祥の想い

第510話 カフェ青葉の日常

 カフェ青葉のフロアで接客をしていた祥はモーニングサービスを目当てに訪れるお客さんが少なくなる時間帯に差し掛かって一息ついた。

 朝の時間帯は労働時間の関係で田島シェフが来ていないため、事前に作ったサラダやスープ、そしてゆで卵に注文を受けてから焼いたトーストを添えてモーニングサービスセットを仕上げなければならず、祥にとっては負担の多い時間帯だ。

 もともとはオーナーの山葉がこの業務を行っていたのだが、彼女が出産後、育児もあることから祥が受け持つことになったのだ。

 カフェ青葉は伝統的に学生アルバイトを使っており、今日は沼が朝から出勤して祥を補助している。

「沼ちゃん、手が空いたら賄のご飯を食べて」

 朝番のスタッフはランチ前に軽く賄を食べておくのが通例なので客席から食器を回収してきた沼に小声で告げると、沼は嬉しそうに答える。

「ありがとう。今朝は朝ご飯を食べ損ねていたからお腹がすいていたの」

 沼の表情に陰りは無く、普段と同じに見えるのだが祥は気がかりなことが有ったので沼に尋ねることにした。

「沼ちゃん、ウッチーさんを救出に行った時にアシダカグモの妖に何かを持って行かれたような気がしない?」

 祥の質問を理解すると沼は驚いた表情を浮かべたが、やがて堰を切ったように話し始めた。

「そうなのよ。あいつの牙に刺されたのだけれど体には傷跡も残っていないのに、自分の心の中から何かを持っていかれたような気がして、しかもそれが何かわからなくてすごくすっきりしない気分なの」

 沼は平静を装ってはいたが、彼女も妖に何らかの影響を受けて秘かに悩んでいたようだ。

「私もそうなの。奪われたものが何かわからないのがすごく気持ちが悪くて落ち着かない。ウッチーさんが自発的に動けないのも私達に比べてより多くの心の要素を持ち去られたからではないかと思うの」

 祥は悩みを共有できる仲間が現れたことがうれしくはあったが、それで問題が解決するわけでも無い。

 オーナーの夫である徹はもともとこの店でアルバイトをするうちに山葉と親しくなり結婚するに至った人で現在は沼の大学の博士課程の大学院生だ。

 今でも妻の経営するカフェを手伝ってフロア業務をこなすことも多く従業員やアルバイトからはウッチーさんと呼ばれて親しまれている。

 山葉はカフェ経営の傍らで副業として陰陽師として働いているが、徹も霊感が強く彼女の陰陽師稼業においても重要な役割を果たしているのだ。

 しかし、山葉が第二子を妊娠した際に彼女が子宮頸ガンに侵されていることが発覚したものの、山葉が子供をあきらめずに妊娠を継続する意思を示したことから、徹は心配のあまり彼女を病魔から救うという甘言に乗せられてアシダカグモの妖と何らかの契約を結んでしまい失踪したのだ。

 内村家の知人が結束してアシダカグモの妖から徹を救出したのだが、彼は体には異常が認められないのに精神の活動が停滞してしまっているのだった。

 祥は沼と共にカフェのバックヤードにある厨房に入り沼に賄の食事を出してからカフェのフロアに戻ろうとしたが、そこで二階の居住スペースから降りてきた山葉と顔を合わせた。

「山葉さん、もう動いて大丈夫なのですか」

 山葉は腹腔鏡を使った手術を受けて一週間足らずの入院の後に退院したばかりなのだ。

「うん、手術の傷跡が引っ張られるような感じで痛むことはあるが、概ね大丈夫だ。お店のことが気になって様子を見にきたのだが」

 霊感を持つ祥と徹には手術を受けることを決める前には山葉の背後に黒い影が見えていた。

 それは死期が迫った人間の背後に現れる時空の裂け目のような存在なのだが、今の彼女にその影は見えない。

 徹は山葉に迫る死の影を取り除こうと人知れず苦悩し、山葉を救うために妖に心を売るようなことをしてしまったのにちがいないと祥は考えている。

「カフェの業務は私が回しますから山葉さんは体が回復するまでは休養してください。それよりもウッチーさんの様子はどうなのですか」

 祥の問いに山葉の表情が暗くなったが、彼女は気を取り直すように努めて明るい調子で答えた。

「今のところ、呼びかけには反応するし日常の生活動作は自分で出来るよ。きっと元に戻ってくれると思う」

 祥は徹の状態が改善していないことを知り、山葉に尋ねたことを後悔したが彼女の口調に合わせることにした。

「そうですね。体には異常がない訳ですからいつか元のウッチーさんに戻りますよ」

 山葉は祥にうなずくと、ゆっくりと階段を上って居住スペースに戻った。

 徹は祥や沼が発見した後美咲の紹介で検査入院したが異常はないとして退院し、山葉が退院するまでは実家の家族が世話をしていたのだ。

 山葉が退院した後も徹の母は足繁く通って徹の様子を見に来るが帰る時はどことなく落胆した雰囲気が漂っていることが多い。

 祥は徹のことを考えるうちに悦子が持ち帰ったアシダカグモの妖を思い出した。

 悦子の父はアシダカグモの妖を操って生業にしていたため、悦子はアシダカグモの妖の性質に知悉していた。

 徹の救援部隊の一人であった悦子に叩き潰され瀕死の傷を負ったアシダカグモは、別の時空に逃げ込み、その体は銀のアクセサリーのように光る光沢に包まれ、停滞場フィールドに守られたように何者も破壊できない状態となっているが、閉ざされた時空の中で体を癒したらいつか通常の時空に戻ってくるのだという。

 通常の時空に戻ったところで、悦子が捕捉して妖が奪い去った徹の心を取り返すというのだが、祥ですらその話には半信半疑だ。

 さりとて、唯一アシダカグモの妖の性質に詳しい悦子の話を信じる以外に徹を回復させる見込みは無いのだった。

 やがて田島シェフが出勤してランチの仕込みを始め、祥は微妙に頼もしく思いながら彼の後姿を眺めてからフロアに戻る。

 祥が勝手に作った「腕のいいシェフは本人も食い意地が張っているからデブになる」という法則があるのだが、田島シェフは料理の腕が良いのに筋肉質の引き締まった体形を維持しており、祥の「良いシェフ=デブ」の法則は当てはまらないようだ。

 元自衛官の田島シェフはストイックにトレーニングに励んでいるに違いないと祥は推測しているのだった。

 田島シェフが出勤する時間に合わせて、アルバイトの沼が小西と交代する時間も来つつあった。

 徹の後輩の学生アルバイト達は本来なら日中は大学の授業があるため、カフェのアルバイトをしているわけにはいかないはずだが、大学はいまだにコロナウイルス感染症対策でリモートの授業が多く、沼と木綿、そして小西の三人はオンデマンドタイプの講義の時間帯を使ってアルバイトのローテーションを組んでいる。

 そのため、祥の業務はずいぶんと楽になっており、アルバイトの三人は講義を別の時間帯にずらして視聴するので支障は無いという好ましい体制が出来上がっていた。

 沼とフロア業務を続けていると、祥は自分のスマホの着信音に気が付いた。

 おおかた小西が予定の時間よりも遅れると連絡してきたのだろうと思い、祥はけだるい雰囲気でスマホを見たが、着信の相手が悦子であることに気づいて一気に緊張を高めた。




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