第291話 パンケーキ食べたい!

「あら、夕ご飯のメニューを考えながら無意識に口に出していたのではありませんこと?私も時々黒崎にたしなめられることがありますのよ」

美咲嬢がやんわりとした雰囲気で恵理子さんに尋ねるが、黒崎氏は迷惑そうにつぶやいた。

「別に僕はたしなめているわけではなくて、考えていることを口に出してしまっていますよと指摘しているだけですよ」

恵理子さんは、二人の自然なやり取りに自分の記憶が確かなものか自信がなくなった様子だ。

「私も考えていることを口に出していたのかしら」

恵理子さんは隣に座った優菜ちゃんを見下ろすが、優菜ちゃんは恵理子さんと目を合わそうとしない。

「きっとそうですわ。人の考えなどそう簡単に読めるものではありませんから。それでも気になるようでしたら、こちらの陰陽師さんに祈祷していただいたらどうかしら。怪しい気配があったとしてもすべて祓ってくれると思いますわ」

美咲嬢は優菜ちゃんがテレパシーに近い能力を発揮しているのを母親の目から隠蔽するつもりのようだ。

僕は、毎日一緒に暮らす親子なのに誤魔化すことが出来るか疑問に思いながら、美咲嬢が何を始めるか見守るしかなかった。

「話が変わりますが、恵理子さんのご両親は健在なのですか」

山葉さんは自分が話題に上ったのを契機に恵理子さんに尋ねた。

恵理子さんは、一瞬言葉に詰まったが気を取り直したように山葉さんに答える。

「両親は健在ですが、母親は私の実の母ではなくて継母なのです。実の母は私がまだ幼いときに交通事故で亡くなっています」

「するとお母さんが亡くなられたのは、平成の初めの頃ですか」

山葉さんが重ねて尋ねると、恵理子さんが苦笑気味に答える。

「いいえ、まだ年号が昭和から平成に代わる前の話なのです。私は実母の記憶が全くないのでそれがちょっと悲しいですね」

恵理子さんが苦笑気味なのは、話の内容から自分の年齢が判明すると思ったからかもしれないが、僕たちは彼女が実母を覚えていないと言ったことで質問したこと自体に気が咎めていた。

「失礼しました。それではお母さんはまだ小さなあなたを残して心残りだったでしょうね」

山葉さんは律義に詫びたが、僕はむしろその話を引っ張らなければいいのにと思う。

「そうですね。私は母よりも長く生きてこうして優菜と一緒にいられるので、自分の子供を残していってしまった母の気持ちがわかる気がします」

恵理子さんがあまり湿っぽくない雰囲気で答えたので僕はホッとした。

しかし、山葉さんと恵理子さんのやり取りを聞いているうちに、僕は先ほど見た謎の女性の姿に違和感があった理由に気が付いた。

その女性は服装やメイクの仕方が現在と違っていたのだ。

早い話が昭和から平成に代わるころ、つまりバブル時代の女性の姿だと思えば納得できるし、それは恵理子さんの母親が亡くなった時期と符合する。

僕が先ほど見た女性は、恵理子さんの母親の霊だった可能性が高いと思われた。

僕は山葉さんが恵理子さんの母親の霊を浄霊する気なのかと思ったが、彼女は親族の霊を祓うことはめったにしない。

結局、山葉さんが浄霊の話を切り出すことはなく、美咲嬢が別の話を始めていた。

「ところで恵理子さんは先ほど優菜ちゃんの事を自閉症スペクトラム障害とおしゃいましたけど、病院で確定診断は受けたのですか。」

美咲嬢はさりげなく切り出したのだが、恵理子さんは気まずい表情でうつむいている。

やがて、恵理子さんはボソボソと話し始めた。

「私は仕事も抱えていて休みを取って通院することはなかなかできないので、家庭の医学書を読んで、症状を見定めていたのです」

僕が見ている前で美咲嬢の目がスッと細められた。

それは喜んで目を細めているわけではなく、野生動物が攻撃姿勢をとるのに似た雰囲気だ。

僕はこの場から逃げ出したい衝動にかられたが、美咲嬢の口から洩れた言葉は意外と温和なものだった。

「お忙しいのに家庭の医学書を読んで勉強されていたのは立派ですわ。でも私どもの専門分野でもあるので、優菜ちゃんと問診させていただけないでしょうか。もし治療が必要なケースなら精神科のドクターもご紹介できますわ」

「は、はいぜひよろしくお願いします」

幸いなことに恵理子さんは美咲嬢の申し出に素直に応じてくれたので、美咲嬢から発散していた険悪な雰囲気は次第に収まっていく。

優菜ちゃんは目を丸くして恵理子さんと美咲嬢を交互に見ており、山葉さんと黒崎氏は僕と同じように息をのむようにして美咲嬢を見守っていたようだ。

空気を読むというより霊的な波動を感知する者にとっては迂闊に口を開くことが出来ない雰囲気だったが、そのような感覚を持たない阿部先生はのほほんとした雰囲気で理恵子さんに言う。

「よかったですな恵理子さん。まずは優菜ちゃんを美咲先生に見ていただけるように日程の相談をしましょうか。これから山葉さんに祈祷してもらえるようにお願いしてもええですよ」

しかし、恵理子さんが答える前に山葉さんが阿部先生に告げる。

「阿部先生、優菜ちゃんの問診を先にして私の祈祷はそのあとにしましょう。ちょっと思うところがありますので」

阿部先生は思わぬ方面からストップをかけられて面食らった表情だったが、すぐに立ち直ると恵理子さんに言う。

「ええと、祈祷は後回しということで、美咲先生のカウンセリングの予約を取ることにしましょうか」

「はい、ぜひお願いしたいです」

阿部先生と恵理子さんのやり取りを聞いている美咲嬢は既にいつもの雰囲気に戻っており、恵理子さんにやんわりと告げる。

「少し時間をかけて様子を見たいこともありますから、出来たら今度の土曜にお預かりして翌日のお昼ごろに迎えに来ていただくことは出来ませんかしら」

「はい、それは大丈夫です」

恵理子さんが答え、妖怪サトリのお祓いをすることになると思われていた面談は、思わぬ方向に話が進み始めていた。

「それでは私たちはこれで帰らせていただきます」

恵理子さんは自閉症スペクトラム障害の診断の話を持ち出されてからすっかり勢いがなくなり、そそくさと席を立とうとしたが、優菜ちゃんが突然口を開いた。

「パンケーキ食べたい、パンケーキ食べたい」

優菜ちゃんはバラエティに出演するタレントのネタのような口調で連呼し、恵理子さんが慌てて優菜さんに何か言おうとしたので、僕はそこに割り込んだ。

「さっきメニューで見たんだね。みんなで食べるように準備しておいたから帰る前に食べてもらおうか」

実際は、事前にパンケーキを準備していた僕か山葉さんの思考を優菜ちゃんが読み取った可能性が高いが、恵理子さんは優菜ちゃんが「さとり」だとする考えから離れつつあるので、今は話をそらしたほうが良いと思ったのだ

恵理子さんがしぶしぶ腰を下ろしたところに、山葉さんと裕子さんが人数分のパンケーキセットを運んできておやつタイムとなった。

「あら、いつの間にこんなお洒落なメニューを始められたのかしら。私に教えてくれないなんてひどいですわ」

美咲嬢が上機嫌につついているパンケーキのトッピングは冬バージョンのイチゴシリーズで、優菜ちゃんも嬉しそうに口に運んでいる。

結局、集まった人々がカフェ青葉の定番となりつつあるパンケーキセットを食べたところで集まりはお開きとなった。

川島さん親子が帰った後で、美咲嬢は大きなため息をついた。

「治療したいのはあの母親の方ですわ。確定診断も受けていないのに自分の子供を自閉症スペクトラム障害だと人に言いふらすなんて正気の沙汰ではない。そのおかげで周囲の人から障害者のように見られて、優菜ちゃんがどれほど傷ついているか想像に難くない」

美咲嬢は殺気に近い険悪な波動を発した言い訳のようにつぶやく。

「すいませんでしたな。少し様子がおかしいので皆さんに見てもらいたかったのですがそんな事になっているとは思いもよりませんでした」

阿部先生はあわてて美咲嬢に謝ったが、美咲嬢は微笑を浮かべて答えた。

「いいえ、おかげで優菜ちゃんを現在の境遇から助けてあげることが出来ますわ」

僕は、美咲嬢がよい解決方法を持っているのだろうかと彼女の表情を窺うしかなかった。

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