第538話 悪霊化する彼

 閃光が収まった時、僕は周囲が静寂に包まれていることに気が付いた。

 裏通りとはいえ新宿界には都会につきものの自動車や行き交う人が発する喧噪や、東京という大都市が発するバックグラウンドノイズ等様々な音に満たされているのだが、僕の周囲からは一切の音が消えて、自分の息遣いが聞こえるほどだった。

 僕たちの目と鼻の先で立ち話していた田中とその相手の男性は彫像のように動きを止めて佇んでおり、僕が羽交い絞めにした森田さんの身体も人の身体の柔らかさや着ている服の質感はなく、一様に硬く冷たい感触の塊と化していた。

 僕たちは、山葉さんが式王子を召喚したのをきっかけに森田さんに取り憑いた死霊が棲息する時空に入り込んだに違いなかった。

 僕の横にいた山葉さんも状況を把握した様子で周辺を見回しているが、鳴山さんは何が起きているか理解できずに恐慌に捕らわれているようだ。

「内村さん、何が起きたのですか?森田が石みたいになってしまっていますよ。周囲も時間が止まっているみたいな感じがするし」

 鳴山さんは僕が羽交い絞めにしていた森田さんの肩に手を置きながら山葉さんに訴える。

「ここは森田さんに取り憑いた死霊が支配する時空に違いない。しかし、森田さん本人が動きを止めているのが変だ。本来なら死霊そのものはこの空間で活動しているはずなのだ」

 山葉さんは鳴山さんと一緒に動きを止めた森田さんの体を調べているが、僕は視野の端に動く物を認めた。

 それは、人間とは思えないほどデフォルメされているが、手足と頭があるという意味では人型の物体だった。

 直径が五センチメートルほどある大きな鱗に覆われ、手の先には鈎爪が存在している。

 顔に当たる部分には牙のある大きな口が開いているが、顔の上部は前髪のような突起の影となって目を識別することは出来なかった。

 それは、石像のように凝固している田中に向かって何度も腕を振り下ろすが、金属音が響くだけで田中には傷一つついていなかった。

「もしかして、あれが「彼」の姿なのではありませんか」

 僕が指摘すると、山葉さんと鳴山さんはその姿を認めて動きを止めて凝視した。

「何だあれは?」

 鳴山さんは驚いた表情で鱗に覆われた異形の者を見つめるが、山葉さんは、その正体に気が付いて表情を硬くする。

「森田さんに取り憑いていた死霊だな!?なぜあんな姿になったのだろう」

 僕に問いかけられても答えるのに窮する内容だったが僕の背後からそれに答える声が響いた。

「あの者は身を守るために自らの心に鎧をまとってあのような姿になったのだ」

 僕の背後から進み出たのは平安時代を思わせる水干姿の青年だった。

「高田の王子!来てくれたのですね」

 僕が呼びかけると、青年は目を細くして微笑むと、口元に笏を当てて答える。

「いかにも、そこもとの内儀に呼び出された所じゃ。この場にいる呪詛、妖の類と申せばあのものであろうな。それがしの仕事ゆえ参る」

 高田の王子は太刀を抜くと死霊に向かって足を踏み出し、山葉さんは、嬉しそうに高田の王子を見つめている。

 僕たちの気配に気づいたのか、動かない田中に効果のない攻撃を繰り返していた死霊は攻撃を止めて振り返った。

「お前たちが仕業なのか?やっと復讐することができると思ったのにどうして邪魔をする?」

 僕は死霊の姿を見て、意思疎通を図ることは無理に違いないと思っていたので、彼が話すことが出来るのが不思議に思えた。

 山葉さんは高田の王子が間合いに入るまでの時間を稼ぐように死霊に話しかけた。

「私達はあなたの死の間際の記憶を覗いたからあなたが死に至った経緯は知っているつもりだ。しかし、森田さんを巻き込まれては困るのだ。田中という男は私が警察に通報して刑に服するように仕向けるから私の浄霊を受け入れてくれないか」

 彼女は高田の王子が死霊の始末に掛かる前に自ら穏便な浄霊に応じるように前に投降勧告をしているのだった。

「ふざけるな!俺のことを虫けらみたいに殺したやつに復讐して何が悪い。邪魔をするならお前たちも道連れにしてやる」

 考えてみれば、恨みを抱えて死んだ人の霊は生前の恨みさえ晴らせばよいのならば、取り憑いた人間がどうなろうと知ったことではないのかもしれない。

「仕方がない、高田の王子お願いします」

 山葉さんが依頼すると同時に、死霊と間合いを詰めていた高田の王子は太刀を振り下ろしていた。

 しかし、高田の王子の太刀は金属音と共にはじき返され、鱗に覆れた死霊には傷一つついていなかった。

 僕はこれまで高田の王子が様々な妖や死霊を瞬殺するのを見てきただけに自分の目を疑った。

 僕たちと対峙する死霊は、前髪らしきものの下に隠れて居た目を赤く輝かすと、その体は急激に大きくなっていくように見えた。

「ふむ、悪意をはねつける鎧を身にまとい憎悪を糧にその身を太らせる。もはや山葉殿の温情も通じる余地は無く、悪霊と化していくだけのようだな」

 高田の王子は太刀のは先を上に向けると両手で構えて風のように突進し、太刀もろとも死霊に体当たりしていた。

 死霊の身体は既に近くの雑居ビルの三階の床辺りに達するほどの大きさに膨れ上がっていたが、高田の王子の太刀は柄の部分まで死霊の身体に突き刺さっている。

 僕は高田の王子の能力が死霊を塵のように崩壊させるに違いないと期待を込めて見ていたが、死霊は片手で高田の王子の身体を掴むと道路の反対側のビルディングの壁に叩きつけていた。

 静寂に包まれた空間に地響きを伴う轟音が響き、ビルディングの壁に大きなへこみが出来て周辺にひびが走っているのが見える。

 壁に叩きつけられた高田の王子は心なしか平たくなってへばりついているように見えたが、凹みの部分から壁の上に血の帯を残して地上までずり落ちて行った。

 死霊は自分の身体に刺さっている高田の王子の太刀を引き抜くと、カッターナイフの刃のようにへし折って地上に放り出す。

 死霊は僕たちには見向きもせずに、再び路上に佇む田中に向かって攻撃を再開するが、つめを叩きつけても巨体を使って踏みつぶそうとしても、彫像のように凝固した田中の身体には傷一つつけることが出来ない。

 復讐の対象である田中に対して事実上傷一つつけることが出来ないと気付き、死霊は苦悶するようなうめき声をあげた。

「生身の身体を持つ生者にたいして死者の霊魂は攻撃したくとも触れることさえできないのだ。もうあきらめろ」

 僕は高田の王子すらも倒してしまった死霊に畏怖に近い感情を抱いていたが、山葉さんは死霊に対して恐れる様子も無く声を掛ける。

 死霊がこちらを振り向き前髪の陰から赤く輝く目が覗くのを見た時、ぼくは何か戦うために使える物はないかと必死で周囲を見回していた。

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