第332話 大河の岸辺にて
「室井さん、スマホで撮影して彼に見せれば安全ではないだろうか。本当に知人なら身元確認のためにもなる」
少し離れた場所にいた山葉さんが冷静に告げる。
「わかりました、鑑識が到着したら撮影を頼みます。」
室井さんは上司に指示されたように畏まって復唱する。
防護衣に身を包んだ鑑識課の警察官が到着すると、室井さんは事情を話して自分のスマホを託した。
しばらくして、鑑識課員が戻って室井さんにスマホを戻すと、再び遺体がある場所戻っていく。
室井さんは、撮影された画像をスマホに表示すると修二さんに差し出した。
「ご存じの方ですか」
スマホに表示された写真を見た修二さんは遺体の様相を見て一瞬身を引いたが、もう一度
画面をのぞき込んで言った。
「首に巻いているピンクのタオルに見覚えがある。真一君に間違いないと思う」
修二さんは、それだけ言うと目に涙を浮かべて室井さんのスマホに映し出された画像を見つめているが、僕は彼の言動に疑問を持っていた。
それは、永井家に残された真一さんの思念では、修二さんは役所の職員がホームレスを捕まえて連行するというデマのような情報で真一さんを段ボールの家から追い出すようなことをしていたからだ。
現場の状況を見ると、真一さんは修二さん達と別れた最初の晩に野宿しようとして体調を崩して急死している。
しかし、修二さんは画像を見ながらボソボソとつぶやき始めた。
「真一君は俺が殺したようなものだ。俺たちは数人が寄り集まって生活していたが、俺は真一君が数日前から妙な咳をするのに気付いていたので、巷で流行っている新型コロナウイルスによる肺炎ではないかと疑い、役所の人間が捕まえに来るからと嘘をついて一緒にいた皆を追い散らしたんだ」
修二さんの汚れた顔を涙が伝って落ちる。
山葉さんは離れた場所からゆっくりとつぶやいた。
「それは一緒にいたグループの仲間を感染から守るためにしたことなのですね」
修二さんはうなずきながら、低い声で話す。
「そうだ、それともう一つは真一君が感染していると思ったものの、俺たちが病院に行ってもまともに相手にしてはもらえない。真一君にこの辺りから離れるように言えば、街に出たところで病状が悪化して行き倒れ、救急搬送されてちゃんとした治療が受けられるかもしれないと思ったからだ。それなのにこんな近くで隠れたまま死んでいたなんて」
修二さんが涙を流すのを見て、僕は彼がそれなりに仲間の身を案じていたことを理解した。
「真一さんとはどういった関係だったのですか」
僕が尋ねると、修二さんは真一さんの遺体がある灌木の下あたりを眺めながら話し始めた。
「僕は事業に失敗し、死のうと思ってここに来たのだが今まさに首をくくろうとしているときに真一君が止めてくれたんだ。彼は人というものは簡単に死んではいけないと言って俺を諭し、なけなしの食料を分けてくれた。それ以来彼と助け合って、この辺りで生き延びてきたんだ。それなのに俺は彼を助けもしないでみすみす死に追いやってしまった」
修二さんは人目もはばからず泣き始めたが、それを見ていた山葉さんは少しだけ近寄って彼に言った。
「その真一君とあなたは親しい間柄だったのですね。それならば少し手伝って欲しいことが有るのです。それは他ならぬ真一さんのためになることです」
修二さんは垢じみた作業服の袖で涙をぬぐうと山葉さんに尋ねた。
「真一君はそこで死んでいるのに、役に立つとはどういうことなのですか」
修二さんは彼女の言葉が理解できない様子で尋ねる。
「彼は自分が死んだことを理解していません。死ぬ直前に聞かされたあなたの言葉のために、自分を捕まえて連行しようとする人々がいると信じて逃げ回っているのです。」
「そんな、何とかしてあげることは出来ないのですか」
修二さんは立ち上がるとふらふらと山葉さんに近寄りながら尋ねるが、山葉さんはそれを上回る速度で後退して距離を保とうとしながら答えた。
「私はいざなぎ流という神道の一流派の祈祷を行うものです。真一さんが夜な夜な現れる家があり、その住人から依頼を受けて調べるうちに、ここにたどり着いた次第。今夜その家で待ち構えて真一さんをあの世へと送り出してあげたいと思うので、私の祈祷に立ち会って欲しいのです」
修二さんは迷っている様子だったが、やがて無言でうなずいた。
その日、僕たちは一度下北沢のカフェ青葉まで戻り、夕方のテイクアウト販売を行った。
そして、夜半に二子新地に戻って祈祷を行うことになった。
巫女の装束に着替えた山葉さんの代わりに、僕がWRX-STIのステアリングを握り、二子新地駅の近くのコイン駐車場に車を置いて山葉さんと僕、そして小西さんの三人で永井家に向かう。
「流石に仕事もしつつ夜になってもう一度出かけてくると疲れますね」
小西さんが腰に手を当てながらつぶやく。
「山葉さんは授乳の時間もあってあまり睡眠をとっていないはずなのに大丈夫ですか」
僕が尋ねると彼女はふわりと笑顔を浮かべた。
「実は疲れているが、自分の死も知らずに彷徨っている霊を放ってはおけない」
僕は彼女の体調が気になるものの、彼女と同様今回の霊をどうにか神上がりさせなくてはならないという点では同感だった。
木綿さんのお宅に向かう途中、約束してあった場所に差し掛かると、電信柱の陰からふらりと人影が現れる。
「修二さん来てくれたのですね。ありがとうございます」
僕が声をかけると、修二さんは住宅地の薄暗い路上で緊張した面持ちで僕たちに合流した。
「俺は真一君に恩返しをしなければならないんだ。必要なら何でもするよ」
修二さんは決意を秘めた表情で僕たちと一緒に歩き、やがて永井家に到着した。
永井家には、事前に連絡してあったので、木綿さんと俊樹君の他に母親の由美子さんも加わって僕たちを待ち構えていた。
「山葉さんやっぱり幽霊だったのですか」
「うん。地面に足跡をつけずに道路まで出るには、勝手口から塀の上を走って道路に出なければならないが、その塀の上に生えている蔦の葉は踏まれた形跡がない。幽霊の可能性を考慮して探した結果、幽霊の前身であるホームレスの変死体を発見したのだ。今夜はその霊をあの世と呼ばれる場所に送ってやらなければならない」
山葉さんは御幣を手にして木綿さんに答えた。
永井家のガレージは、ご主人が単身赴任先にマイカーを持っていったために、開きスペースとなっており隅に自転車が置かれている。
僕はガレージの中央に「みてぐら」をしつらえて祈祷の準備をし、山葉さんはいざなぎ流の祭文を唱え始めた。
夜の空気の中、山葉さんの涼やかな詠唱の声が流れ、巫女姿の彼女はいざなぎ流の神々に捧げる神楽を舞う。
ひとしきり祭文を唱えると、山葉さんは祈祷を中断し、動きを止めた。
「どうしたんですか」
僕は彼女が体調を崩したのかと思い慌てて尋ねたが、彼女は自分の唇の前に指を立てて見せる。
「皆でこのまま動きを止めて「彼」が現れるのを待とう。続きはそれからだ」
彼女の言葉を聞いて僕たちは、ガレージの隅の暗がりに身を潜めるようにしてじっと待つ羽目になった。
やがて、じっとしていることに耐えられなくなったころに、変化は起きた。
影の薄い人型が道路から揺らめくように塀を超えてガレージに侵入し、勝手口の方向を目指す。
「真一君なのか」
静けさを破ったのは修二さんの声だった、永井家に侵入した霊はガレージの端辺りで動きを止める。
その時山葉さんが立ち上がると、鋭く御幣を振った。
同時に、「みてぐら」に置かれた式王子がさらさらと和紙が触れ合う音と共に宙を飛び、霊に絡みついてその自由を奪っていく。
山葉さんが祭文の詠唱を再開すると、霊はもがきながら悲鳴を上げた。
修二さんはガレージの中央まで飛び出して、叫んだ。
「真一君、違うんだ俺が言った役所の人間が捕まえに来るというのは嘘だったんだ。もう逃げなくていいんだよ」
修二さんの言葉を理解したのか式王子による戒めを振りほどこうとしていた真一さんは動きを止める。
「真一さん、あなたはお亡くなりになったのですよ。これからあなたを行くべきところに送ってあげるので逆らわないで」
山葉さんが御幣を振ると、周囲の景観は一変した。
僕たちの前には青く澄んだ水が滔々と流れる川が流れており、河原に菜の花が咲き乱れている。
式王子に絡めとられていたはずの真一さんは何事もなかったように一面の菜の花畑の中に佇んでいた。
「真一君、役所の人間が捕まえに来るというのは嘘だったんだ。あんたは肺炎にかかっていたから街に出て体調を崩したら誰かが救急車を呼んでくれると思ったのだが、こんなことになってすまない」
「修二さん、俺は人に見つからないように逃げ回るのに疲れていたけど、逃げなくてもよかったんだね。また会えてうれしいよ」
真一さんは人の好さそうな顔で修二さんに告げると、周囲の景色を見回している。
「ああ、あそこにお父さんとお母さんが手を振っているのが見える。俺はちょっと話をしてくるよ。修二さんいろいろとありがとう」
僕の目には菜の花畑の向こうに続く川の水面に霧が発生して、対岸の様子は霧のために見えていないが真一さんには対岸の様子が見えるようだ。
真一さんは、修二さんに手を振ると菜の花畑を横切り、川の水面を波紋も付けずに歩いて行き、やがて霧の向こうに見えなくなっていった。
彼の姿が消えると同時に、大河の川岸の情景は消え、永井家のガレージに戻っていた。
「彼はどこに行ったのですか。俺が嘘を言ったことを咎めることもせずに行ってしまった」
修二さんが茫然としてつぶやくと、山葉さんは厳粛な表情で答える。
「死者たちが行く世界に旅立っていったのです。私の手で来世に送る前に誰かが迎えに来たようですね」
「真一君が東京に出てくるときにはお父さんは亡くなっていてお兄さんが家業を継いだらしく、彼は職を失っても実家には帰りずらかったようです。お母さんはお兄さんと暮らしているという話だったのですが、もう亡くなられていたのだな」
修二さんは落ち込んだ雰囲気で真一さんが去っていった方角を見つめるがそこには道路を挟んだ隣の住宅があるだけだ。
「あなたが声をかけて彼の足を止めてくれたおかげで、彼を捕捉して送り出すことが出来たのですよ。彼は人の気配に敏感で、それなしには逃げられていたはずです。彼はご両親に迎えられて旅立ったので、もう現世を彷徨うことはないでしょう」
修二さんはゆっくりとうなずいた。
「もう、家の中に入ってくることはないのですよね」
木綿さんが尋ね、山葉さんは微笑してうなずく。
初夏を思わせる温かい夜の空気の中、侵入者の気配が消えた永井家は平穏を取り戻していた。
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