第511話 水曜日の予定

 祥は悦子からの着信音が音声通話ではなくてSNSアプリのテキストを示していることに気が付いて、スマホを覗き込む。

 SNSアプリのタイムライン形式に会話の吹き出しが並ぶ一番下に悦子からの最新のテキストが表示されていた。

『アシダカグモが私たちの時空に戻ってきました。これから調教に入ります』

 悦子の文面は簡潔過ぎて詳細が窺えないが、アシダカグモの妖が手の届く世界に戻ってきたことだけは理解できる。

 祥はアシダカグモの妖が支配する時空で日本刀を手にして妖と対峙したが、妖が投げる糸に捕らわれたことを思い出して悔しい思いがこみ上げる。

 結局、徹が妖の呪縛を振りほどいて妖と戦ったのだが、現実の時空では徹を捕捉した時点で意識を失って倒れていた祥たちを美咲や悦子たちが救助する形となったのだ。

 妖が元の時空に戻った時が徹を元の状態に戻すチャンスであるため、祥が悦子から連絡を受けることになっていたのだ。

 祥は傍らにいる沼を振り返った。

「問題のアシダカグモがこの世に返ってきたみたい。山葉さんに知らせてくるからフロアをお願い」

 祥の言葉を聞いて沼も緊張した表情でうなずく。

 祥は、店舗のフロアから厨房等があるバックヤードに入ると、自分の部屋やオーナー一家の居室がある二階に急いだ。

 祥がオーナー一家の部屋のドアをノックすると、山葉の声が答える。

「どうぞ、何かあったの?」

 落ち着いた雰囲気の山葉の返事が聞こえたので祥がドアを開けると、居間では内村家の長女の莉咲が積み木で遊ぶのを山葉と徹が囲む微笑ましい光景が繰り広げられている。

「ウッチーさんが元に戻ったのですか?」

 悦子の知らせで、アシダカグモの妖が閉ざされた時空から通常の世界に遷移したことを知らされていたので、祥は徹の人格が元に戻ったのではないかと期待したのだが、山葉は表情を暗くして首を振る。

「ウッチーの記憶や能力が失われたわけではない。家族への愛情は残っているようで私達にはものすごく優しい表情を見せるが。ウッチー自身の欲望や欲求が無くなってしまい自発的な行動を起こさなくなっているのだ」

 祥は自分と沼がアシダカグモの餌食になろうとした時に、徹がアシダカグモの妖の糸を気力で弾き飛ばし、祥の日本刀で妖と戦ったことを思い出した。

 最後に残っている親しい者への愛情が自分たちにも向けられたのだと思うと胸が熱くなる思いだが、悦子の知らせを山葉に教えるのが先だ。

「悦子さんからアシダカグモの妖が通用の時空に戻ったと知らせがありました。もしかしたらそれだけでウッチーさんの状態が元に戻ったのではないかと思ったのですが」

 祥は言い訳するように山葉に告げるが、山葉の表情は目に見えて明るくなった。

「奴が現実世界に戻って来たならば、対処する方法は増えるというものだな。美咲嬢に状況を尋ねてみるよ」

 山葉は自分のスマホを取り出すと七瀬カウンセリングセンターの所長を務める美咲嬢と通話を始めた。

 山葉の周りには祥や沼のように霊視能力を持つ人間や美咲嬢のような猫又の身でありながら人間界で活動する者が集まっているように思え、彼女の人徳なのかその能力故のことなのか祥は判断しかねている。

 山葉は気にもしない様子だったが、会話に聞き耳を立てるのも気が引けたので祥は無心に鉄と遊んでいる莉咲に声をかけた。

「莉咲ちゃん、今日はお父さんに遊んでもらえていいわね」

 莉咲にとって祥は同じ家で暮らす家族のような存在のはずで、祥の言葉に満面の笑顔で答える。

 祥は山葉と同じ年頃の姉を交通事故で亡くしており、山葉の結婚や出産をつぶさに見ていると、時に姉が生きていればこんな人生を歩んでいたのだろうかと考えることもある。

 その考えは祥の心に悲しみを湧き起こすのだが、祥にとっての山葉はカフェの正規スタッフとして雇用してくれたオーナーであるだけでなく、神道修行の師でもあり、姉の面影をだぶらせてしまう存在でもあるのだ。

 莉咲がゆっくりと歩いて自分の足元まで来たので祥は莉咲を抱え上げた。

 莉咲と遊んでいた徹は温厚な表情で祥と莉咲を眺めているが、その心の内は窺えない。

 莉咲に頬ずりすると仄かにミルクの香りが漂い、柔らかく滑らかな感触が祥の頬に伝わる。

 ウッチーさんが元に戻ってくれればいいのにと祥が心の中で考えていると、美咲嬢との会話を終えた山葉が少し弾んだ声で祥に告げた。

「悦子さんは例のクモを虫籠で飼育して調教するそうだ。奪い去ったウッチーの心を取り戻す算段が付いたら改めて連絡してくれると言っている」

 祥はアシダカグモの妖が支配する時空で対峙した時の情景を思い出し。あれを虫籠で飼うなどということが出来るのだろうかと危ぶんだ。

 山葉の口ぶりだと、悦子がアシダカグモの妖をコントロール可能となってから徹の状態改善に取り組むつもりだと思われ、それほど急いだ話ではなさそうだ。

「早くウッチーさんの状態を改善できたらいいですね」

「私としてはあのクモなど手足をバラバラにして拷問してでもウッチーを元に戻させたいところだが、餅は餅屋という諺もあるし、当面悦子さんに任せるほかないだろう」

 山葉は物騒なことを口にしながら嘆息して見せるがそれほど落ち込んでいる様子もないので、祥はフロア業務に戻ることにした。

 沼がフロアを一人で任されて困っているのではないかと慌てたのだが、祥がフロアにもどると、小西が到着して沼を手伝って仕事を回している。

 祥はタイミングよくアルバイトに来た小西に心の中で感謝しながら沼に告げた。

「沼ちゃん、そろそろ上がってください。お疲れさまでした」

「了解、4番のテーブルを片付けたら上がらせてもらいます」

 沼は仕事の区切りの良いところでアルバイトを終了し、残った祥と小西がフロア業務を仕切る形となった。

 祥から見て沼と木綿は実は年上であり、小西が学校ならば同学年に当たる年齢だ。

 小西は徹の大学の後輩にあたり賢そうな雰囲気だが、そのくせ気取ることもなく祥の動きに気を配りながらてきぱきと仕事を片付けてくれる。

 アルバイトさんとしては理想的なのだが、最近ちょっと気になるところがあるのだった。

「祥さん昼食まだなのでしょう、居間のお客さんの数なら僕が何とかさばけるから今のうちにお昼を食べてください」

 祥は少し空腹を感じ始めていたので小西の配慮をありがたく感じつつバックヤードに行こうとしたのだが、小西は追いかけるように祥に囁いた。

「祥さん明日は定休日でお休みでしょう。一緒に映画でも見に行きませんか」

 祥は一瞬足を止めた。

 小西に対して気になることは、彼が自分を交際相手にしようと目論んでいるのではないかという懸念なのだ。

 しかし、祥には日頃から感じている懸念があった。

 小西はいい大学に通っており、一緒に仕事をしても気配りを感じさせてくれる好感度の高い男性なのだが、彼は女性に対して手が早そうな気がするのだ。

 祥は明日の定休日に何か予定があった気がしたので、懸命に思い出そうとし、仏師見習の隆夫さんが祥を写生する予定があったことを思い出した。

「それが、明日は仏像を作っている人にモデルになってくれと頼まれているので、映画を見に行く訳にはいかなくて」

 祥がこれ幸いと明日は予定があることを話すと、小西は残念そうな口調でつぶやく。

「ああ、ウッチーさんと一緒に過去の時空に飛ばされて仏像を作っていたという、ちょっと変わった人ですね。まさか芸術のためとか言って脱がされているのではありませんよね」

 バックヤードに片足を踏み入れていた祥は慌てて振り返った。

「脱がされたりしていませんよ」

 怒気を含んだ声が出てしまったことを意識しながら小西を見ると、彼はクスクス笑いながら手を振っており、からかわれたことを悟った祥は乱暴にドアを閉めるのだった。

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