生命の絆

第297話 生命の絆

「さあ、山葉さん散歩の時間ですよ」

カフェ青葉のランチタイムも終わり仕事が一段落したところで僕は最近の日課となった山葉さんの散歩の準備を始めた。

出産予定日も近くなり、産婦人科医に散歩をするように指導を受けているのだ。

「私が散歩をするため母が付き添い、公園までウッチーが車で運ぶと言うのは大仰すぎないか。散歩ならお店の前からその辺を歩き回ればよいではないか」

山葉さんは口をとがらせて抗議するが、彼女の実母の裕子さんが遮った。

「何を言っているの、この辺りは道路幅が狭いから自動車に接触でもされたら大変でしょう。わがままを言っていないで周囲の言うことを聞きなさい」

山葉さんもお母さんの小言には逆らえない様子でしぶしぶ僕たちの指示に従う。

彼女の愛車WRX-STIのステアリングは僕が握り、今日の散歩場所として選んだ代々木のオリンピック記念公園までゆっくりと運転する。

駐車場に車を止めると、僕と裕子さんは山葉さんを左右から固めて安全な歩道に導いた。

「山葉さん、わざわざ階段を選ばないで身障者用のスロープを歩いてくださいよ。僕はバリアフリーが行き届いているからこそ、この公園に連れてきているんですから」

「そうそう、徹さんの言うことをちゃんと聞きなさい」

僕たちは口々にうるさいことを言うが、山葉さんはあきらめたように無言を通した。

臨月の彼女のお腹はマタニティドレスの上から見てもかなり目立ち、彼女も重そうに歩みを進めていく。

「私はこの公園よりも井の頭公園の方がよかったな。散歩がてら下北沢駅まで歩いて京王線に乗っていけばいいのに。」

「確かに見晴らしはあちらの方が良いかもしれませんが、足元の段差が気になるんです。それに今流行りのウイルスに感染したら、妊婦は重症化しやすいらしいですから、混雑時間帯でなくても電車はだめです」

僕は自分でしゃべりながら、ちょっと過保護気味かなと思ったりするが、かといって自説を曲げる気はない。

「わかりました。おっしゃる通りにいたします」

山葉さんは諦めの境地に至ったらしく、幅の広い歩道をのんびりと歩き始めた。

「その子は女の子だと聞いたけど、名前はもう考えたの?」

歩みを進める山葉さんと並んで、裕子さんはさりげなく僕たちに聞く。

「ええ、考えている候補はあるんですけど」

裕子さんの訪ね方は自分も何か名前を考えている雰囲気だが、僕は忖度せずに答える。

「そうか、やっぱり名前を付けるのは両親がするべきよね」

裕子さんはさすがに遠慮して自分の名づけ案は披露しないつもりのようだが、山葉さんが尋ねた。

「そんな言い方されたら気になるでしょ。命名の案を考えているなら教えてよ」

最近一緒に暮らしていてわかったのは山葉さんと裕子さんは仲が良く、互いに遠慮することなどない間柄だということだ。

今日の名前の件も、あっさりと双方の案を比べてみるつもりらしい。

「そう、そんなにこだわっているわけではないけど、リサはどうかと思って。漢字はジャスミンの莉に花開くの咲よ」

僕は聞いていて思わず足を止めていた。その名前は僕たちが第一候補として考えていたものだったのだ。

「お母さん、その名前は私たちが考えていたのと一緒なんだけど」

山葉さんは偶然の一致だと片づけて喜んでいる表情だが、僕は因果の糸が強く絡みついているような気がして落ち着かない気分だ。

そもそもその名前は、僕と山葉さんの前に僕たちの娘が時間を遡行して現れた時に知った彼女の名前だった。

自分たちの娘が時間を遡行して会いに来たことの真偽は定かでないが僕が目撃したことを山葉さんも支持している。

何よりもその名前が、自分がつけた名前に違いないと山葉さんが言うので、自分たちの子供が女の子だとわかった時、その名前を第一候補として考えていたのだ。

「お祖母ちゃんが庭にジャスミンを植えて大事にしていたから、それにちなんで莉咲にしようと思ったのだ」

山葉さんは、お腹にいる子供が成長した後に未来から時間を遡行してきたと言う荒唐無稽な話は抜きにして、自分が考えたとしてその理由を話す。

「まあそうなの?私も同じことを考えてその名前がいいと思っていたの。でもね山葉、お父さんの徹さんの意見もちゃんと聞かないとだめよ」

裕子さんは夫の僕を立てて僕に話を振るが、僕に依存があるわけはなかった。

「僕もその名前に賛成です。いい名前だと思いますよ」

その名前が何となくなじみがあって気に入っていたし、安定した未来があるはずなのに、調和を乱して新たな時空の変動を招くようなことはしたくなかったからだ。

「それじゃあ、候補の一つにしてもらえたらうれしいわ。余計なことを言ってごめんなさいね」

裕子さんは遠慮がちに話を引き取った。彼女は名前のことを口にした後で僕に対して遠慮する気持ちが強くなったらしい。

「とりあえず、この子が無事に生まれてから決めることにしよう」

山葉さんは自分のお腹をやさしくさすって見せた。

都内ではスギ花粉の密度が高いし、新型肺炎のウイルスにも気を付けなければならない。

しかし、人の営みとは関わりなく公園の花壇には春の訪れが見て取れる。

僕は光沢のある黄色の花弁を揺らす樹木にも目を惹かれた。

半透明の黄色な花弁が形作る花の形がとてもきれいで、その近くでは梅の木が白や赤色のつぼみをほころばせている。

「蠟梅がきれいに咲いている。もう春が来るのだな」

山葉さんがしみじみとした口調でいい、僕はその花が蠟梅だと知った。

そして、蠟梅の花をキーとして僕の人生の良き一コマが記憶に刻まれたような気がした。

これからの人生で蠟梅の花を見るたびに、この情景をふわりと思いだすことになる予感がしたのだ。

僕たちは蠟梅に見とれて足を止めていたが、その先の歩道が緩くカーブした向こうで、女性の大きな声が響いた。

早口の言葉の内容は咄嗟に理解できなかったが、その声は女性が連れている小さな子供に向けられていたらしく、直後に小さな女の子の鳴き声が響き始めた。

女性の声はさらにしかりつけるような口調で響いていたが、こちらに向けて歩くにつれて僕たちの存在に気が付いたらしく不意にその声は止む。

しかし、叱られた女の子は人がいたからと言って平静を装うこともできずしゃくりあげながらそれでも涙を抑えようとして僕たちの横を通り抜け、その様子が可哀そうだった。

母親らしき女性は僕たちに無言で会釈をすると、女の子を急き立てるように手を引っ張ってその場を離れていった。

「いやね、穏やかな雰囲気が台無し」

裕子さんは小声でつぶやくとしゃがみ込んで何かを拾い上げた。

それは、量販店などでカプセルに入って「ガチャ」で売られている小さなフィギュアだった。

それは食べ歩きをモチーフにした漫画のクマで、今人気のキャラクターの一つだ。

「さっきの子供が落としていったのでしょうか?」

僕がつぶやくと、裕子さんは無言でうなずくと親子連れが去っていった方向に駆け出していった。

「お母さんは相変わらず元気だなあ。家が山の上にあったために鍛えられているからだろうか」

山葉さんは走っていく裕子さんの後姿を見ながら感嘆したようにつぶやいた。

それから数分後、裕子さんは息を切らしながら戻ってきた。

その手にはクマのキャラクターフィギュアが握られたままだ。

「もう少しで追いつくところだったのに、あの女表通りに出たところでタクシーに乗っちゃったのよ。今度見かけたらこの人形を返すのと一緒に子供をむやみに怒鳴らないように注意してやるから」

裕子さんは悔しそうにクマのフィギュアを自分のポケットにしまった。

その後、僕たちはゆっくりと歩く散歩を再開し公園を一回りして駐車場に戻ると帰途に就いた。

その夜、裕子さんが別室に引き上げ、山葉さんがシャワーを使っているときに僕は昼間のクマのフィギュアがさりげなくテレビの上に乗せられていることに気が付いた。

裕子さんのことだから、忘れないように目立つところに置き、散歩に出かけるときには持参して持ち主を探すつもりかもしれない。

東京の人口を考えたら、同じ親子連れに出会う可能性は極めて低いが、裕子さんならきっと実行するだろう。

そんなことを考えながら、僕は何気なくフィギュアに手を伸ばしていた。

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