第384話 警察官の到着

「いつもなら事件があれば真っ先に駆け付けるはずなのにどうしたのですか」

僕は冷やかし気味に山葉さんに尋ねた。

「私も自分で不思議に思っているのだが、飛び出していこうとすると莉咲の顔が頭に浮かんで安全な選択肢を選んでしまうのだ」

彼女も母性が強くなっているのだと思い、僕はある意味うれしくなった。

その間に、トイレで聞こえた悲鳴を確認に向かった職員は、青ざめた顔で戻ってきた。

「すいません。警察と救急に通報をお願いします。男性がトイレの中で首を吊って呼吸が止まっている状態なのです」

山を越えてキャンプ場に降りてくる警察官の目印にしようとライトを点灯していた職員も戻ってきたが、次々と起こる異変に驚き戸惑っている感が強い。

ざわついた雰囲気に莉咲が目を覚まして泣き始めたので、山葉さんは莉咲を抱えて歩き始めた。

僕は警察に緊急通報し、次いで救急にも連絡した。

いずれのオペレーターも話をするうちに豪雨で孤立しているキャンプ場だと気づいた様子で、到着には時間が掛かると話すが、救急のオペレーターは救急車に加えてレスキュー隊を出動させ、川にロープを渡してキャンプ場に入る準備をすると言う。

僕は通話を終えると、山葉さんの後を追った。

彼女は莉咲をあやしながら、自殺したとみられる男性が発見されたトイレの方向に歩いていた。

「消防のレスキュー隊が出動して、川にロープを渡してキャンプ場を目指すようです」

僕が一部始終を伝えると、山葉さんは足を止めた。

「そんな方法があるなら警察はどうして山越えなんかしたのだろう」

彼女の疑問は妥当なものだと僕は思う。

「そうですね、警察にはレスキュー用の装備やそれを使った経験もないから思いつかなかっただけなのかもしれませんね」

山葉さんは、僕の言葉を否定はしないが納得できない表情で再び歩き始めた。

キャンプ場管理事務所の職員は、自殺したとみられる男性をトイレから通路まで運び出して救命措置を試みていた。

横たわっている男性は、目をそむけたくなる形相に変貌しているが、その顔には見覚えがあり、傍らには真治さんと貴弘さんが茫然とした状態で立ちすくんでいた。

どうやら自殺したのは真治さんのグループの義男さんのようだ。

「莉咲ちゃんは見ちゃだめでしゅよ」

山葉さんは莉咲を抱える向きを変え、後ろ向きにしてから横たわっている義男さんに近づこうとしており、僕は仕方なく後ろから莉咲をあやしながら彼女に続く。

親としては、無垢な自分の子供に縊死体を見せたくないので、僕は莉咲が前を向かないように注意を引くのに必死だ。

義男さんの首に巻きついていたロープは取り外されて脇に置かれているが、その首には真横にくっきりとロープの跡が残っている。

遺体からは悪臭が漂うが、キャンプ場の管理事務所の職員は果敢に心臓マッサージを行っていた。

しかし、AEDを運んできた職員は義男さんの首で脈をとり、次いで目の中にライトを照らしてからゆっくりと首を振った。

その時、夕刻から歩きとおしで到着した警察官が到着してイベントホール内に現れた。

「無線で状況を聞きました。検視は我々が行いますので一般の方々を遠ざけてください」

相当な距離を歩いてきたはずだが、雨合羽を脱ぎ捨てた警察官二人は疲れた様子も見せずに、義男さんの遺体の状況を調べ始めた。

キャンプ場の職員も協力してパーティションを運んできて遺体が人目に触れないように配慮する。

警察官の一人は義男さんの検視活動を担当し、もう一人は関係者に事情聴取を始めた。

警察官が最初に話を聞いたのは、義男さんと同行したグループの真治さんだった。

「あなたが最初に発見したのですよね。この方が自殺していることに気が付いた経緯を教えてもらえますか」

真治さんは義男さんの遺体と貴弘さんを交互に見比べていたが、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。

「不審者騒動で目を覚ましたのですが、義男がいないことに気が付きました。その時は多分トイレに行ったのだろうと思ったのです。管理事務所の人達はパーティションなら外に出ないように言っていましたが、トイレは構わないと言ったので僕もトイレに行くことにしたのです」

僕は、不審者騒ぎの直後に彼らの居場所を見て、一見しただけでは誰もいないように見えたことを思い出した。

とはいえ、ちょっとのぞいただけで内部を全て見て取れるようではパーティションが用をなしていないのであって、パーティション内の床付近で誰か寝ていた可能性は否定できない。

「そして、トイレに行ったところで義男さんを発見したという訳ですね」

真治さんはゆっくりとうなずき、警察官はさらに質問を重ねた。

「あなたが発見したときに、義男さんはまだ息がある状態でしたか」

真治さんは同行者の貴弘さんの顔を見たが、貴弘さんは眼を合わすこともなく無言のままだ。

真治さんはその時のことを思い出すように宙を見ながら答えた。

「いいえ、僕が見た時には義男はもう動かなくなっていました」

警察官は真治さんの言葉を書き留めていたが、検視を行っていた警察官が歩み寄って報告を始めた。

「死因は縊死です。死亡推定時刻は一時間以内。ただ、わき腹に打撲痕があり肋骨が折れている可能性があります。打撲痕には生活痕があり縊死する前に打撲を受けたと考えられます」

「あ」

僕と山葉さんは野次馬的に現場を眺めていたわけだが、山葉さんが小さな声を上げて両手で口を覆ったので警察官が振り返った。

「あなたは?」

「私は不審者に襲撃された家族なのですが、実は襲撃されたときに不審者の脇腹に蹴りを入れていたものですから」

山葉さんが、仕方なさそうに告げると警察官二人は顔を見合わせた。

「情報の提供をありがとうございます。ただ、人間の肋骨は女性が蹴ったくらいで折れるものではありませんし、打撲傷だけで不審者とこの方を結び付けることもできませんので、参考として聞かせていただきます」

「いえ、いいんです。そんなつもりでお話した訳でもありませんから」

山葉さんは控えめに警察官に答え、二人の警察官は職務に戻ろうとする。

しかし、山葉さんは話を続けた。

「ただ、その義男さんと言う人は自殺したのではなくて、誰かに殺されたのではないかと思うのですが」

遺体の検視に戻ろうとしていた警察官が足を止めた。

「何故そう思われるのですか」

訝しそうな表情の警察官に山葉さんは答える。

「義男さんの首に残るロープの痕が、頚椎の軸方向に対して垂直にロープで絞めた状態になっています。自殺で首を吊った場合は咽喉の辺りから後ろに行くにしたがって斜め上に痕跡が残るはずです」

警察官は慌てて遺体の確認に行ったがやがて戻ってきた。

「この方の言う通りです。ロープの痕から判断すると、後ろからロープをかけて絞殺された可能性が高いと思われます」

もう一人の警察官は、キャンプ場の管理者を振り返ると、新たな指示を始めた。

「この建物の出入り口を固めて人が出入りしないようにしてください。そして、宿泊者名簿を確認して姿を消した人間がいないか確認をお願いします」

警察官は殺人事件とみなして、犯人を確保する方針に切り替えたようだ。

僕は捜査の先行きが気になったものの、山葉さんが先ほどから莉咲を抱えたままだったことを思い出して彼女に言った。

「莉咲を僕が預かりましょうか」

「すまない。そうしてくれ」

僕は山葉さんから莉咲を受け取ると、両手で抱えた。

莉咲は順調に成長しており、体重も八キログラムを超えて抱えると確かな手ごたえがある。

まだ深夜と言っていい時間帯で眠そうな様子なので、ぼくは横抱きにして楽な状態にしてあげた。

ついでに、遺体が置かれている場所から少し距離を取ろうと僕が後ろを向くと、僕の目に輪郭のぼやけた人影が映る。

それは、殺された疑いが強い義男さんのように見えた。

死霊と化した彼は、自分の遺体やそれを取り巻く僕たちを虚ろな表情で眺めながらそこに佇んでいた。


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