リモートワーク

第370話 無人の講義室

八月に入って間もないある日、カフェ青葉の厨房に、木綿さんの明るい声が流れた。

「ウッチーさん、小西君、私たちの大学が秋学期からキャンパスで授業を始めるって通知が来ていますよ」

それを聞いて小西さんも表情を明るくする。

「本当ですか。四月以来、四ヶ月もオンライン授業しか受けていないけど、これでやっとキャンパスに足を踏み入れられるのですね」

僕と木綿さんはまだしも、今年四月に大学に入学した小西さんは、入学式もなく大学のキャンパスにも立ち入れないままに春学期が終了してしまったのだ。

「やっと普通の生活に戻れるんだね」

僕がつぶやくと木綿さんは微妙に表情を暗くする。

「完全に元通りではないですけどね」

彼女の言葉どおり、大都市を中心にコロナウイルス感染症は第二派到来の様相を示しており、楽観は許されない状況だ。

大学の通知にしても基本方針を伝えたにすぎず、秋学期が始まる九月になってみれば状況が悪化して再びキャンパスが閉鎖される可能性さえあった。

「そうだね、これまで以上に用心して生活することにしよう」

カフェ青葉のスタッフはオーナーの山葉さんがコロナウイルスに対して感染予防策を徹底するものだから、皆がそれなりに対策を考えるようになっていた。

店内にはソーシャルディスタンスを維持するために、ぬいぐるみや注意書きで空席を確保し、いたるところで透明なシートでパーティションが作られ、飛沫の飛散防止を徹底している。

「山葉さんのお母さんはまた東京に出て来たのですよね」

田辺シェフと共にランチプレートの盛り付けをしていた祥さんが僕に顔を向ける。

今日のランチはキスのフライをメインに野菜の素揚げを加えたものでワサビ風味のドレッシングを添えたサラダがアクセントになっている。

市場の業務需要が落ち込んでいる関係で、魚の値段が比較的安いことから最近は日替わりメニューに魚が登場する日が増えている。

「うん。四国のお義父さんが莉咲の顔を見に東京に来たいと言っていたのが、微妙な情勢になっている」

世間では旅行に行くことを推奨する施策もあるくらいで、感染者数が少ない地方から東京に出てくる分にはあまり問題はないと言えるのだが、ご本人の感染リスクが無視できない。

結局、僕たちは粗末な防御手段で自分の身を守るしかないのだ。

僕たちは出来上がったランチプレートをお客さんに運び始めた。

その時、新たなお客さんが来店したので、僕は案内するために入り口に向かったが、その顔を見て思わず立ち止まった。

「栗田准教授。どうされたんですか」

「一義的にはご飯を食べに来たのだが、もう一つの目的としては君と山葉さんに相談したいことが有るのだよ」

栗田准教授は僕の大学の指導教官であるが、山葉さんと僕は何度も栗田准教授とのフィールドワークに同行している。

改まって頼みに来る必要はないのだがわざわざ足を運ぶのが、栗田准教授の律義なところだった。

栗田准教授のオーダーは日替わりランチだったので、僕は本日の日替わりランチであるキスのフライと野菜の素揚げがメインのプレートを栗田准教授に運ぶ。

「白身魚のフライもおいしいですね。タルタルソースが絶妙に合います」

栗田准教授は料理を食べてから礼儀正しくほめていたが、やがて本題に入る。

「実は、私は最近大学側の許可をもらってキャンパスに立ち入って自分の研究室で執務をしているのですが、廊下を歩いて自分の研究室まで行く途中で無人のはずの講義室で人影を見ることが度々あるのです」

栗田准教授は怖がるわけでもなく淡々とその時の状況を話す。

「栗田先生と同じように許可をもらってキャンパスに入っている学生がいたのではありませんか」

僕は有り得そうな可能性を考えながら話す。

栗田准教授はあまり霊感が高い方ではないので、幽霊を見た可能性は低いと思われ、理由があって正当な手順を経て立ち入った人だと仮定してみたのだ。

「僕も最初はそう思いましたが、教務課に確認しても、その時間帯にその辺りの講義室に入室許可を出した記録はないと言うのです。可能性としては許可を得ないで勝手に忍び込んだ学生もしくは職員がいたか、その講義室は本当は無人だったにもかかわらず人影を見たという二つのケースが考えられます」

「後者のケースの場合に、僕たちに出動要請が掛かるわけですね」

僕は栗田准教授がわざわざ来店したのは、彼が自分が見たのは幽霊だと判断したために違いないと思いながら聞く。

「そうなんです。私としてもいるはずがない場所に人がいると、気にあるので内村君夫妻に相談に伺ったのです」

栗田准教授は旺盛な食欲で日替わりランチを平らげながら僕に告げる。

「それでは、先生が食べ終わられたら山葉さんにも話してみましょう、最近は子供の離乳食が始まったので、ランチタイムが終わった頃に厨房で僕たちの賄と離乳食を一緒に作ることが多いのですよ」

「そうか、内村君もお子さんが生まれたのでしたね。僕も見せてもらっていいのかな」

栗田准教授は食事を続けながらのんびりとした雰囲気で僕に告げる。

僕はスマホのSNSアプリを使って、山葉さんに栗田准教授の意向を伝えると、仕事に戻った。

ランチタイムの繁忙な業務があらかた片付き、僕が栗田准教授を店の厨房に案内しようとすると、店舗からバックヤードにつながるドアを開けたところで、木綿さんが待ち受けていた。

「栗田准教授ご無沙汰していました。山葉さんからの伝言で先生が厨房内に入る前に念のため体温測定と手指のアルコール消毒をお願いしますということです」

「わかりました。感染防止策に気を付けられているのですね。厨房に入れてもらって大丈夫なのかな」

栗田准教授は言われるままに額で温度を測るタイプの体温計で検温を受けると、アルコールで手を消毒した。

木綿さんも同行して厨房に入ると山葉さんは子供用いすに座らせた莉咲に離乳食を与えているところだった。

「栗田准教授いらっしゃいませ。今日は初めて白身魚を食べさせるところなのです。最初に食べるお魚のイメージが悪くならないように、新鮮なキスを仕入れたんですよ」

「もしかして、今日の日替わりメニューがキスのフライになったのはそのためですか」

僕が疑念を口にしたが、彼女は微笑して答えない。

「今日の離乳食はおかゆとキスを薄味の出汁で煮て押しつぶしたものに、軟らかめに煮たブロッコリーです」

山葉さんがスプーンで離乳食を口に運ぶと、莉咲はあーんと口を開けて上手に食べている。

乳幼児用の椅子で上手にお座りしている莉咲を見ると、僕はその成長ぶりにうれしくなった。

「莉咲ちゃんは奥さん似て美人さんになりそうですね」

栗田准教授も無難に話を合わせるが、山葉さんは莉咲にスプーンを運ぶ手を止めて振り返った。

「栗田准教授が人気のないはずの場所で、人影を目撃されたのでしたね。気になるようでしたら私が夫と一緒に調査に参りましょうか」

「ええ、無断で侵入している学生ならば侵入防止措置を講じないといけませんし、幽霊なら山葉さんにお祓いをお願いしようと思いまして」

栗田准教授は穏やかな表情で告げ、山葉さんは眉間にしわを寄せて栗田准教授とその周辺を見回してから言った。

「今見た限りでは、栗田准教授に何かが取り付いているわけではなさそうです。栗田准教授のご都合が良い時に、問題の講義室を調べさせていただけたら、その人影の正体がわかると思います」

「わかりました。私の方は何時でも構いませんから。ご連絡いただいたら大学の教務課に、お二人の入室許可を取るようにします」

栗田准教授が答え、僕と山葉さんは大学に現れる謎の人影の調査に当たることになった。

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