第519話 般若の形相

 祥と子供が剣を交えようとしている時、祥たちを呼び止めた侍は自らも刀を抜いて戦いに加わろうとしていた。

 しかし、観智は侍の前に錫杖を突き出してその足を止める。

「またれよ、そなたは京の都から逃れてきた徳川家康であろう。家臣たちが身を挺してそなたを領国まで逃げ延びさせようとしておるのに、何故自らを危険にさらそうとするのだ?」

 侍は邪魔をした観智を一瞥すると、仕方なさそうに口を開いた。

「いかにもわしは家康じゃ。そなたに一体何がわかる。ここまで苦楽を共にした家臣たちを死地に捨て置いて自分だけおめおめと両国に逃げ帰ったとして、その後いかに暮らして行けばよいのだ?その娘は女子の身でありながら刀を抜いて戦っているのに座して見ているわけにはいかぬ」

 観智は家康の言葉を聞いて面白そうな笑顔を浮かべる。

「思っていたより熱いお方のようだな、拙僧は信長公に叡山を焼きだされたことがあり、身を寄せた武田家は同じく信長公に滅ぼされた。そなたが武田家滅亡の片棒を担いだことも知っておる故、ここで落ち武者よろしく百姓の倅に打ち取られたところで惜し気は無いのだが、家臣を思う心に免じて手助けいたそう」

 観智は家康を押しのけて襲撃してきた子供たちの首領に向き直った。

 その間に、祥と子供は激しく刀を交えていた。

 祥は低く構えた刀を子供の両手首を斬る勢いで跳ね上げたのだが、子供はのけぞって祥の切っ先をかわした。

 そして体勢を立て直すと立て続けに祥に斬りつける。

 祥は子供の動きを辛うじて見切って刀で受けるが、その動きは彼女の心肺能力の限界を超えており、酸欠で目の前が暗くなり始めていた。

 その時、祥の背後から黒い物体が子供めがけて飛び、流石の子供もバランスを崩した。

 観智が錫杖を投げつけたのだ。

 祥はその隙を逃さず子供の頭に渾身の一撃を振り降ろしたが、子供は既に態勢を整えて軽く受け止め、刀を合わせたまま祥の胸元までににじり寄る。

 自分の斬撃を受け止めた子供が目を青く光らせながらにやりと笑うのを見て、祥は逆上した。

 祥は至近距離から蹴りを放ち、子供は意表を突かれて蹴り飛ばされていた。

「この餓鬼!」

 祥は更に子供に馬乗りになって肩を振りかざしたが、子供の上に乗った瞬間に周囲が白い閃光に満たされたのを感じた。

 光にくらんだ目が周囲に慣れるにつれて、祥は世界に異変が生じたことに気がついた。

 自分が蹴飛ばして今やその上に馬乗りになっている子供は、凝固して動きを止めている。

 そして、周辺にいた他の子供たちや侍二人も同じように彫像のように動きを止めて佇んでいる。

 静寂に包まれた中で、動いているのは祥の他には先ほど声を掛けてきた侍と観智だけに思えた。

 祥が立ち上がって、自分が戦っていた子供を見下ろしていると、観智は自分が投げた錫杖を拾い上げた。

「そのお侍はそなたが助けようとしておった徳川家康殿だ。その子供はどうやら動きを封じたようだが、この妙な世界には何か他の者がいるようだな」

 祥は観智の言葉を聞いて周辺の様子を窺い、森の中に異形のものが佇んでいるのに気が付いた。

 それは、長髪で着物を見にまとっており、一見女性に見えるがその身の丈は二メートルを越えている。

 そしてその顔は吊り上がった目がらんらんと光り、避けた口には牙が覗く。

 あまつさえその額には二本の角があり、生身の顔がそのまま般若の面のような趣だ。

 お面ではない般若の顔をした身長二メートルの女性を思わせる人型は、身の丈に合わせた巨大な日本刀を片手に祥を睨んでいる。

 祥が息を飲んで見つめていると般若顔の女性は日本刀を振りかざして祥に斬りつけていた。

 祥はどうにか自分の刀で般若顔の女性の攻撃を受け止めるが、般若顔の女性が巨体から放つ攻撃に手がしびれて刀を取り落としそうだ。

 般若顔の女性二の太刀を横ざまにはなった時、祥は受け太刀が間に合わず切られたと思って目を閉じた。

 しかし、祥が恐る恐る目を開けると観智が錫杖を構えて澄んだ金属音と共に般若の刀を受け止めていた。

「そこをどけ、その者は我が子光秀に害をなすもの。信長を滅ぼした後なお邪魔となりそうなものはこの場で亡き者にしてくれる」

 般若顔の女性が我が子光秀といったことを認識して祥は目をしばたいた。

 光秀といえばこのシチュエーションでは明智光秀に違いないが祥は寡聞にして明智光秀の母についてよく知らなかったのだ。

「なるほど、お牧のかたならば信長公に恨みを抱いて化けて出たとしても不思議ではござらん。しかし、これ以上多くの人を殺めるのは天が許さぬようだな」

 明智光秀の母、お牧は恐ろしい形相で刀を振るい、その切っ先が観智に襲い掛かるが、観智は頑丈な錫杖で刀を受け止める。

「祥とやら、そなたは何やら強そうなもの引き連れているがその者を使ってこのお牧の方の亡霊を倒すことは出来ぬかな?」

 観智が般若と化したお牧の激しい攻撃を受け流しながら祥に告げるが、祥は何のことだかわからなかった。

 背後を振り返ると、蒼白な顔で家康が刀を構えており、その隣では動きを止めた隆夫が彫像のように立っている。

 しかし、彼らの後ろに目を移すとそこに黒い影が動くのが見えた。

 長い体をくねらせて首を立ち上げる姿にはどこか見覚えがある。

「黒龍様!」

 それは、祥の実家が奉じる黒龍神社のご神体そのものに思えた。

「何をしておる、わしとて長くは持ちこたえられぬ」

 観智がかろうじて攻撃をしのいでいるのを見て、家康は意を決したように刀を構えて前に踏み出していく。

 このまま彼が斬られてしまったら為す術もなく世界は変遷してしまうと思い、祥は黒龍に助力を頼みたかったが、祥は黒龍にどう呼びかけたらよいのかわからなかった。

 姉の亜紀ならば先祖から伝わる言葉の類を知っていたはずだが、祥はそこまで深い知識を有していない。

「いけ、黒龍!戦え!!」

 祥は自分が口にする言葉を耳にして、げんなりする想いだった。

 自分の家が代々祀ってきた黒龍様を、ポケモンよろしく戦うようにけしかけてしまったからだ。

 しかし、黒龍は祥の言葉に忠実に般若に向かって突進した。

 黒龍は観智と家康に向かって刀を振るっていたお牧をその口に咥えると、身をよじるようにしてお牧を振り回していた。

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