第298話 食いしん坊のクマ
クマのフィギュアを手に取るのと同時に、強烈な違和感が僕を襲った。
それに続いて、自分の視覚や体の感覚も喪失していく。
僕は声を上げて誰かに助けを求めたかったが、それすらもできなかった。
僕の意識は不用意に触れたフィギュアに染み付いた誰かの思念に飲み込まれていった。
やがて僕は、フィギュアに染み付いていた記憶を追体験し始める。
僕はいつしか、子供の勉強部屋らしき、こぢんまりとした部屋に座り、友達が宿題を終えるのを待っていた。
勉強机に向かって宿題をやっつけている少女は小学校の低学年程度に見え、その少女の名が理恵ちゃんだという知識がどこからか僕の意識に入り込んでいた。
僕自身も理恵ちゃんと同年代の少女の姿をしているようだ。そして理恵ちゃんが宿題を終えるのを待つ間、その辺に置いてあったコミックスを読んで時間をつぶしているところだ。
コミックスは初めて読むものだった。可愛らしいクマの主人公が、旅行先で食レポや旅で出会った出来事の感想を綴っていく内容はすごく面白い。
コミックスを読む合間に、理恵ちゃんの様子を窺っていると、彼女の机の上にコミックスの主人公のクマのフィギュアがあることに気が付いた。
「理恵ちゃん。これ漫画のクマのフィギュアだね」
理恵ちゃんは宿題の手を止めると、嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「それね、お母さんと買い物に行ったときに、スーパーの出入り口のところにあるガチャで買ってもらったの。二百円なんだよ」
理恵ちゃんの言葉を聞いて気分が少し落ち込んだ。自分にとっての二百円は少し高い買い物の部類なのだ。
「美沙ちゃんも買ってもらえばいいのに」
「うちのお母さんはこんなおもちゃを買ってくれない。」
少し悲しい気分で答えたのが理恵ちゃんには即座に伝わったようだ。
彼女は宿題を終えたらしく、ノートや教科書を片付けると、勢い良く立ち上がった。
「美沙ちゃんも貯金箱のお金を使ったら買えるよ。絶対二百円以上あったと思うよ」
彼女の提案は魅力的だ。自分が買い物したときのおつりを貯めている貯金箱にはかなりの量の小銭が入っており、理恵ちゃんもそれを見て感心したことが有るのだ。
半ばその話に乗ろうと思ったが、貯金箱の中身は十円玉以下の小銭しか入っていなかったことを思い出した。
「理恵ちゃんだめよ。私の貯金箱には百円玉なんて入っていない」
ガチャポンを回すには百円玉がいるのだ。
理恵ちゃんは眉毛をハの字にして考えていたが、やがて彼女の表情が明るくなった。
「美沙ちゃんいい方法があるから」
理恵ちゃんは先に立って、手招きしながら部屋から外に出ていく。
そして彼女は私の家に行き、貯金箱の中身を確かめることから始めた。
貯金箱の中身は自分の記憶とたがわず、小銭しか入っていない。
しかし、理恵ちゃんは貯金箱の小銭の中から十円玉を二十枚数えて私に手渡すと残りのお金を貯金箱に戻す。
そして自信たっぷりな様子で外に出かけた。
「私がね、マネーロンダリングしてあげる」
理恵ちゃんは小難しい言葉を使うと、自動販売機の前で立ち止まった。
彼女は私から受け取った十円玉を次々と自動販売機に投入していく。
自動販売機に入れた金額が百円に達したとき理恵ちゃんはおもむろに返却レバーを押した。
チャリンと言う金属音と共に返却口に落ちたのは百円玉だった。
「すごい、こんなことが出来るんだ」
私が褒めると、理恵ちゃんは得意そうに同じことを繰り返してさらに十円玉十枚を百円玉に変換する。
「前にね、十円玉をいっぱい入れてジュースを買おうとして、途中で気が変わって返却レバーを押したら、百円玉が出てきたことがあったの。それ以来時々こうしてマネーロンダリングしているの」
私は理恵ちゃんの記憶力に感心する暇もなく彼女から受け取った二百円を握りしめて近所のスーパーマーケットに向かった。
スーパーの出入り口には目立たない雰囲気でガチャポンと呼ばれる機械が設置されている。
カプセルに入った小さなおもちゃがコインを入れてレバーを回すとガチャンという音と共に落ちてくる一種の自動販売機だ。
きっと買い物の途中で愚図り始めた聞き分けのない幼児のためにお店が設置したのだろう。
子供の機嫌を取り結ぶために母親が使うことを当て込んでいるわけだ。
私は百円玉二枚を投入すると、恐る恐るガチャポンのレバーを回した。
このガチャポンはお金を入れたらもれなくクマのフィギュアが出るはずなのだが、自分が回すと何かしらはずれの品物が出そうな気がしてドキドキし始める。
しかし、機械の取り出し口に出てきたのは、理恵ちゃんが持っているフィギュアとは微妙にポージングや表情が違うものの、お目当てのクマのキャラクターだった。
ガチャのカプセル越しにしみじみとフィギュアを眺めていると、理恵ちゃんが笑って言う。
「よかったね美沙ちゃん」
私は彼女に感謝しながら黙ってうなずいたのだった。
持ち帰ったクマのフィギュアは私の宝物だった。
その日以来クマのフィギュアを机の上に飾り、それを眺めることでちょっと幸せな気分になって学校に行くことが出来たのだった。
しかし、私のささやかな幸せは長くは続かなかった。
机の上に飾ったフィギュアは奴の目に留まることになったからだ。
「何だこの変なクマは。俺はこんなものを買った覚えは無いぞ」
ドスの効いた声に、私は自分の神経がピリピリと悲鳴を上げたような気がした。
私の父親は一見温和で知的な雰囲気のおじさんなのだが、私のしつけに関しては異常に厳しいのだ。
「貯金箱のお金で買ったの」
自分の声が震えるのを意識しつつ説明するが、奴は聞き入れることはなかった。
「たとえこんなちゃちな人形でも人様の物を盗んだら泥棒なのだからな、どこで盗んだか白状しろ」
奴は人の説明は信用せず、終始私を犯人扱いした。
盗んだことを認めろと、大人の腕力で手加減もせずに頭や腹を殴り、最後は足蹴にされて私の身体は宙を飛んだ。
物音を聞きつけた母親が駆け付けたものの、母は奴に対しては口答えをすることはない。
「こいつが、どうしても白状しないんだ」
「もうやめて、本人は盗んでいないと言っているじゃないの」
珍しく母が擁護してくれたが、それは奴の苛立ちの炎に油を注いだようなものだった。
奴は私の衣服をすべてはぎとるとバスルームに放り込んだのだ。
そして、冬のさなかにシャワーのノズルから冷水をありったけの勢いで私に放った。
冷たい水に体の感覚は麻痺して顔に浴びせられた水で呼吸ができない。
「いい加減に白状したらどうだ。そうしたら水を止めてやる」
「違う。盗んだりしていない」
私は最初反論していたが、やがて話すこともできなくなった
奴は私が返事もできない状態なのに気づきもしないで冷たい水をかけ続ける。
気が遠くなりかけた頃に、母が奴に告げる声が遠くの世界から聞こえてくるように耳に響いた。
「この子の友達の理恵ちゃんに聞いたら、貯金箱の小銭を使って買ったのだと言ってくれたわ。もうやめて」
奴はやっと水を止めると、舌打ちをして私に言う
「普段から行いが悪いから疑われるんだよ」
それが、奴の私に対する謝罪に相当する言葉だったらしい。
奴はしびれるような冷たい水で冷え切った私を放置してリビングに戻っていった。
母は一瞬立ち止まったが、やがて奴の後を追って去っていく気配がする。
私は寒さによろめきながら立ち上がると床に散乱した服を自分で拾って身に着けるしかなかった。
どうにか服を着終えたときに、床に転がったクマのフィギュアが目に入った。
フィギュアを見ていると、友達の理恵ちゃんがやさしくしてくれたことを思い出し、その時初めて涙がにじみ始めていた。
「ウッチーどうしたんだ」
山葉さんが僕の腕を掴んで引っ張ったことで、僕の意識は現実に引き戻された。
風呂上がりの山葉さんは少し上気した顔で心配そうに僕を見つめている。
「この人形に残っていた女の子の思念を覗いたのです」
僕が見ているのは、思念の中で美沙ちゃんという少女が見ていたのと同じクマのフィギュアだ。
僕は彼女の身の上を思って、涙がにじんでくるのを止めることが出来なかった。
「あの子は両親に虐待されていたのです」
僕が泣きながら告げるのを見て、山葉さんが息をのむ気配が伝わってきた。
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