第337話 神の降臨

僕は山葉さんが先ほどまで高田の王子の祭文を唱えていたことを思い出した。

貧乏神は無表情に僕たちに詰め寄ってくるが、その前に立ちふさがって時間を稼げば、山葉さんはどうにか式王子である高田の王子の召喚を終えることが出来るのではないだろうか。

僕は考えると同時に行動に移っていた。

こちらに進んで来る貧乏神の前に立ちふさがって両手を広げて通さない意志を示したのだ。

「山葉さん、早く高田の王子を呼んで」

僕の意図を汲んで、山葉さんは祭文の詠唱を再開した。

「八万四丈だいまんじゃくの千丈広間口ひうめの岩の大神様をおこないおろすを高田のうわいんかけおきもうすは」

彼女は取り分けの儀と呼ばれる邪霊の類を排除するための祭文を唱えていたが彼女が再開したのは「りかん」と呼ばれる部分だ。

祭文には長々と高田の王子の物語を唱える部分もあるが、「りかん」は式王子の能力を解き放つ締めくくりの部分だ。

いざなぎ流の呪術を使うのにはとかく時間がかかり、本来の手順で祭祀を行えば一日では終わらないという。

山葉さんはカフェのお客さんから祈祷依頼があった場合は、依頼者にとって効果がある部分だけをセレクトして使い、時間があるときに端折った部分の神楽を行っていざなぎ流の神々の機嫌を取り結んでいるらしい。

僕は彼女が「りかん」の言葉を唱え終えるまでにあと数十秒程度だと考え、何が何でも貧乏神の進行を食い止めることを心に決めた。

しかし、貧乏神は容赦なく僕に迫る。

貧乏神が自信の前に突き出していた両手は、立ちはだかる僕の胸のあたりに接触してクタッと折れ曲がった。

貧乏神の両手が、何の抵抗もなく自分の身体を突き抜けていくことを予想していた僕は、予想を裏切られて、間近に迫った貧乏神が僕自身に触れることが出来るという事態に直面した。

貧乏神は僕に触れたことで、やっと僕の存在に気が付いたらしく、虚ろだった目は大きく見開かれ、光のない黒目が僕に向けられる。

そして、力なく前に突き出されていた両手は、強い力で僕の二の腕を掴んでいた。

そして貧乏神の顔が僕に接近し、生臭い臭いさえ感じる。

僕が貧乏神の両肩を抑えて必死に押し戻している時、山葉さんが高田の王子の「りかん」の言葉を唱えるのが聞こえた

「天の高さが四万四丈地の深さが四万四丈、下は岩みじんうけし式の大神上は雲広間でおんぼろげんと鎮まりたまえ」

山葉さんが詠唱を締めくくると、僕の周囲を一陣の風が通り抜けたような気がした。

そして、次の瞬間には僕の二の腕を掴んでいた貧乏神の姿はかき消すように見えなくなっていた。

「ウッチー、大丈夫か」

山葉さんは心配そうに僕に駆け寄り、僕のシャツの袖を捲り上げた。

僕の二の腕の貧乏神がつかんでいた辺りには赤黒くあざが残り、そこを掴んでいた貧乏神の手の形がはっきりと識別できる。

僕は最初に貧乏神が触れた胸のあたりも襟元から覗き込んだが、そこにも赤黒い痣が残っていた。

「いつの間にそんなものが出来たのですか。私には何も見えなかったのに」

ツーコさんが僕の二の腕にできた痣を見て茫然としていると、面談室とは反対側の入り口から黒崎氏が顔を出した。

「大丈夫ですか?あれがマジックミラーを通り抜けるようにして消えたのでこちらに現れたのではないかと思って様子を見に来たのですが」

黒崎氏は心配そうに僕たちの様子を窺い、顔色の悪いツーコさんに寄り添うようにする。

「ウッチーが身を挺して防いでくれたので、式王子を使って排除することに成功した。その代わりに彼の身体にこんな痣が残ってしまったのだ」

山葉さんが状況を説明すると、黒崎氏は僕の腕の痣を見て眉をひそめた。

「ひどい、こんなにはっきりと痣が残っているのは初めて見ました。痛みはありませんか」

僕の腕は、見た目は赤黒く痣が出来ているものの、疼痛を感じたりするわけではなかった。

「痛みはかんじないのですけど」

僕が答えると、黒崎氏は赤黒い痣そのものをぐいと押した。

「いててて」

僕は打撲の跡を押されたような痛みを感じて思わず声を上げた。

「あれの呪いを貰ってしまったように思えます。あらためて厄払いを行った方がいいかもしれませんね」

黒崎氏が沈痛な面持ちで言うので、僕もなんだか不安になってくる。

「貧乏神はいなくなったように見えるが、呪いだけが残ったのだろうか」

山葉さんの問いに黒崎氏もわからないと言うように首を振る。

黒崎氏とツーコさんが僕を見る目は次第に事故の犠牲者を見るような雰囲気に変わり、山葉さんの顔には動揺が広がっていくのがわかる。

「すいません。軽々にお願いしたばかりに大変なことになってしまったのかもしれません。美咲所長も昔は陰陽師をしていたこともあるので、一緒に対処方法を考えましょう」

「そうだな、私はとりあえず山の神に今回貰ったものを引き受けてもらえないか頼んでみるよ」

山葉さんは自信を落ち着かせるようにつぶやき、黒崎氏もゆっくりとうなずいた。

その間も美咲嬢は面談を続けていた。

「それでは、住居を引っ越したのと同時に仕事も新たに始める方向で、支援センターと連携して行きたいと思います。何か不安を感じることがあったらいつでも連絡してくださいね」

美咲嬢が告げると、真由美さんは笑顔を浮かべて答えた。

「はい、折角なので気分を変えて新しい生活を始めてみます」

取り憑いていた貧乏神が離れた影響もあるのか真由美さんは明るい表情で席を立つと美咲嬢に一礼する。

彼女は、自分に取り憑いていた貧乏神のことなど生涯知ることはないに違いなかった。

僕と山葉さんが美咲嬢の研究所を出る時には美咲嬢と黒崎氏、そしてツーコさんがそろって玄関まで見送りに来た。

「内村さん、大変申し訳なく思いますわ。私も貧乏神などと言うものにはあまり関わった事がないため対処方法をはっきり知りませんが、今後何かあったらこの一命に変えてでも対応いたします」

いつもは傍若無人な美咲嬢が懇切丁寧に詫びるのを見ると僕の不安感はさらに高まった。

「本体がいなくなったのだから、痣がこのまま消えれば大禍なく終息すると思う。とりあえずは様子を見よう」

山葉さんは自分に言い聞かせるように言葉を紡ぎ、美咲嬢も真顔でうなずいて見せる。

僕と山葉さんは、重い足取りでカフェ青葉への帰途に就いた。

「ウッチー、また危ない目に遭わせてしまって面目次第もない」

「大丈夫ですよ。痛くもなんともないからきっとこのまま消えてしまいますよ」

山葉さんが、とぼとぼと歩きながら僕に謝るので、僕は強がって見せるしかなかった。

カフェの店舗ではなく裏口からはいると、物音に気付いた祥さんが厨房から顔を出して僕たちを迎えた。

「おかえりなさい。うまく祓えたのですか」

祥さんは、当然のようにうまくいったものと思って僕たちを迎えたのだが、帰ってきた僕たちの姿を見て彼女は大きく目を見開いた。

「どうしたんですか。それはいったい何です?」

彼女の言葉に僕の胸に嫌な予感が広がる。

さらに、山葉さんの母の裕子さんが二階から降りてくると、僕たちに困ったような表情を向けた。

「まあ、そんな神様を連れてきては駄目だと言ったのに本当にお連れしてしまったのね」

僕と山葉さんが背後を振り返ると、そこには先ほど式王子の能力で姿を消したはずの貧乏神が変わらぬ姿でたたずんでいた。

「高田の王子が退治してくれたのではなかったのですか」

茫然とした気分で僕が尋ねると、山葉さんは頭を掻いた。

「私が行った「とりわけ」というのは祭りごとを行う前にその場にいる邪霊や狐狸の類を一掃して神様を迎えるための儀式だ。死霊の類なら一気に無力化して私が神上がりさせるのだが、相手が神様ではそうはいかなかったのだな」

僕たちの前で貧乏神は再びうろうろと落ち着かない動きを始めており、僕は大きくため息をついた。


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