第445話 最初の一歩
「春香ちゃん、莉咲が変な奴に連れて行かれるってどういうことなの」
僕は思わず春香ちゃんに尋ねていたが、彼女は答えあぐねた様子だった。
彼女はしばらくもじもじと考えている様子だったが、おもむろに口を開くと言った。
「うーんとね、わかんない」
僕は最初あっけにとられたが、彼女には自明の話でも僕たちに理解できる形で話をするには相当な語彙力が必要なことに気がついた。
今の彼女では僕に筋道だって説明することが出来ないに違いない。
「すいません。この子は今でも時々変なことを言うものですから。これ春香おかしなことをよその人に話しては駄目でしょう」
春香ちゃんの母の静香さんは申し訳なさそうに僕に言い、春香ちゃんはたしなめられて不満そうな表情を浮かべる。
「いえ、いいのですよ。プレゼントをありがとうございます。春香ちゃん教えてくれてありがとう」
春香ちゃんの表情は僕の言葉を聞いて少し明るくなるが、僕自身はこれ以上春香ちゃんを追及しても情報は得られないとあきらめるしかない。
静香さんが無言で会釈する間に、パンケーキセットが二人分乗ったトレイを抱えて山葉さんが現れた。
どうやら、小西さんが気を聞かせて彼女にも柳瀬母娘の来訪を知らせたらしい。
「いらっしゃいませ。いつもご贔屓いただきありがとうございます。ご注文のイチゴのパンケーキセット二つをお持ちしました」
山葉さんがテーブルにパンケーキセットを並べる間に僕はプレゼントと春香ちゃんの予知の件を耳打ちする。
「柳瀬さんから莉咲にプレゼントを頂きました。それから春香ちゃんが莉咲に何か起きると教えてくれているのですが詳細は分からないのです」
山葉さんが一瞬動きを止めて息をのんだのがわかったが、彼女は気を取り直して静香さんにお礼を言う。
「お客様にプレゼントを頂くなど申し訳ない話ですが折角のご厚意ですので頂きます。どうもありがとうございます」
山葉さんが華やかな笑顔を浮かべてお礼を言うと静香さんと春香ちゃんも嬉しそうに笑顔を返す。
それ以上、居座るわけにもいかないので僕は山葉さんと一緒に柳瀬母娘の前から撤収することにした。
「ごゆっくりどうぞ」
僕が二人の前から下がろうとすると、山葉さんはそそくさと僕の後に続いた。
バックヤードに下がると同時に彼女は早口に僕に尋ねる。
「うっちー、莉咲に何か起きるとはどういうことなのだ?」
半ば予期していたが、僕は彼女の反応に慌てて答えた。
「春香ちゃんの言葉は莉咲が変な奴に連れて行かれるから気を付けた方がいいと言うものでしたが、詳細についてはわかりません。おそらく彼女の語彙が不足しているので説明することが出来ないのだと思います」
山葉さんはため息をつきながら額に手を当てる。
「なんてことだ、みすみす脅威が迫っていると判りながら詳細がわからないなんて」
僕は山葉さんに掛ける言葉もなく、無言で対応策を考えるしかなかった。
結局、僕たちは莉咲の身に何らかの脅威が迫っていることを知りながら、何の対処もできないまま、どちらからともなく二階にいる莉咲を見に行くことになった。
二階の僕たちの部屋では、山葉さんの両親の裕子さんと孟雄さんが息を詰めるようにして莉咲を見守っていた。
「どうしたんですか」
先程の春香ちゃんの予言と相まって僕は悪いことが起きたのではないかと不安に取りつかれるが、孟雄さんは口の前に指をあてて見せる。
莉咲本人はベッドの横でつかまり立ちをした状態で僕たちに気付いて振り返った。
昨日の、バースデーパーティーでは会場の関係でハイローチェアーに鎮座したままだったが、最近の莉咲はつかまり立ちから伝い歩きをすることが増えている。
僕と山葉さんの姿を認めた莉咲は無邪気な笑顔を浮かべて体の向きを変える。
そこに至って僕は孟雄さんと裕子さんが何を待っていたのか理解し、山葉さんもそれは同様だったらしい。
山葉さんはしゃがみ込むと、両手を広げて莉咲に呼びかけた。
「莉咲、おいで」
莉咲は片手をベッドにかけているが支えのない部屋の床に向かって足を踏み出した。
最初の一歩を踏み出すと莉咲はベッドから手を離して二歩三歩とゆっくりと歩みを進める。
やがて、莉咲は待ち受ける山葉さんのもとに辿り着いた。
「莉咲が歩いた」
得意満面の表情の莉咲を山葉さんが抱き上げ、孟夫さんはいつの間にかスマホを取り出して動画撮影している。
「今朝から何となく歩きたそうな雰囲気だったから様子を窺っていたの。一気に歩かせてしまったのはさすがお母さんの貫禄ね」
裕子さんも嬉しそうに話し、山葉さんは莉咲の顔に自分の頬をスリスリしている。
些細なことかもしれないが、それは僕たちにとって記念すべき一瞬だったのだ。
ひとしきり騒いだところで僕と山葉さんは現実に引き戻された。
「こうして見たところ、莉咲には何の異常もない。春香ちゃんの予言はこれから先に起きる事象を指していたのかな」
山葉さんが莉咲を抱えたままでつぶやき、僕もそれに答える。
「そうですね。彼女は変な奴に連れて行かれると話していたので、外部からの侵入者には気を付けた方がいいかもしれません」
僕たちの深刻な雰囲気に裕子さんも気付き、心配そうな表情で僕たちに尋ねた。
「婿殿、侵入者とは穏やかではありませんよ。一体何の話をしておいでなのですか」
山葉さんの両親に伏せておくわけにもいかず、僕は春香ちゃんとの関係から先ほど聞いた彼女の言葉まで説明する羽目になった。
僕の話を聞いた孟雄さんは、当惑気味に僕たちの部屋を眺める。
「一階の店舗はセキュリティが掛かるようになっているし、この部屋も二階にあるからそう簡単に外部から侵入できるとは思えない。実はこれから莉咲ちゃんを連れて散歩に行こうかと思っていたのだが、そんな話が有ったのならばやめた方がいいのかな」
武雄さんはしばらく滞在すると言っていたものの、いずれは四国に帰る予定で孫と触れ合う時間は貴重なはずだ。
山葉さんがいつになく発言しづらそうにしているのを見て、僕は慌てて言った。
「裕子さんと二人で見守っていれば問題になるようなことはないと思いますよ。是非散歩に出かけてください」
山葉さんは僕の言葉を聞いて安心した様子で口を開く。
「妊娠中の散歩の時期にあちこちの公園に出かけたが、代々木公園が一番落ち着いた雰囲気だったからおすすめするよ」
「そうね、バリアフリーだからベビーカーも移動しやすいしあそこにしましょうか。お父さん運転には気を付けるのよ」
裕子さんの言葉に孟夫さんが殊勝にうなずき、裕子さんと孟雄さんは莉咲を伴って出掛けることになった。
武雄さん達が帰るまで、僕も山葉さんもカフェの仕事をしながら落ち着かなかったが、無事に帰ってきた三人を見てホッとしたのだった。
結局、その日は何事もなく終わったのだが、次の朝僕は山葉さんに揺り起こされた。
「ウッチー大変だ。莉咲が目を覚まさないのだ」
僕は寝起きの頭に彼女の言葉が浸透するのと同時にはね起きていた。
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