第497話 妖の恩返し?

 若いドクターはそうするのが当然であるかのように山葉さんに問いかける。

「癌があるのは子宮の入り口部分ですので、楔状に切除すれば術後も妊娠は可能です。私たちが治療計画を立てますので、それに合わせて日程を考えていただきたいのですが」

 山葉さんは無言でドクターの顔を見つめていたが、やがてゆっくりとした話し方で彼に告げた。

「私は子供をあきらめたくありません。子供を無事に生んで、私も助かる方法を考えてください」

 僕は彼女の言葉を半ば予期していたがそれでもドクターが気を悪くしたのではないかと少なからず慌てた。

「山葉さん、ドクターは山葉さんの身体の安全を優先した方がいいと言っているのですよ」

「ウッチーは莉咲を身ごもった時に彼女を生むように私をずいぶんと説得したではないか。今回は何故そう簡単にあきらめがつくのだ?」

 彼女が食い下がったので僕は医師の顔色を窺いながら口ごもっているが、医師は砕けた雰囲気で僕たちに言う。

「大事な問題ですから即決されなくてもいいですよ。ただし手術は急いだほうが良いと申し上げます。一両日中にはご連絡ください。その上で検査や手術入院のスケジュール調整に入らせていただきます」

 山葉さんは無言でうなずいたが、ドクターの指示に従うつもりでないのは明らかだった。

 僕は、どうしたものかと周囲を見渡したが、その時目に入ったのは絶対に見たくない存在だった。

 病室の隅なので山葉さんからかなりの距離があるがそこには、僕たちが死期が迫った人の近くで見かける黒い影が佇んでいたのだ。

 位置関係を考えるとその影は山葉さんの視野に入っているはずなのだが、山葉さんはその存在に気づいている様子はない。

 幸か不幸か、死者のお迎え的な存在の黒い影はたとえ霊視能力感を持った人でも、死を迎える本人には見ることが出来ないのかもしれない。

 しかし、それは僕にとっては極めて都合が悪い話だった。

 何故ならば、その影が現れたことを理由に治療を受けるように説得することが出来ないからだ。

 仮に僕が自分にその影が見えているからと主張して、山葉さんに治療を受けるように説得しても、彼女は自分にはそのようなものは見えていないと突っぱねるのは想像に難くない。

 僕たちは診察室を後にしたが、帰りの車の中では二人とも無言だった。

 やがて、カフェ青葉にほど近くなったころに、山葉さんが口を開いた。

「ウッチー、我が儘かもしれないが私の方針を認めてくれないか。私は莉咲を身ごもった時に彼女を堕胎しようとしたがウッチーを初めとして母や細川さんに叱られたし、実際に莉咲を生んで育てるうちに改めて命の大切さに気づいたのだ。ウッチーもあのお医者さんも私のことを気遣ってくれているのは理解できるが、私はきっと生き延びるからこの子を助ける方法を考えたい」

 僕は様々な感情が自分の中で渦巻くのを感じた。

 彼女に自分の身体を第一に考えるべきだという正論を押し付けて、翻意させたいのだが、僕自身も授かった子供をそう簡単に諦められない思いがあって強く言えない部分がある。

 しかし、黒い影が見え始めたのは総合病院でドクターに癌の告知を受けた直後なので、それを受けて山葉さんが子供をあきらめない選択をしたのと同時に黒い影が現れたように思えるのだった。

 僕が黙ったままでいると、山葉さんは活気のある表情でぼくに話す。

「斎藤さんのお宅の祈祷には、私の先祖の刀や弓も持っていこう。強力な霊が潜んでいるのは明らかだからお守り代わりに持っていけば役に立つかもしれない」

 強力な霊を相手にするというのにむしろ楽しそうな表情を浮かべる山葉さんを前にして僕は話を合わせるしかなかった。

「そうですね。油断しないようにかかりましょう」

 自宅兼店舗であるカフェ青葉に帰り着いた時には夕食には遅いくらいの時間になっていた。

 しかし、裕子さんはおろか祥さんまで食事をとらずに待っていた様子で、スタッフ用の食事スペースでは莉咲を加えた三人が待ち構えていた。

「ママ!」

 大好きなママが戻ってきたのを見て、莉咲が嬉しそうな表情浮かべ、山葉さんは莉咲をハイローチェアから抱え上げると頬ずりをする。

「ずいぶん遅かったのね。検査の結果はどうだったの」

 裕子さんが心配そうに尋ねたので、僕はどう話したらよいかと考え込んだが、山葉さんは事実を簡潔に伝えた。

「子供は元気に育っているが、私の子宮には癌が出来ているそうだ。医師は子供をあきらめろと言うのだが私は子供も自分の命も手放すつもりはないよ」

 裕子さんと祥さんの表情が暗くなり僕と同じように心配に押しつぶされそうになっていることが見て取れたが、裕子さんは気丈に答えた。

「そう、山葉が決めた事ならそれでもいいけど、お医者さんとよく相談して最良の治療方法を考えるのよ。何もしないでおいて子供を産んでから治療を考えるなんて言ったら私がお仕置きをするわよ」

 裕子さんは山葉さんの性格を知り尽くしているだけに、彼女が言いそうなことを先回りしてけん制する。

「そ、そんなこと誰も言っていないよ。それよりお腹がすいたからご飯にしよう」

 その日の夕食も祥さんが考案したおいしそうなレシピが並んでいたが、僕は何を食べているかわからない状態だった。

 食事の後、自室に戻りお風呂に入った山葉さんは遠足の準備でもするように式神や式王子の製作に取り掛かり、僕は部屋に残って莉咲のお守りをしていた。

 しばらくの間絵本を読み聞かせていると莉咲は眠りにつき、僕は娘の寝顔を見ながらこれからどうしようかと考えを巡らせていた。

 その時、聞き覚えのない女性の声が僕の頭の中に響いた。

「ずいぶん困っているようね。愛する者を救いたいと言う思いはみな同じ、私があなたの願いを叶える手助けをしましょうか」

 その声はゾクゾクするようなコントラルトで僕の耳元で囁くように響くが声の主は見当たらない。

 僕は周囲を見回すうちに、部屋の壁に小さなアシダカグモがいることに気が付いた。

 それは先日、山葉さんに抹殺されないように人目が付かない場所に逃がしてあげたクモのように思えたが、その時からわずかな時間の間に一回り大きくなったように見える。

「きみはこの前助けたクモなのか?普通のクモに見えたのに妖だったのか?」

 再び魅惑的な女性の声が僕の頭に響いた。

「そうよ。助けてくれたお礼もしたいし、私と魂の契約を結んで欲しいの。そうすればあなたの奥様は死の運命から逃れてあの影も消えるはずよ」

 僕は相手が妖であることを忘れたわけではなかったが、考えあぐねていた山葉さんの救済方法を提供すると言うクモの話に反応してしまった。

「本当にそんなことが出来るのか?」

 僕の問いに答える代わりにアシダカグモはかすかに身動きし、僕にはそれが彼女がクスッと笑ったように思えた。












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