第504話 孤立した沼ちゃん

 徹が潜んでいるはずの部屋が間近に迫ると、ツーコは黒崎に尋ねた。

「ウッチーさんにどうやって部屋の鍵を開けさせるつもりですか?私達だと気付いたら出てこないかもしれませんよ」

 黒崎は足を止めて考えていたが、スタッフ用の道具を置いたエリアに清掃用のカートがあるのを見つけると廊下に引っ張り出した。

 そしてバケツやモップのような目立つものを道具置き場に戻すとカートの押し手をツーコにむける。

「それを押して僕に続いてください。ルームサービスを持ってきたホテルのスタッフを装いましょう」

 ツーコは黒崎の機転に感心して彼への尊敬の念を新たにした。

「私はウエイトレスさんなのですね」

「ええ、ダーク系のスーツなのでドアの覗き穴を通して見ればそれらしく見えるはずです」

 黒崎とツーコは会話をしている間に徹がいるはずの六一六号室の前に来ており、黒崎はドアをノックすると落ち着いた声で呼びかけた。

「内村様、ルームサービスをお持ちしました」

 しばらくの間部屋の中から反応はなく、ツーコは完全に無視されるのではないかと危惧したが、六一六号室のドアノブがゆっくりと回るのが見えた。

 ツーコが固唾を飲んで見守る前でドアが細く開き、その隙間から明らかに徹の声が響く。

「頼んでいませんよ」

 その隙に、黒崎はドアの隙間に自分の靴を挟んで徹の腕を掴もうとしているようだ。

「内村さん見つけましたよ。皆が心配しているから帰りましょう」

 このシチュエーションでそのセリフが言えるのは黒崎さんならではだとツーコは感心したが、六一六号室のドアは爆発したような勢いで開かれ、黒崎は廊下の壁に叩きつけられていた。

 隣にいたツーコもカートと一緒に押し倒される形になり、カートの下敷きになって床に倒れる。

 そして、廊下の壁に張りついたように動かなくなった黒崎を尻目に黒い影が廊下を走り去るのが見えた。

 ツーコは、スマホのウエブ会議用アプリのマイクがオンになっていることを思い出して、かすれた声で告げた。

「ウッチーさんを発見しましたが、隙をついて逃げられました。今ホテルの階下に向かっているはずです」

 廊下の突き当りには非常階段に通じる扉があったが、徹はその扉を開けて階段を駆け下りているようだ。

「黒ちゃん大丈夫ですか」

 ツーコは自分の上にあったカートを押しのけると壁に激突した黒崎に近寄る。

 ドアごと黒崎を跳ね飛ばした徹の力は尋常なものではなく、黒崎は廊下の壁がへこむほどの勢いで叩きつけられていたのだ。

「大丈夫、生きていますよ。彼がドアを蹴飛ばした力は人間とは思えませんでしたね。ふつうの人なら頭蓋骨が複雑骨折していたかもしれません。ツーちゃんも怪我はないですか」

 黒崎が後頭部をさすりながら呟くのを見て、ツーコはホッと一息ついた。


 その頃、雅俊が運転するWRX-STIはホテルグレースイン池袋の界隈に到達していた。

「クラリンさん雅俊さん、今ウッチーさんがちらっと見えましたよ。黒崎さん達をかわして逃げたようです」

 沼が実況よろしく中継された画像を見て伝え、雅俊はホテルの正面にWRX-STI付けるとクラリンに言う。

「クラリンは正面入り口を固めてくれ。俺と沼ちゃんは裏に回る」

 それは徹が裏口から逃げると見込んで、徹と遭遇する可能性が低い正面にクラリンを配置したように思えたが、クラリンは素直に車を降りながら答えた。

「雅俊、沼ちゃんあれはウッチーの外見をしていても何者かに乗っ取られている可能性が高いから気を付けるんやで」

 雅俊はクラリンにうなずいて見せるとドアが閉じるのと同時に急発進して裏に回る。

 沼はホテルの正面近くに巫女姿の人影を認めた。

「祥ちゃんも正面入り口に向かっているみたいですね」

「正面側は戦力十分ということだな。裏口にウッチーが現れたら俺たちで捕まえよう」

 雅俊はウッチーを取り押さえる役目は自分が担い、妖の類を排除する役目を自分に期待していると気が付き、沼は身が引き締まる思いだった。

 雅俊はホテルグレースイン池袋の裏にある駐車場に雑にWRX-STIを止めると、ドアを開けて駆け出していく。

 沼は雅俊に遅れまいと懸命に走ったが、こうなると中世風の修道女のコスチュームは動きづらい。

 雅俊がホテルの裏にある駐車場に面した出入り口に到達した時、ホテル内から飛び出した人影があった。

 それは徹その人に見えた。

 雅俊は徹の前に立ちふさがったが、徹は素早い身のこなしで雅俊の手をかわして走り抜ける。

 沼は少し離れたところに居たため、徹は沼を無関係な通行人とみなして横を通過しようとした。

 沼はそのことから徹が普通の状態ではないことを示すと確信した。

 普段の徹は通りすがりの人でも注意深く観察するタイプで、沼とすれ違って気が付かないことなどありえないからだ。

 沼は意を決して自分の横を通り過ぎようとする徹の腕を掴んだ。

 徹は明らかに沼に注意を払っていなかったため沼は徹の腕に触れることが出来たが、彼の腕に触れた瞬間に沼の視界は白い閃光に満たされた。

 閃光にくらんだ目が再び視力を取り戻すと、沼は自分の手が見知らぬ女性の腕を掴んでいることに気が付いた。

 その女性は目鼻立ちがはっきりした派手な顔立ちで黒髪をストレートのロングヘアにしている。

 女性の黒ずくめの服は洋服なのだが何処か古風で沼には違和感があるデザインだった。

「あ、あの」

 沼がおそるおそる口を開くと、女性は口から長い牙をのぞかせて威嚇した。

 沼は女性の腕から手を離すことはしないもののすっかり腰が引けており、周囲を見回すと、雅俊はこちらを振り返った姿勢で彫像のように動きを止めている。

 そして、周囲は池袋界隈では有り得ないような静けさで満たされていた。

 東京の都内では意識しなくても自動車のエンジン音やエアコンの室外機の騒音などが常に響いており、そういった音が重なって一定レベルのバックグラウンドノイズが常に耳に入っているのだが、それらの音が一切聞こえない静寂なのだ。

 沼は山葉や徹が話していた霊や妖が支配する時空に自分が取り込まれたことを悟った。

 至近距離に雅俊がいて仲間たちが駆け付けつつあるはずだったが、普通の世界の時間は止まってしまっている。

 この時空から脱出しなければ、時空の主である妖に切り刻まれるかもしれず、たとえ逃げたとしても閉ざされた時空間の中で沼の命は尽き、その体が塵となって消えても外部の空間では誰一人としてそのことには気づかず、ただ沼の姿が消えたとしか思わないに違いない。

 沼は女性の腕を掴んだままその足元に目を移したが、そこに異様な物体があることに気が付いた。

 それは白い布で包まれたミイラのように見え、布の一部は糸を引いたように女性の身体に繋がっている。

 そして布から覗いたミイラの顔の部分を見ると半分ほどが黒ずんで干からびてはいるがそれは徹の顔だった。

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