第257話 母の記憶
暗転したのは視野だけでなく、ほかの感覚も遮断されている。僕はこれまでの経験から、自分が誰かの記憶を追体験しつつあることを悟った。
蟲の記憶を体験する羽目になるのだろうかと僕は少なからず嫌悪を感じたが、幸いなことにそれは人間の記憶のようだ。
僕はいつしか自分が刺すように冷たい風にさらされて海を見ていることに気が付いた。
冬の日本海は鉛色の空に覆われており、打ち寄せる波の飛沫は泡になって風に飛ばされている。
巨大な柱が立ち並ぶように見える断崖の高さは十メートルを超えており、眼下に見える深く切れ込んだ入江では逆巻く波が渦を巻いていた。
私は冷たい海に飛び込めば一息に死ぬことができると思い断崖の端に位置する岩の上に足を踏み出した。
折からの雪は激しさを増して吹雪と言っても差し支えない。溺れるよりも先に寒さで心臓が止まってくれたらきっと楽に違いない。
その時、両手で抱えていた和也がぐずり始めた。
母親の本能の成せる業なのか、この期に及んで私は和也が寒くないように厚着をさせたうえでオーバーコートにくるんでいたが、吹き付ける風雪が顔に当たり冷たいのに違いない。
私は足を止めて躊躇した。
ここで死のうと思い立って出かけてきたのに、母親の本能は生後半年の子供にミルクをやらなければいけないと告げている。
もう一歩先に踏み出すことができないでいると誰かが片腕をつかむのを感じた。
振り返ってみると、そこには先ほど観光案内所で周遊路を教えてくれた老人の顔があった。
深いしわが刻まれた顔は悲しげな表情を浮かべてゆっくりと頭を振ると私に告げる。
「やめなさい。そんな小さなお子さんを道連れにしてはいかん」
私は腕をつかむ手を振りほどいて一歩先の断崖の下に身を投げようかと思ったが、抱えている和也がひときわ大きく鳴き声を上げたので思わず抱きしめた。
「こちらに来て訳を話してみなさい」
私は自ら命を絶つことを断念して、ゆっくりとうなずくと老人に従って歩き始めた。
老人が案内したのは、自治体が設置した駐車場に隣接する観光案内所の中にある小部屋だった。
時代がかった鉄製のストーブの上には薬缶が置かれて湯気を立てている。
手作り感のある一枚板のテーブルを囲んで折り畳みの椅子が置かれているが、来客用というよりは観光案内所のスタッフが休憩所代わりにしているスペースのようだ。
「お湯が必要なら、ストーブの上のやかんのお湯を使うといい。」
老人は自殺を図った訳を話せと言って私を連れてきた割に、無愛想に告げると部屋から出て行った。私は半ば自動的にやかんのお湯を使って哺乳瓶でミルクを作ると和也に飲ませる。
和也は元気にミルクを飲み干すと、温かい部屋に安心したように眠り始めた。
私が置かれている状況は、いわゆる自殺の名所と呼ばれる場所にわざわざ来て死のうとしたものの、観光案内所のおじいさんに見とがめられて未遂に終わったというところだ。
そのおじいさんは、奥さんらしき女性を連れて現れた。二人とも重ねた歳月が穏やかに降り積もったような温厚な雰囲気をまとっている。
「かわいらしい赤ちゃんがいるのにどうして、死のうと思ったの。差支えがなければ私たちに話してみなさい」
婦人に言われて私は、堰を切ったように話し始めた。そして口にして初めて自分が誰かにその話を聞いてもらいたかったことに気が付く。
「私は父が経営する会社に勤務していて、会社の同僚と結婚しました。彼は仕事もできるし容姿もいい人だったので私は結婚出来て幸せだと思っていました。子供ができたのを機会に私は退社し専業主婦になったのですが、ある日会社の元同僚でプライベートでも仲の良かった女友達が私に連絡してくれたのです」
老夫婦は無言で聞き耳を立てている。私は話をつづけた。
「彼女が言うには夫は社長である私の父に取り入るために私に接近し利用したのであって、恋愛対象としては別の女性がいるというのです。早い話が不倫をしているということなのですが、いたたまれなかったのはそのことを社内の大半の人が知っていたということなのです」
私が言葉を切ると、観光案内所のおじいさんの奥さんが口を開いた。
「それで、あなたはどうされたの」
「私は最初は半信半疑だったので、興信所に頼んで夫の行動を監視させました。すると、友人の言った通りで夫は父の会社の女性社員と不倫関係にあることが確認できました。私は離婚訴訟を起こして夫とは離婚し、彼も相手の女子社員も会社にはいられなくなって辞めていきました。」
観光案内所のおじいさんはゆっくりとした口調で言う。
「それならば、誤りは正されたからよかったのではないかね」
私は首を振ると、目頭ににじんだ涙をぬぐった。
「結局、私にはこの子だけが残って、それ以外の何もかも失ってしまったのです。今更会社に復帰する気にもなれず、実家でこの子を育てるしかないと思っているうちにふと魔が差してしまってここに来てしまいました」
「魔がさしたとわかればいいのですよ。あなたはお子さんもちゃんと世話をしているし身なりもいい。世の中には子供を抱えて生活に困っている人だっているのだから恵まれていると思わなくては」
婦人の言うことはもっともだった。会社を辞めたとはいえ、元夫からは養育費をとっているし、実家に身を寄せたので特に生活に困るわけでもない。
「でも、私には社会的な居場所がどこにもなくなってしまったのです。」
おばあさんはゆっくりと首を振ると和也に手を伸ばしてそっと頭に触れた。
「あなたにはこの赤ちゃんのお母さんという立派な役割があります。それに、お話を聞いた限りではあなたのこれまでの居場所というのは全てあなたのお父さんが準備してくれたもではないかしら。その気になればいくらでも社会に出ていくことはできるはずですよ」
彼女の言葉はゆっくりと私の心にしみこんでいった。
私は東京に帰ると老夫婦に告げて帰途に就いた。東京に帰ると両親は子供と一緒に数日間姿を消していた私を何事もなかったように迎え、私は和也の育児に専念する生活に戻った。
結局、私は育児に煮詰まった頭を冷やすために日本海まで旅をしたのだと自分に言い聞かせたことだった。
和也はかわいらしく、私の生きがだった。和也も私の愛情にこたえるように素直に育っていく。幸いなことに離婚した夫は律儀に養育費を送ってくれるし、実家に身を寄せていることもあり、当座の生活に不自由はなかった。
和也が学校に上がると私は小さな事業を始めた。幼稚園で使うエプロンや、家庭で使う小物を輸入物の布地を使って自作したのがきっかけだが、ママ友に評判が良かったのでたくさん作ってネットで通販を始めるとそれは飛ぶように売れた。
やがて、ちょっとした作業場を作って人を雇うようになり、今では小さな会社の形態をとっている。
パートで雇う労力の主体は暇な時間を活用したいと思っている専業主婦で、隙間時間でパートをしたいママ友仲間が働いてくれた。
社会的な地位の面でも雇用する人々の間で、それなりに敬意を払われている気がするようになり、生活にも不安がなくなると、私はさらに和也を溺愛し始めた。中学生になりいわゆる難しい年頃になっても、和也は私の言うことを聞き、慕ってくれる。
いつしか私は自分のすべてを和也のために捧げようと思い始めた。早い話が息子の成長を見届けることを自分の人生の目標としたのだ。
蟲と見えたのは和也さんの母親の思念だったようで、そこに秘められていた記憶を一通り追体験すると、僕は徐々に自分の感覚を取り戻していった。
蟲に秘められていた記憶の体験が薄れていくと、僕の目にはいざなぎの間の情景が戻ってくる。
気が付けば僕の両手には和也さんと恵美さんがそれぞれしがみついており、僕は蟲を踏み潰そうと体重をかけたまま固まっている。
「それには僕の母の記憶が詰まっているんです。踏み潰してはダメです」
和也さんが叫んだ。彼と恵美さんは僕にしがみついていたために蟲に秘められた記憶を僕と一緒に追体験してしまったらしい。
体験を共有するということは少なからず内面でもつながりが生じている。
和也さんの母に対する思いを共有してしまったのか僕は思わず黒い蟲を抑え込んでいた足の力を緩めてしまった。その瞬間、黒い蟲は床から離れて飛翔し始めた。
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