第322話 曖昧な記憶

その女性は声を出すために無理をしたのか激しく咳込み、咳が止まらない様子だった。

「大丈夫ですか」

僕たちが駆け寄ろうとするのを、女性は手を上げて遮った。

「来ないで、お願い」

女性は咳の発作は収まったものの、呼吸するのが困難な様子で苦しそうにあえいでいる。

僕は感染の危険も忘れて彼女に顔を近寄ると言った。

「呼吸が苦しいのですね。駅の人に頼んで休める場所に連れて行ってもらいましょう」

「私は駅員さんを呼んできます」

祥さんは駅員が詰めているはずの事務所に駆け出していき、僕と小西さんは女性を介抱する格好になった。

「あなたはアマビエのコスプレをしていたのですね。どうして体調が悪いのを押してそんなことをしていたのですか」

小西さんは彼女の足元の紙袋にアマビエの嘴が覗いているのを見ながら尋ねる。

「私は新型コロナウイルスに感染して家族にも移してしまいました。重症化した父は死亡したのですが自分は回復したのです。退院してから新型コロナウイルスのことをみんなに考えてもらいたくて、アマビエのコスプレをするようになったのだけど、今日は歩いているうちに急に体調が悪化して息苦しくなったのです」

彼女は浅い呼吸をしながら、切れ切れに僕たちに話す。

「家族の方に連絡しましょうか?構わなければあなたの家の連絡先を教えてください」

その女性は、僕たちを追い払うのをあきらめた様子で自分のスマホを取り出すと僕に手渡した。

「私の名前は東雲香織です。今表示しているのが母の番号ですから」

僕は東雲さんの携帯を使って彼女の母親を呼び出そうとしたが連絡はとれない。

僕はとりあえず、彼女のスマホからSMSのメッセージで彼女の母親の電話番号を僕のスマホに送ってから彼女にスマホを返した。

しばらくして祥さんが駅員を引っ張るような勢いで戻ってきたが、駅員もマスクをしている以外は普通の制服姿だ。

「あなたたちは近寄らないように、もっと離れてください」

駅員の指示で僕たちは東雲さんから遠ざけられ、経緯を見守ることしかできなくなった。

駅員は持ってきた体温計で女性の体温を測ると、女性に何か言いおいて事務所に戻っていき、しばらくすると遠くから救急車のサイレンが聞こえ始める。

駅員は女性の体調が極めて悪いと判断して救急車を呼んだのだ。

僕たちが遠巻きに見守る中で女性は担架で運ばれ僕たちの視界から消え、やがて救急車のサイレンが再び響き、ゆっくりと遠ざかっていった。

静かになったホームで、僕は女性の持ち物である紙袋がベンチの下に置き去りにされていることに気が付いた。

「あの袋は彼女の物だけど、救急搬送する時に置き去りにしてしまったんだね」

僕がベンチに近寄ろうとすると、祥さんは僕の腕をつかんで引き留める。

「ウッチーさん駄目ですよ。あの人が身に着けていたのならウイルスが付着しているかもしれない」

祥さんが制止したが、僕はそのままベンチに座ると紙袋の中身を探った。

袋の中にはアマビエのコスプレ衣装の他に、文庫本や手帳も入っている。

「これは彼女に届けてあげたいと思う。駅の事務所に連絡を取ってもらい、搬送先の病院をおしえてもらおうよ」                                                 

祥さんは処置なしだというように両手を上げるが、小西さんは僕に賛同するつもりのようだった。

「さっきの駅員さんが戻ってきたから、事情を話してみますよ」

小西さんは駅員のところまで行くと、僕たちの手元にある紙袋を示しながら何か話していた。

駅員はスマホを取り出して連絡をした後、僕たちのところまで来て紙袋の中身を改めた。

駅員は紙袋の中身をベンチに並べたが、貴重品の類がないことを確認すると僕たちに告げる。

「先ほどの女性はこの荷物はごみとして処分していいと言っていますが、彼女のところまで運んでくださるというならお渡しします。搬送先の病院は三鷹の森総合病院です。ただし、既に面会時間は過ぎているので、荷物を持ち込むのは明日にしていただきたいと思います」

駅員は荷物をまとめて僕たちに渡すと、私物らしい小型の滅菌スプレーを出すと自分の手に吹き付けて両手をもみ合わせた。

僕は駅員に礼を言うと、紙袋を片手に持ち渋谷方面行のホームに移動した。

「そういえば、小西さんの下宿は吉祥寺方面だったよね」

「僕の下宿はこの駅からでも大して変わらない距離なので、お二人を見送ったら歩いて帰りますよ」

小西さんはアマビエの正体を確かめたので心なしか満足した表情だ。

渋谷行きの各駅停車の電車がホームに滑り込み、僕たちが乗り込むとホームに残った小西さんが小さく手を振るのが見えた。

電車が走り始めて僕たちは疲れた気分でベンチシート座ったが、僕は腑に落ちないことを心に抱えていた。

「祥さん、最初に電車に乗ったときに遭遇した赤い髪のアマビエを憶えている?」

祥さんは、何を言っているのだろうという表情で僕を見返したが、やがて口を押えた。

「いやだ、私そのことをすっかり忘れていました」

「あの件は僕と祥さんしか記憶していない出来事だが単なる幻覚だったとは思えない。帰ったら山葉さんに話して真相を突き止めたい」

僕は井の頭公園駅周辺で起きた出来事をスマホのメールで山葉さんに送ると、シートの背もたれに体重を預けて大きく息を吐いた。

新型コロナウイルスの感染者と濃厚接触してしまった事実が重くのしかかり、帰ってからどうしようかと途方に暮れた僕は、今日の出来事を簡潔にまとめたメールをスマホを使って山葉さんに送った。

そして待つほどもなく僕のスマホの着信音が鳴った。

SNSアプリを開くと山葉さんのメールが届いており、その文面はある意味僕の予想どおりだった。

『感染リスクを増やすようなドジは家に入るなと言いたいところだが、仕方がないので綺麗に手洗いをして、部屋に入る前に上着を脱いでくれ。脱いだ上着は後日回収するからそのまま廊下に捨て置くこと』

彼女は相当ご立腹だが、それでも対処方法を考えてくれたようだった。

僕と祥さんはカフェ青葉Gに戻ると、ガレージ側から建物に入り、厨房で念入りに手洗いしてから、アルコール消毒を行った。

祥さんは僕が抱えている、アマビエのコスプレに目を止めて僕に囁く。

「それを住居部分にもい込まないほうがいいと思いますよ」

祥さんが僕に注意し、僕も今度は素直にうなずくと、紙袋に消毒用のアルコールを散布してから「いざなぎの間」に置いた。

祥さんが二階の自室に戻り、僕は山葉さんのメールの指示に従って上着を脱いで廊下に置いてから自室に入ったが、山葉さんは不愛想な雰囲気で僕に来ているものを脱いでシャワを使うように告げる。

僕がシャワーを使い終え、山葉さんが用意した服に着替えてバスルームを出ると、彼女は僕が着ていたものを洗濯機に放り込んで洗っているところだった。

「わざわざ感染リスクを増やすような真似をしないでくれ」

山葉さんは不機嫌な雰囲気で僕に告げるが、必要な防疫措置をとったためか表所は少し穏やかになっている。

僕はベビーベッドで眠っている莉咲を眺めながら、彼女に詫びた。

「すいませんでした。アマビエにコスプレしていた人を突き止めたのですがその人が新型肺炎に感染していたので、成り行きで看病する羽目になってしまったのです」

「そんなお人好しな真似をせずに、ご本人が言うように放っておけばよかったのだ」

山葉さんは母として莉咲の健康を脅かすものは何者と言えど容赦しない雰囲気だった。

「ただ、気になることが有るのです。僕と祥さんは京王線に乗って一度目的の駅に到着して、そこで赤い髪を持つ半魚人のような容貌のアマビエを目撃したのですが、祥さんが悲鳴を上げたところで、時間を遡行して京王線の電車に乗った時点に戻ってしまったようなのです」

「ほう。それは面妖な話だな」

山葉さんは俄かに興味を持った様子で僕を振り返った。

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