第505話 祥が走る

 徹の身体は白い塊に変貌していると思えたが、よく見ると繊維状の白い物質の帯でぐるぐる巻きにされている。

 沼は徹の日記にアシダカグモの妖と魂の契約を交わしたと記載されていたことを思い出し、それはクモが獲物をくるむために糸で作る膜ではないかと思い当たった。

「ウッチーさん!」

 沼が呼び掛けるとミイラ化した死体のように見えた徹が目を開けたが、その様子を見ようとした時、沼は自分の身体が宙に浮くのを感じた。

 黒衣の女性が自分の腕を掴んだ沼の手を振り払ったのだ。

 沼はホテルの裏口にある駐車場の何もないはずの場所にある見えない壁に叩きつけられていた。

「ぐふっ」

 沼は背中と後頭部を強打して肺の空気が全部抜けてしまいそうだった。

 沼は肉体的な痛みに慣れておらず暴力を振るわれるといきなり戦意を喪失しそうだが、今自分が居るのは妖が支配する時空だということを思い出した。

 沼の脳裏には三谷の顔が浮かび、次いでカフェ青葉のスタッフたちの顔ぶれが次々に浮かぶ。

 大好きな人々に再び会うには戦ってこの場を切り抜けるしかないのだ。

 沼は胸元から銀色の十字架を取り出すとしっかりと握りしめ、神に捧げる祈りの言葉を唱え始めた。

「天にまします我らの父よ、願わくは、み名をあがめさせたまえ、み国を来たらせたまえ、み心の天になるごとく 地にもなさせたまえ、我らの日用の糧を今日も与えたまえ、我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく 我らの罪をも赦したまえ、我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ、国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」

 沼はそこまで唱えると十字架を黒衣の女に向ける。

「そしてこの迷える子羊をみもとに召したまえ。アーメン」

 沼の目の前にまばゆい閃光が走ったが、光が薄れ再び姿を現した黒衣の女は何事も無かったように佇んでいる。

 沼は神への祈りが効果を現さなかったことにたじろぎ、黒衣の女は沼の困惑を見透かしたように襲い掛かってきた。

 黒衣の女が放った回し蹴りは黒い影となって沼の顔面を襲った。

 沼は辛うじて両手で顔面をガードしたが、体重を乗せた黒衣の女の蹴りを受けて大きく後ろによろめく。

 黒衣の女は沼の目の前まで詰め寄って続けざまに正拳突きを繰り出したが、沼は自分の身体が反射的に動いて黒衣の女の突きをかわしているのを他人事のように見ていた。

 そして攻勢に転じた自分が姿勢を低くして繰り出したローキックが黒衣の女の膝を捕え、相手の動きが鈍るのを見て信じられない思いが高まる。

 私は神の加護を受けているのだと思い、沼は隠し持っていた短剣を抜いた。

 両腕を使って目まぐるしく攻撃を繰り出す黒衣の女性に向かい、短剣を構えてにじり寄ると、相手も明らかに警戒しているのがわかる。

 沼が右手に構えた短剣でフェイントをかけ、素早く左手に持ち替えて切っ先を突き出すと、沼の短剣は黒衣の女の二の腕に深く突き刺さった。

 そして、沼は短剣を引き抜くと沼に突き出されようとしていた黒衣の女の拳を短剣で払いのける。

 短剣の鋭い刃は、黒衣の女の手首をやすやすと切断し、切り離された手首は床に転がった。

 黒衣の女の手首の切断面からは液体が噴き出たが、それは血ではなく緑色がかった透明な液体だ。

「とどめだ!」

 沼は右手で持った短剣の柄に左の二の腕を添えて、黒衣の女を突き刺そうと突進したが、不意に自分の視界がホワイトアウトしたことに気が付く。

 沼は最初、目くらましの類かと思ったが顔面に何かが付着していることに気が付いて手を伸ばすとそれはベトベトした繊維状の物質だった。

 そして、それは間絶え無く振りかかるように厚みを増していくのがわかる。

 クモの糸だと気付き、沼は死に物狂いで自分を包み込もうとする糸の膜を外そうとした。

 しかし、短剣で糸の膜を斬り開こうとしても短剣の刃自体が糸の膜に覆われてその切っ先は役にたたない。

 沼はどうにか顔を覆う糸の膜に穴をあけて視界を確保したが、目に入ったのは正面に迫った黒衣の女が沼に突き出した拳だった。

 沼は目の下あたりに強い打撃を受けて後ろに倒れ、起き上がろうとしても体を自由に動かず事が得できなかった。

 自分は徹がそうされていたようにミイラのように糸で巻かれているのだと沼は気が付いた。

 糸のわずかな隙間から様子を窺うと、黒衣の女性の顔は変貌していた。

 黒髪の長髪はそのままに二列に並んだ八つの目と顔の下半分を覆う大きな牙と触角を見た沼は恐慌に捕らわれてもがくが、体を包む丈夫な糸の膜はびくとも動かない。

 やがて頭上に達した黒衣の女の牙が自分に突き刺されようとしていることを悟って沼は絶叫をあげた。


 その頃、祥はホテルの書面玄関から建物内に走り込むと、巫女姿で日本刀を片手に持った葉電姿でロビー前を駆け抜けていた。

 ツーコや黒崎がホテルに潜入する間、七瀬カウンセリングセンターのセダンの車内で待機していたが、ツーコがウエブ会議用アプリ経由で徹がホテルの外部に逃走を図ろうとしていることを知らせるのと同時に車を飛び出したのだ。

 最初はおとなしく正面玄関前で徹が出てこないか見張るつもりだったが、周囲の世界に異変が生じたのをきっかけにホテルの建物内に入ることにしたのだ。

 異変というのは自分を除いた周囲の世界の時間の停滞だ。

 内村家のWRX-STIがクラリンを正面玄関に降ろしたのを認めて、祥はクラリンに合流しようと正面玄関に向かったのだが、クラリンと言葉を交わす前に彼女は彫像のように動かなくなったのだ。

 周囲を満たしていた都会の喧騒が消えて静寂な世界となったことに空恐ろしい気分になりつつも、祥はそれが徹に起因していることを疑わなかった。

 彼自身が地縛霊などと対決したときに「霊が支配する時空」に引き込まれた話をよく聞かされていたが、自分がそのようなシチュエーションに遭遇するとは思ってもいなかった。

 そして、文字どおり彫像のように佇むクラリンを見ると、自分が時間の流れが違う空間に取り込まれていると信じざるを得ない。

 祥は、他人の目が気にならない状態ならばホテルの正面から進入して裏口に抜ければ、どこかで徹に遭遇できると考えてホテルの建物に進入したのだ。

 しかし、徹は既に通過した後らしくホテル内で徹に接触することは出来ず、祥は裏口から外に出てホテルグレースイン池袋の駐車場を見渡した。

 そして、そこに異様な物体を見つけたのだった。















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