第447話 黒い影との対決
僕は厨房の入り口脇に現れた影の正体が何なのか判断しかねていた。
それが問題の黒い影だとしたら、莉咲の余命が長くないことを示していると思えるため、強いてそうは思いたくないというのもある。
結局僕は考えることを放棄して、従前からの行動を続けることを選んだのだった。
「祥さんとりあえず、朝食を食べよう」
祥さんは何か言いたそうに僕の顔を見たが、無言でうなずくと厨房に入った。
厨房内に設けられた従業員用の食事スペースに祥さんも加わり僕たちは無言で朝食を食べ始めた。
裕子さんは焼き魚と味噌汁に野菜のお浸しと納豆まで添えてスタンダードな和風の朝食をあっという間に準備していた。
山葉さんはテーブルの横に置いたハイローチェアに寝かせた莉咲の様子を時折伺いながら朝食を食べていたが、彼女は入り口近くの壁に目をやると動きを止めた。
僕はその様子を見て彼女の視線を追い、その理由に気が付いた。
祥さんが厨房の外で発見した黒い影が、壁を通り抜けるようにして厨房の中に姿を現していたのだ。
山葉さんの前髪がかすかに逆立つのを見て、僕は思わず椅子から腰を浮かせる。
次の瞬間に山葉さんは席を立って黒い影に歩み寄っていた。
「何故だ、何故こんなものがここに現れる」
山葉さんは黒い影に手を伸ばしてつかみかかりそうな雰囲気だが、黒い影は霊的な存在であり物理的な接触が出来るとは思えない。
しかし、死期が迫った人間の傍に現れる時空の裂け目だとする山葉さんの説が正しいとして、それに接触したら生身の人間にも害が及ぶのではないかと思えた。
僕は山葉さんがそれに手を触れないように後ろから羽交い絞めにしていた。
「山葉さん、まだそいつの正体は不明ですからむやみに接触しないで様子を見ましょう」
山葉さんは僕の腕を振りほどこうと身動きしながら小声でつぶやく。
「お祖母ちゃんだけでなく、莉咲まで連れて行こうと言うのか。私の大切な人を連れ去ろうとするのなら今度こそはその存在そのものを消してやる」
僕は彼女が我を忘れる程に激高していることに気が付く。
自分が愛する人間を死の世界に連れ去る存在が事前に見えてしまうのは、時として残酷に過ぎることなのだ。
祥さんと裕子さんがそれぞれに山葉さんを宥めようと口を開いた。
「山葉さん、徹さんの言う通りですよ。それはいつもの黒い影と違うような気がします。もう少し様子を見た方がいいと思います」
「山葉、お落ち着きなさい。私にも何か見えるけれど、そんなものが直接莉咲ちゃんに手を出せるわけではないはずよ」
三人がかりで引き留められて、山葉さんも足を止めると大きく息を吸ってこの世の者ならぬ存在を見つめる。
僕たちが見つめる前で黒い影は厨房の内部でいったん動きを止めた。
それはまるで、侵入した部屋の中を見渡して目標を探しているようなしぐさに見えひどく人間臭く思えた。
僕たちが時折見かける死期を迎えた人をお迎えに来る黒い影はもっとドライで機械的にその人との距離を詰めていく印象があったからだ。
部屋の中でいったん動きを止めていた黒い影はゆらりと動くと再び進みはじめ、その方向には莉咲を寝かしたハイローチェアが置いてあった。
「ああ、そちらに進むと莉咲が居る」
山葉さんが消えそうな声でつぶやいた時、僕は自分が彼女を押しとどめていたことを忘れて黒い影が莉咲を目指して進む新路上に歩いて行くとそこに立ちふさがった。
「ここから先には進まさない!」
黒い影がぶつかって何が起きるかは全く分からなかった。
先ほど厨房の壁を通り抜けたように何の抵抗もなく僕を通り抜けていくかもしれず、あるいは僕を飲み込んで得体のしれぬ空間に連れて行くのかもしれないが、僕はどうしても手をこまねいて見ていることが出来なかったのだ。
そして、いつの間にか山葉さんが僕の横に来て、僕の左腕に縋りつくようにして一緒に立っている。
僕と目が合った彼女は、小声で囁いた。
「ウッチーが身をもって莉咲を守ると言うなら私も一緒だ」
僕は彼女にうなずくと、接近する黒い影を待ち受けた。
黒い影はゆっくりと僕たちに接近するが、近づくにつれてそれは人の形をしているように見えた。
「これ、なんだか人の姿みたいに見えますよ」
山葉さんは眉間にしわを寄せて黒い影を見つめながら答えた。
「私もそう思う。もしかしたら例の黒い影とは違うものかもしれないな」
それはある意味で喜ぶべき情報かもしれなかった。
少なくとも莉咲に無慈悲に死を運んでくる存在ではないかもしれないと思えたからだ。
しかし、壁を通り抜ける霊的な存在が僕たちの莉咲に向かって進みつつあるのは、やはり歓迎できる事態ではない。
山葉さんは、従業員用食事スペースのテーブルの脇で成り行きを見守っていた孟雄さんに呼びかけた。
「お父さん、通路を挟んだ和室に「みてぐら」と式王子が置いてあるから大急ぎでここに持って来て」
孟雄さんは娘からの要請を理解すると同時に動き始めた。
「わかった。すぐ持ってくるきね」
孟雄さんは文字通り厨房から駆け出して行き、裕子さんと祥さんは何か相談をしている様子だった。
そして、祥さんは何かをつぶやきながら黒い影に接近していく。
僕の耳には彼女が唱える神道の祓い言葉が届き、祥さんが黒い影を邪な存在として神道の祓い言葉で対処しようとしていることが分かった。
祥さんは祓い言葉を唱えると、手刀を黒い影にふって清めようとし、厨房に白い閃光が閃いた。
しかし、黒い影は微動だにせず、むしろ祥さんの方がダメージを受けているように見えた。
祥さんがよろめいたのを横にいた裕子さんが慌てて支えるのが見え、その横をみてぐらを抱えた孟雄さんが駆け抜けていた。
僕は孟雄さんから式王子の高田の王子と「みてぐら」を受け取り、山葉さんに御幣を渡したが、山葉さんがいざなぎ流の祈祷を行う時間は残されていなかった。
黒い影は僕たちの目の前に迫っていたのだ。
「山葉さん、この黒い影に触れてみますよ」
僕はただ待ち受けるよりも、自分の意志でそれと接触したいと思って山葉さんに尋ね、彼女も無言で僕にうなずいて見せる。
僕の左手を山葉さんがしっかりと握りしめ、自由な右手を黒い影に向かってゆっくりと伸ばした。
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