した、助けを求める声だったのだろう。

 私の足は電車を待つ人が並ぶ列から勝手に離れて行った。だれも並んでいない、停止した電車のドアがこない位置の場所へ立つ。

 つま先はわずかに黄色い点字ブロックに触れている。これ以上近づいたら危険という位置だ。そこを無意識に越える。

 点字ブロックに両足が乗る。スピーカーからのアナウンス。「まもなく電車がまいります」近づいてくる電車の走行音。ひざが一度かすかに震えて、小さく一歩踏み出せば、点字ブロックより足が線路に近づいていた。

 これ以上前に行ってはいけない。そう思いながらも、ホームから一メートル以上下にある線路から目をはなせない。

 また半歩、足が線路へ向かう。あと何十センチか足を踏み出せば、私の体は線路へ落ちてしまうだろう。なのに恐怖感がしない。

 音だけでなく振動が体に伝わる。電車がもうそこまで来ているということだ。

 手に持っていた通学鞄を取り落としてたが、それにも気づかず私はさらに一歩を踏み出そうとしたとき、体が後ろへ引かれた。

「危ないよ」

 穏やかな声が聞こえて思わず振り向いた私は息をのむ。

 私の右手首をつかんでいたのは、これまで出会った誰よりもきれいな顔をした少年だった。私と同じかいくらか年上に見える。少なくとも二十歳にはなっていない。

 突然の出来事に硬直していると、電車がホームに停車した。ドアが開く音とともに、待っていた人たちがいっせいに動きだす。しかし私はまだ動けない。

 やがて電車のドアは閉まり、ホームから動きだしてやがてカーブを曲がると見えなくなった。その時点でも少年に手首をつかまれたまま動けずにいた。

「あぶなかったね?」

 少年がかすかに首を傾け聞いてきた。肩まである髪の毛が、まるで一本一本踊るかのように流れる。わずかにたれ目で、それが整いすぎた顔にアクセントとなって表情を柔らかくしている。

 私の手首から手をはなした少年は、落としたままだった鞄をひろいこちらへ差し出した。催眠術にかかったかのようにおぼろげな意思で、のろのろと動いてそれを受け取る。

「…………」

 鞄を胸に抱えたまま、少年の顔から目を離せない。染めているのだろうか肩まであるブラウンの髪は、美しい光を放っているかのようだった。細いながらくっきりした眉と、高い鼻に肉厚な唇。北欧の有名若手俳優と言われたら信じてしまいそう。

 しばらく立ち尽くしていた私だったが、やがて意識が落ち着いてくる。

「あ、あの……」

「いま、きみは死のうとしてたでしょ?」

 口が中途半端なかたちで固まる。そんな私をまったく気にしていない様子で、穏やかな顔のまま少年はこちらを見ている。

「そんなことはやめよう」

 少年が再び私の手首をつかむ。

「あっ」

「さ、こっちへいこう」

 少年に手を引かれるまま歩き出す。学校へ行かなくちゃと一瞬思ったけれど、それよりも行きたくないという強い気持ちが勝った。何しろさっきはホームから電車へ飛び込もうとしたぐらいなのだから。

 少年に手を引かれるままホームを出て、改札を通りすぎ、駅から出る。

 少年はどこへ行くのか決まっているようで、立ち止まる様子もなく軽い足取りで歩く。私はその後ろ姿と、ゆっくり揺れる髪の毛を見ながらただ歩く。

 歩くスピードは私にあわせてくれているのか、とても歩きやすかった。駅からしばらく歩くと、人通りも少なくなってきた。まだ朝の早い時間なので、コンビニと二十四時間営業の飲食店ぐらいしか開いていない。

 少年は何も話さず、私も何を言っていいのかわからず歩き続けていると、本当に誰も人を見かけない場所に来ていた。道は狭く、かろうじて路地裏ではないといった雰囲気。

 私は左右を見る。古ぼけた雑居ビルや、すでに廃業したのかシャッターを下ろしたままの町工場らしきものが目立つ。曇り空のせいなのか、やけに暗く感じた。

「あの……ここは、どこですか……?」

「きみは、なんで死のうとしたのかな?」

「え……あ……」

 突然の言葉に私は何も言えなかった。黙る私をどう思っているのか、変わらない足取りからはなにもわからない。

「それは、その……学校の勉強についていけなくて。必死で頑張ってるのに、ぜんぜん成績が上がらなくて……」

 急に涙があふれてきた。拭こうとしても片手は少年につかまれ、もう片方の手も鞄を抱えているため使えない。こぼれた涙が頬をつたって地面へ落ちた。

 急に少年が立ち止まり、こちらへ振り向く。唇がわずかに上向きの弧を描いて、穏やかな笑みを浮かべて私を見る。

 そのとき私は、神様はきっとこんな顔をしているのだろうと思った。

 少年は指先で私の目元をゆっくりとなぞる。それは涙を拭くというより、涙の感触を確かめているように思えた。

 何度か私の目元を指先が左右に往復すると、垂れぎみの目を柔らかく細める。

「つらかったね? でも、もうへいきだよ」

 その優しい笑顔に、私はまた涙が出そうになった。両親が私をはげましてくれるのとは違う、もっと大きな何かに包まれているような安心感がそこにあった。

「さあ、いこう」

 少年はまた歩き始め、私はついて行く。古いビルの中へ入っていったが、まったく恐怖心はなかった。私はこの少年をいつの間にか心から信頼していた。

 エレベーターを使わずに、階段で上へ向かう。ビルの中に明かりがついていないので、もしかしたら電気が止まっていてエレベーターが使えないのかもしれない。暗いが足元が見えないほどではないので、歩くのに苦労はしなかった。

 階段をのぼりながら私はいろいろなことを話した。中学受験で受かってどれだけ両親が喜んでくれたか、今の勉強がどれだけ大変か、成績がよくないのにはげましてくれる両親が逆にプレッシャーになっていいること、楽しそうな同級生たちを見ると悔しくて自分がみじめに思えるか、これまで誰にも言えなかったことを少年には話せた。

 私の愚痴に何か言うのでもなくただ頷いてくれるだけだったが、それだけでも私にとっては嬉しかった。これまで胸の内にたまった黒く濁った吐き出せない想いを、初めてさらけ出すことができたからだ。

 思う存分愚痴を吐き出したころで屋上へ出た。空はあいかわらず曇り空だが、私の心は晴れたようでそんな空でも心地よかった。

 風が吹いて私と少年の髪を揺らす。それに押されるように二人で屋上を歩くと転落防止のための柵の前まできた。

 雑居ビルなので高さはそこそこで、周囲に同じぐらいの建物が並んでいるので眺めはよくない。それでも周囲に遮るものがない、開かれた屋外に立っているのは気分が良かった。

 そういえば、こんなふうに風景を見る余裕が私にはあっただろうか?

 左を見れば高架を走る電車が見えた。あっちに私が飛び込もうとした駅がある。そこから伸びる線路の先に学校があるが、ここからはさすがに見えない。

「ああ……」

 なんだか叫びたいと思ったけれど、出たのはため息みたいな小さい声だった。けれど、それはこれまでの重く疲れたものではなく、心に圧しかかっていたプレッシャーから解放された、力の抜けた声だった。

「フフッ」

「わらった?」

「うん。久しぶりに笑った気がする」

「よかった。じゃあいこう」

 少年は私の手首を持ったまま、器用に柵を乗り越えた。柵の向こう側は、足場となるのは足裏の半分ほどの幅しかないのに、少年はさっきと変わらない様子で立っている。

 風が吹いて少年の髪を揺らすが、柵も持たず立っているのに一切体は揺るがない。

「さあ、こっちへ」

「うん」

 私は何も不思議に思わず、少年に手を支えられながら柵を乗り越えた。抱えていた鞄を落として音を立てたが、そのことは全く意識になかった。

 つま先の下には何もない。数十メートル下にアスファルトの狭い道路が見える。放置された自転車が小さく見えた。強い風がスカートをはためかせる。

 風に押されて曇り空にかすかな切れ間ができた。差し込んできた光に照らされて、少年の髪の毛に美しく輝く輪が浮かび上がった。

 少年はそうか、天使だったのか。

「こっちのほうがいいでしょ」

 まさに天使のほほ笑みだった。私の顔も思わず笑ってしまう。

「そうだね」

 私は迷わず、転落防止用の柵をつかんだ、少年とつないでいるのとは逆の手から力を抜いた。



     


「ねえ知ってる? また自殺したんだって」

「うんうん。飛び降りビルでしょ」

「そうそう! すごいよねー。幽霊がいっぱい出るらしいから今度行ってみない?」

「あそこって、もう何人も飛び降り自殺してる有名な心霊スポットでしょ? やめときなよ。ぜったい呪われるって」

「いいじゃん、いっしょに行こうよー。ねー?」

「もう、何でそんなにアンタは行きたいの」

「だってさー、いるんだって、あそこに」

「何が? 幽霊じゃないの?」

「天使」





 制服姿の少女が駅のホームに立っている。手に持ったスマートフォンを操作しながら暗い顔だ。動いていた指がふいに止まる。

「ああ……もう死んじゃいたい……」

 思わず口に出ていた言葉に、誰かが答えた。

 驚いた少女が振り向くと、そこには天使のようなほほ笑みを浮かべた少年が立っている。

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