第498話 消失した黒い影

 ソファーに座ったままでまどろんでいた僕は莉咲の声で目が覚めた。

「パアパ、パアパ」

 莉咲は僕が呼びかけに答えないためむきになり、ベビーベッドに寄り掛かった僕の頭をペチペチと叩いていたのだ。

「ああ、ごめんよ莉咲。ウトウトしていたみたいだ」

 僕は莉咲に話しかける時にむやみに幼児言葉を使わないで普通に話すようにしている。

 莉咲は賢い子なので自分話す言葉が拙くても大人が話す言葉は十分に理解していると思えることがあるからだ。

 僕が反応したことで莉咲の顔にうれしそうな表情が広がり、彼女の上機嫌は僕にも伝染した。

 莉咲の笑顔のおかげで僕は山葉さんの健康問題で胸がつぶれるような思いだったのが嘘のように感じられた。

 しかし、僕の脳裏にはうたた寝する前に部屋の壁に現れたアシダカグモの子供と会話をしていた記憶が浮上したのだった。

 僕は慌てて記憶の中でアシダカグモがいた壁を見るがそこには何もおらず、僕はどうやら夢を見ていたようだと自分を納得させる。

 夢の中ではアシダカグモの正体は妖で、先日僕が命を助けたお礼に山葉さんの運命を変えて生き延びることが出来るようにすると持ち掛けたのだ。

 アシダカグモの妖はお礼と言いながら、山葉さんを助けるためには自分と魂の契約を結ばなければならないと話し、僕は山葉さんの命には代えられないとアシダカグモの妖が持ち掛けた魂の契約を受け入れたところだった。

「どうかしているな」

 僕は莉咲のおむつを替えてあげながら夢の不条理さに苦笑し、あまつさえ妖の申し出を受け入れた自分の気弱さが可笑しく思えた。

 その時山葉さんが祥さんを引き連れて部屋に戻ってきた。

「明日使う式神と式王子が完成したよ。明日はそれらに加えてお祖母ちゃんにもらった弓と、日本刀を携えて現場に乗り込むことにしよう」

「お正月フェアの売れ残りの破魔矢もあったので一緒に持っていくと良いですよ」

 祥さんが付け加えた。

 山葉さんの話は予定通りに準備が出来たことを示しているが、僕は彼女に張り付いていた黒い影が消えたことに気が付いた。

 あたかも死神のように死期が迫った人々の近くに現れる影が消えたということは山葉さんが何らかの決断をして彼女が死ぬ運命から脱したことを示しているのかもしれない。

「私は倉庫にある破魔矢を取って来るよ。式神と式王子を戴く「みてぐら」に弓矢と刀を並べたところを莉咲に見せてあげたいのだ」

 山葉さんが再び階下に降りた時に、僕は祥さんにさりげなく尋ねた。

「祥さんは彼女に霊の黒い影が張り付いていたことに気が付いていなかったか?」

 祥さんは霊視能力を持ち、祓い言葉を駆使して浄霊もできる一門の霊能力者なので、黒い影の存在に気が付いていたか確かめたかったのだ。

「いやだ、ウッチーさんにもあれが見えていたのですか?私は山葉さんのがん告知の話を聞いたばかりの時にあれが見えたので、縁起が悪いから話を切り出せなかったのです。でもそれがついさっき嘘みたいに見えなくなったのですよ」

 祥さんは秘密を共有する者特有の雰囲気で嬉しそうに僕に告げる。

「僕も、あれを見てどうしようかと思い悩んでいたんだ。黒い影が消えた時に彼女は何か自分の病気の治癒に関わる決断でもしたのだろうか?」

 祥さんは、自分の記憶を巻き戻そうとするように目を閉じて考えていたがやがて口を開いた。

「山葉さんは、妊娠は諦めないけれどお母さんにお仕置きされるから癌の切除手術はしてもらうように病院の先生に相談するつもりだと言っていました。裕子さんが叱らなかったらあの人はお子さんが生まれるまで一切治療をしないつもりだったのかもしれませんね」

「きっとそれだよ。裕子さんはさすがに山葉さんのことを理解しているんだね」

 僕は黒い影が消えた理由を理解したと思ってすっかり気分が軽くなっていた。

 しばらくして山葉さんが階下から僕たちを呼ぶ声が聞こえたので、僕は莉咲を抱えて階段を降り、その後ろから祥さんと騒ぎを聞きつけて自室から顔を出した裕子さんも続く。

 全ての住人が集まった前で山葉さんは弓と三本の破魔矢、そして式神を作るのに使う日本刀を「みてぐら」の周辺に配置したオブジェを示した。

「明日使う祭具を集めてみたのだ。いかに気配の強い霊といえども必ず折伏して見せるよ」

 山葉さんが並べた祭具を見て莉咲は嬉しそうに笑う。

 僕は弓を取ると莉咲の手に持たせ、いつか彼女がこの弓を引き絞る時が来ることを思った。

 そして、翌日の浄霊も上手く運ぶに違いないと考えるのだった。

 翌日のランチタイムが終わった頃に、僕と山葉さんは弓や日本刀を目立たないようにWRX-STIに積み込んで斎藤さんのお宅に出かけた。

 斎藤さんのお宅のガレージでは鳴山さんが待ち構えており、僕たちは一緒に玄関に入った。

 家の中に入った途端に僕たちは先日と同じ霊の気配に晒された。

「うむ、やはり祓い言葉程度では一時的に追い払っただけで、更に憩いを増して戻ってきたようだな」

 山葉さんは弓と矢を抱えた状態でつぶやき、「みてぐら」を運ぶのを手伝っていた鳴山さんも無言でうなずいた。

 僕たちを出迎えた斎藤さんは相変わらず不安そうな表情を浮かべたまま僕たちを彼の書斎に案内する。

 僕たちは前回、書籍の奥から霊の目が覗いていた本棚の前にみてぐらを設置し山葉さんは弓と矢をローテーブルに置いてから御幣を手にする。

 僕は山葉さんの日本刀を手にしたままで待機することにした。

 僕はいつの間にか日本刀を手にして鯉口を着る動作が身についてしまった自分を意識して可笑しくなった。

 山葉さんが祈祷に先立って式王子を召喚する法文を詠唱し始めた時に部屋の中に何かが弾けるような高い音が響く。

 そして、僕は自分たちが通常とは違う空間に取り込まれたことを悟った。

 斎藤さんと鳴山さんは時間が止まったかのように動きを止めて佇んでおり、それまで通りに動いているのは僕と山葉さんだけだ。

 周辺の市街地から聞こえていた街の喧騒も消え静寂に包まれた中で、山葉さんが法文を唱える声だけが響いている。

 そして部屋の中には先ほどまで存在していなかった人影が現れていた。

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