都市伝説の裏側
第315話 カフェ存続の危機
2020年の3月が半ばを過ぎた頃、僕はカー用品店で買い求めたチャイルドシートをWRX-STIのリアシートにセットするのに必死だった。
チャイルドシートは子供が大きくなれば、前向きに座らせて五点式シートベルトでがっちりと固定することが出来るが、乳幼児期は横向きにセットしなければならない。
僕は座席側のシートベルトで、チャイルドシートをしっかりと固定するために何回かやり直さなければならなかった。
そして、どうにかチャイルドシートをセットし終えてから、山葉さんが入院している産婦人科医院に向かった。
出産から一週間経過し、山葉さんと莉咲が退院する日を迎えたのだ。
山葉さんが身支度をする間に、僕は何回か病室と駐車場を往復して荷物を運び、最後に部屋に戻ると、山葉さんは莉咲をおくるみに包み込んで、横抱きにした。
「さあ行こうか」
山葉さんは晴れやかな笑顔を浮かべて僕に告げ、僕たちは菱沼先生や看護師さんに見送られて病院を後にした。
僕はクラッチのつなぎ方にも気を遣うくらい静粛な運転を心掛け、WRX-STIはゆるゆると春の街を走行する。
莉咲の人生の門出だと思い僕は少しハイな気分で山葉さんに話しかけた。
「出産の費用ってすごい金額になるのですね」
僕は退院時に支払った金額を思い出しているのだが、山葉さんは落ち着いた表情で答える。
「大丈夫、ほぼ全額助成金で戻ってくるよ。でも、私たちが入院している間に新型コロナウイルスの感染者が急増したことが気になるね」
既に都内では夜間の外出の自粛が求められ、在宅勤務が奨励されている。
飲食業界にとっては極めて厳しい状況と言わざるを得なかった。
僕たちの住居兼店舗のカフェ青葉に到着すると、居合わせたスタッフの祥さんと田島シェフそして応援に来てくれた細川元オーナーが山葉さんの実母の裕子さんと一緒に出迎えた。
しかし、皆が笑顔で出迎えに来ているものの、微妙に距離を置いている気がしたので僕は祥さんに尋ねた。
「なんとなく皆が一歩引いているような気がするのだけど」
祥さんは穏やかな表情の中にどこか緊張した雰囲気を漂わせて僕に説明する。
「私たちは接客もしているから、赤ちゃんにウイルスを移してもいけないので、皆で相談して出迎えに行っても接近しすぎないことにしたのです」
僕は、ベビー誕生に気を取られているうちに、都内の環境が急激に悪化したことを思い知らされた。
「そんなに深刻な状況なのかな」
僕がつぶやくと、細川さんは苦笑しながら僕に告げた。
「祥ちゃんは私にも高齢者は不特定多数のお客さんと接触するのは危険だと言って、フロア業務を禁止したのよ。おかげで厨房から店舗まで料理を運ぶことしかさせてもらえなかったわ」
僕はむしろ祥さんに礼を言わなければならない気がした。
僕は山葉さんの出産に気を取られてそのような配慮に気が回っていなかったのだ。
「皆さん、留守中ありがとうございました」
僕は、改めて礼を言い、山葉さんも一緒に頭を下げて2階の住居部分に向かう。
別れ際に細川さんは、山葉さんに低い声で囁いた。
「やまちゃん。後で知らせたいことが有るの」
山葉さんは足を止めると、細川さんをまっすぐに見つめ、うなずいてから2階へと向かった。
新生児の授乳間隔は短いので、僕たちは2階のリビングに入ると早速、莉咲にミルクをあげる。
ゲップを出させて、ベビーベッドに寝かせると、莉佐の股間から爆裂音が響く。
僕と山葉さんは事態を把握していながらも、お互いに顔を見合わせて立ちすくんでいた。
様子を見に来ていた裕子さんが見かねたように口を開く。
「ほらあなたたち、莉咲ちゃんのおむつを早く変えてあげないと可哀そうでしょ」
僕たちははじかれたように、使い捨てのおむつやおしりふきを取り出して、慣れない手つきでおむつ交換を始めた。
病院では母体の回復を優先して、僕たちの練習としてするとき以外は看護師さんが新生児の世話に当たっていたのだ。
僕は山葉さんがおむつを交換するのを補助しながら、当たり前のことなのだがこの作業を数限りなく続けていかなければならないことをリアルに感じていた。
僕が交換したおむつを梱包して臭いが漏れないゴミ箱に投入し、莉咲が気持ちよさそうに眠ると、僕と山葉さんは大きく息をついた。
裕子さんは僕たちの様子を見ながら、これからが大変よとプレッシャーをかける。
裕子さんに莉咲の見守りを頼んで、僕と山葉さんが改めて階下に降りると細川さんは、スタッフ用の食事スペースから僕たちを手招きする。
細川さんが手元に広げているのは、カフェ青葉の経理関係の書類だった。
細川さんが手渡した書類に目を走らせた山葉さんは息をのむ。
「こんなに客足が落ちてしまっているのですか」
「そうよ。3月下旬に入ってからのお客さんの減少が顕著なの。私がお願いして沼ちゃんと木綿ちゃんには当分アルバイトはお休みにしてもらっている」
それは、カフェのお客さんの数が、フロア一人と厨房一人のスタッフで回せる程度に減少していることを意味していた。
「いつも通りに仕入れをしていては大きな赤字ですね」
山葉さんはぽつりとつぶやいた。
「私とスタッフの二人で相談して仕入れ量は減らしているけど」
細川さんは言葉を切って山葉さんの顔を見た。
「あなたも育児休暇中なのだから思い切って休業すればいいかもしれないわね。ここはテナント料の支払いがないからどうにかしのげるはずよ、従業員には解雇か無給の休業扱いにしてもらい、パンデミックが収まるのを待つのをお勧めするわ」
手持無沙汰な雰囲気でフライパンを洗っていた田島シェフの手が止まったのが見えた。
細川さんは聞こえるのを承知で話しているに違いない。
「でも、休業期間が長引けば細川さんに借金が払えなくなる」
山葉さんが、押しつぶしたような声で言うと、細川さんは肩をすくめた。
「私とあなたの仲だから一年くらいは猶予するわ。無理に続けてこのカフェが火だるまと化すのを目の当たりにするよりはましよ」
山葉さんは経費の積算書を見ながら爪を噛んでいたが、僕を見ると囁くような声で言った
「祥さんに手が空けられるなら2,3分でいいから来るように伝えてくれ」
「わかりました」
僕は想定外の事態の進展についていけない思いで店舗に入るとカウンターで客席を眺めている祥さんを手招きした。
祥さんは、僕のしぐさに気が付くとそのまま僕に歩み寄る。
「山葉さんから話があるそうだ2、3分来てもらえるかな」
祥さんは、お客さんが2名ほどしかいない店内を示すと答えた。
「見ての通り、少し私が席を外しても大丈夫なはずです」
祥さんは何の話か見当がついている様子で僕を見つめ、僕は彼女にかけるべき言葉が見つからなくて無言のまま先に立って店のバックヤードに向かった。
スタッフの食事スペースに戻ると、山葉さんは無言で電卓をたたいていた。
祥さんが来たことに気づくと、山葉さんは顔を上げると静かに告げる。
「祥さんも田島シェフもお気づきと思うが、うちの経営は危機的状況だ。営業を継続するとしても提供メニュー数を絞らないと存続は無理。そうでなければ、ウイルス騒動が終息して客足が戻るまで休業するかだ。お二人には無給の休暇を取ってもらうとか不利益を強いることになるかもしれない」
祥さんはため息をついてから答える。
「給与カットしてもいいから営業を続けてください。休業されて私が長野の実家に帰れば途中で拾ったウイルスを祖父母に移すことになるかもしれない」
「僕は独り身だけど、アパートでじっとしているより、安くてもいいから働ける方がましです」
祥さんと田島シェフが口々に営業継続を訴えるのを聞いて、山葉さんは電卓をたたきながら書いたメモを見て告げる。
「営業時間を大幅に短縮して飲み物を中心に営業し、食事はモーニングやランチを2種類が限度で、パンケーキもベーシックのみ。お二人の給与はこれくらいで」
二人はじっとその数字を見つめていたが、やがて田島シェフが言った。
「お店を閉めて解雇されるよりましです。ぜひそのプランでお店を続けてください」
祥さんも同感だというようにうなずく。
「ありがとう。この店の経営を継続できるように頑張ります」
山葉さんは二人に頭を下げ、厨房の片隅のスタッフ用食堂が重苦しい雰囲気に満たされた時、僕のスマホが鳴った。
着信した番号を見るうちに、僕は血の気が引いて行くのがわかったが、そのままにもできないので周囲の人々に告げる。
「すいません。年初めに面談した一年生の学生が新型肺炎の蔓延を理由にアルバイトを断ってきたので、沼さん達が新一年生に声をかけていたんです。そのままにしていたので希望者が一名、これから面接に来ると言っています」
田島シェフと祥さんがあきれた雰囲気で僕を眺め、山葉さんは気落ちした表情で言った。
「お詫びを言って断ろう。私も一緒にその人に謝るよ」
僕は二世誕生で浮かれていた自分を後悔しながらうなずいた。
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