第493話 抗原検査キット
鳴山さんと斎藤さんが店を出た後、山葉さんはカウンターを片付けながらつぶやいた。
「今度の依頼者は無口な人なのだね。鳴山さんが代わりにしやべっている感じだ。ともあれ現場に行って本物の霊障か確かめる必要があるので、斎藤さんの倉庫を見せてもらおう。祥さん、明日のお昼からお店を頼んでいいかな」
カウンター脇で待機していた祥さんは元気に答える。
「もちろん大丈夫ですよ。明日はお昼から小西さんが来てくれるので楽勝です」
僕は店内の状況を見て、彼女に告げる
「今日のフロア業務は僕が引き継ぐのでアルバイトの沼さんが来たら祥さんは上がってください」
お客さんがオーダーするために呼び出しボタンを押したところだったらしく、祥さんは片手をあげて聞こえたことを示すとフロアに戻った。
祥さんは朝の営業開始時間から勤務しているため、閉店時間まで仕事をすると勤務時間が長くなりすぎ、適当に切り上げさせる必要がある。
田島シェフはランチの仕込みから入っているのでそこから閉店までといった具合にカバー範囲をずらす工夫をしているが、育児休業中でなければオーナーの山葉さんは連日十二時間以上仕事をしかねない。
細川オーナーや山葉さんは勤務時間という概念がそもそも希薄だったので健康管理のために注意が必要だった。
その日は営業時間短縮要請に応じていることもあり、僕たちは早めに店じまいして、賄の夕食を取ることになった。
最近は夕食には裕子さんと莉咲も合流することが多く、沼さんと田島シェフも加わり賑やかな夕食になった。
「今日の晩御飯の賄は祥さんが作ってくれたのですよ」
田島シェフが紹介すると、祥さんは鉄板焼きなどに使うこてを片手にポーズをとり、厨房の鉄板の上にはお好み焼きが並んでいる。
「本日の賄はお好み焼きとおにぎりに味噌汁とほうれん草のおひたしを付けました」
「祥さんありがとう。仕事の時間が終わっているのに賄を作ってもらっては申し訳ないのだけど」
「外食するとお金がかかるから、居座って賄を貰っている方が食費を節約できるのです」
僕は祥さんにお礼がてら気遣うが、祥さんは気にも留めていない様子だ。
「関西人にお好み焼きで勝負を挑むなんて祥さんも命知らずなことをしますね」
沼さんはメニューを聞いて祥さんに余計なことを言っているが、その表情は嬉しそうだ。
「私にはもんじゃ焼きとお好み焼きの違いがいまいちわからないのですが、今日のお好み焼きはクラリンさんに教わったレシピで、ベーシックなブタ玉と筋こんにゃくの二種類あるんですよ」
もんじゃ焼きと区別がつかないと言われて沼さんの顔には不安が広がったが、祥さんの作ったお好み焼きはみじん切りのキャベツが沢山入れてあり、生地に混ぜ込んだイカやちくわ天かすと相まってふんわりとした食感を醸し出している。
「祥さん脅かさないでよ、筋コンニャクも美味しく煮込んであるし完璧なお好み焼きじゃないの」
筋コンニャクとは牛筋とコンニャクを長時間に込んだもので、お好み焼きの具としては手のかかるものなのだが、祥さんはしっかりと下ごしらえをしていたのが窺える。
ハイローチェアに座って一緒に食事をしている莉咲も美味しそうにお好み焼きを頬張っていた。
その時、山葉さんが突然立ち上がり厨房の外にある洗面台に走った。
「私のお好み焼きはそんなにまずかったのですか」
祥さんの表情が曇るが、ぼくはその情景に既視感があった。
「ちがうよ。祥さんのお好み焼きはすごく美味しいから大丈夫だ」
僕は祥さんに告げると、山葉さんの後を追った。
僕は祥さんが初めてまかない料理に挑戦した時を思い出していたのだ。
その時も、山葉さんは莉咲を懐妊したところで、悪阻で気分が悪くなって洗面台に走ったのだがそれは決して祥さんの料理がまずかったわけではなかった。
「大丈夫ですか山葉さん」
僕が背後から声を掛けると、山葉さんは涙目になった顔で僕を振り返ると小さな声で言った。
「ウッチー、悪いが例の検査キットを買いに行ってくれないか」
僕の予感は当たっていたらしく、山葉さんは妊娠検査キットを買いに行って欲しいと要望しているのだ。
僕は食事を済ませた後でまだ営業しているドラッグストアに出かけることになった。
とはいえ、夕食はまだ途中だったので僕が皆が食事をしているテーブルに戻ると、事態を察した裕子さんが嬉しそうに僕に言う。
「婿殿、今度は男の子だといいですね。莉咲ちゃんの弟が出来るにはちょうどいいタイミングですよ」
他のスタッフたちも笑顔を浮かべており、実のところは気恥ずかしい思いもあるのだが僕は言い訳がましい事は言わずに堂々としていることにした。
夕食の後で僕が問題の抗原抗体反応を使った検査キットを駅前のドラッグストアで購入し、山葉さんがそれを使った結果は見事に陽性の反応が現れた。
「明日は斎藤さんの倉庫に祈祷のための下見に行くつもりだったが、時間を調整して産婦人科のクリニックで検診を受けてから行くことにしよう。世の中は大変な状況だが私は授かった子供を大切に守って育てていくつもりだ」
山葉さんは素直に二人目の子供が授かったことを喜んでおり、莉咲が生まれる前のいざこざを思い出した僕は山葉さんが前向きなことが殊更にうれしかった。
「まだ妊娠初期だから大事にしましょう。祈祷の神楽も控えた方が良いのではありませんか?」
僕が気遣うと、山葉さんは明るく笑う。
「私の浄霊は霊を相手に武器を振り回して戦うわけではない。ゆるゆると神楽を舞って祭文を唱える分には体に障ることは無いと思うよ。それに明日は下見だけのつもりだから体に無理はかからないはずだ」
僕は彼女の言葉通りだと納得し、翌日僕たちは産婦人科クリニックを訪れた。
産婦人科クリニックでは莉咲を取り上げてくれた菱沼先生が当番医として診察に当たった。
僕は当然ながら待合室ですこし居心地が悪い思いをしながら山葉さんの診察が終わるのを待つことになったが、山葉さんが診察室に入ってしばらくしたころ、僕は看護師さんに呼ばれた。
何の話だろうかと怪訝に思いながら入った別室では菱沼先生が僕を待ち受けていた。
「内村さん、奥様の血液検査の結果で気になる数値が出ています」
菱沼先生は生真面目な表情で僕の顔を見つめており、僕は先生の表情の真剣さゆえに胸騒ぎが抑えられなかった。
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