第256話 黒い蟲
「僕は誰かに呪われた覚えなどないけど」
和也さんは反論するというわけではなく独り言のようにつぶやく。
「直接的な呪いではなく、様々な人の思惑や期待そして悪意も含めたものがクモの糸のようにあなたに絡みついているのです。それらは一つ一つは自力で振り払うことができてもたくさん重なると人の動きを封じ込めてしまう。神社に行ってお参りするくらいの気軽な感覚でいいですから私の祈祷を受けることをお勧めします」
山葉さんは祈祷を勧めながら真剣な表情で和也さんを見つめている。
和也さんは恵美さんも真剣な表情で自分を見つめていることに気が付いて、ぼそぼそと言った。
「祈祷してもらうだけなら別に何の問題もありませんよ」
山葉さんは表情を緩めると、和也さんと真美さんにカウンターテーブルに並ぶ食事を示した。
「まずはごゆっくり、食事をお楽しみください」
「そうね。さめちゃうまでに食べましょう」
真美さんが大きなカキフライを食べ始めたのを見て、和也さんも気を取り直したように食事を再開する。
山葉さんは僕の横に回ると耳打ちした。
「私は祈祷の準備を整えるからこの二人の食事が終わったら、バックヤードに誘導してくれ」
「祈祷でうまく事が運ぶという勝算があるのですか」
僕が尋ねると、彼女は答える代わりにウインクしてバックヤードに姿を消す。
あとに残された僕は仕方なく、ほかの仕事も順次こなしながら恵美さんたちを見守ることにした。
店内の来客対応には山葉さんと入れ替わりに祥さんが入ったので、スタッフの配置としては十分だ。
祥さんは食事が終わったお客さんの席から食器を回収し僕のところまで運びながらカウンターの恵美さん達に視線を投げて僕にささやく。
「あの人が問題のマザコン?意外と格好いいし普通の人みたいですよ」
「逆に聞くけど、祥さんがイメージするマザコンらしい人ってどんな感じなの」
僕の質問に祥さんはしばらくしてから答えた。
「何となく、黒縁眼鏡をかけた真面目そうな雰囲気の人で、母親の前に出ると真面目そうな仮面がはがれてすごく甘えた表情を見せたりしてそのギャップが激しいとか」
「それは、ドラマとかで作られたステレオタイプ的なイメージでしょ」
僕が指摘すると祥さんはクスクスと笑う。
「そうか、そうですよね。山葉さんは祈祷の準備をすると言っていたけど、祈祷でマザコンを治すことはできるんですか」
「彼女が言うには、呪詛のようなものが彼の心を縛っているからそうなるのであって、彼女の「取り分け」の儀式によってそれを取り除くことができるらしい」
祥さんは両手を広げてみせると、あっさりと断言した。
「私にはそんなことは不可能です。後で顛末を教えてくださいね」
僕が彼女の言葉が聞こえたのではないかと恵美さんたちを気にするが、カウンター席で食事をする二人は仲良く談笑を続けている。
祥さんが僕が淹れたカフェラテを持って客席に戻るのをみながら、僕はひそかにため息をついた。
なぜ和也さんが彼女を差し置いて母親の言葉を最優先しようとするのか理解に苦しんだからだ。
食事をあらかた終えた恵美さんと和也さんに食後の飲み物を出してから、僕はバックヤードの様子を見に行く。
山葉さんは既に白衣と緋袴の巫女姿に着替え、「みてぐら」や「式王子」等の祭祀に必要なものを準備し終えていた。
「恵美さんたちの食事が終わったら連れてきてもいいですか?」
「うん。私は準備できたからいつでもいいよ」
彼女は平静な表情で僕にこたえる。僕は心配になって彼女に問いかけた。
「和也さんのマザコンを祈祷で治すことは可能なのですか?」
「呪詛というのは、時に人の体調を悪化させたり、あるいは意のままに操ろうとするものだったのだ。「とりわけ」とは式王子によってその呪詛を除去するのだから、彼のようにおそらく母親の思念が絡みついて支配している場合も効果があるはずだ」
山葉さんは自信のある表情で答える。僕はそれ以上心配することはやめて、具体的なサポートの方法を決めることにした。
「それでは、この後二人を連れてきますが、僕も立ち会った方がいいですか」
「いや、それには及ばない。祥さんと沼ちゃんを手伝ってあげてくれ」
彼女は一人で仕切ろうとしているが、僕は一抹の不安を感じて提案した。
それでは、いざなぎの間に設置したカメラからの動画をカウンターのラップトップパソコンでモニターしていますから、何かあったらすぐこちらに来ます。
彼女は心配性気味な僕の申し出に笑ってうなずいた。
僕はバックヤードから店内に戻ると、既に食後のドリンクも飲み終えていた恵美さんたちをお店のバックヤードにある「いざなぎの間」に案内し、山葉さんは凛とした雰囲気で二人に座るように促す。
「これより、いざなぎ流の祭祀を始めます。儀式の中で立ち上がって礼をしていただくことがありますから私の指示に従ってください」
恵美さんと和也さんは山葉さんの雰囲気に気圧されたように無言でうなずく。
山葉さんは御幣を手にして、いざなぎ流の祭文を唱えながら緩やかに神楽を舞い始めた。
僕は「いざなぎの間」をモニターできるカメラのスイッチを入れると店内に戻って時折様子を見ながら、普段の業務を続けるほかなかった。
店内ではランチタイムのお客さんは食事を終えていき、祥さんと沼さんが次々と回収した食器を集めてくる。
僕は汚れた食器をざっと洗ってからまとめて食洗器に入れると、少し手が空いたのでカウンターテーブルの裏側でお客さんから死角になる場所に置いてあるラップトップパソコンの画面を見つめた。
山葉さんは祭祀を始めた時と同様に祭文を唱えながら緩やかな動きで舞っているが、僕は座布団の上に座った和也さんが、喉元を抑えていることに気が付いた。
最初は気にも留めていなかったが、やがて和也さんは喉元を抑えて苦しんでいる様子を見せる。そして恵美さんもそれに気が付いて何か話しかけている。
当然、山葉さんもその様子に気が付いているはずなのだが、彼女は頓着しないでいざなぎ流の神楽を舞っている。
ぼくは、近くにいた沼さんにフロア業務を頼むとバックヤードに向かった。
バックヤードの「いざなぎの間」ではモニターで見たのと同様に喉元を抑えた和也さんを恵美さんが介抱している様子だが、和也さんは先ほどよりも苦しそうに見える。
「どうしました、大丈夫ですか?」
僕が「いざなぎの間」の畳の上に上がり二人の横にしゃがみ込むと、恵美さんは僕に訴えた。
「さっきから息が詰まりそうだと言って苦しんでいるんです」
和也さんは喉元を抑えたままで心なしか顔色も青ざめて見える。その前で山葉さんは何事もないかのように舞いながら祭文の詠唱を続けている。
僕は和也さんを横にして気道を確保しようと思い、彼の肩に手をかけたが、その瞬間和也さんはもがき始めた。
喉をかきむしるようにしてもがく和也さんを、恵美さんも僕も手を出しかねてただ見守るしかない。
やがて、和也さんは、湿った音を立てて喉から何かを吐き出した。
吐き出されたものは十センチメートルほどの細長くて黒い物体だった。
それは、僕達の周りを目にもとまらぬようなスピードで回りはじめ時折ピョンとジャンプさえする。
僕と和也さんそして恵美さんはその気味の悪い物体を避けようと立ち上がったが、恵美さんと和也さんが僕にしがみついたため、素早く動くことができない。
その時、山葉さんが鋭く叫んだ。
「ウッチー、それを踏み潰せ!」
僕は子供のころ見たアニメを思い出した。
確か魔法使いが竜を操るためにお腹の中に蟲を仕込んでいたのだが、川の神様がくれた団子を食べさせたら蟲が飛び出してきて、主人公がそれを踏み潰すという話だ。
黒い物体は明らかに意思を持っているように僕たちの周りを高速で走り回り、隙あらば飛び掛かってこちらの体に食い込んできそうで、アニメほど簡単に踏み潰せそうにはない。
和也さんはぐったりとしているし、僕と恵美さんは威嚇するように黒い物体が接近すると足踏みして逃げ惑ったが、僕は意を決してタイミングを計るとり、近寄ってきた黒い物体を足の下に抑え込んだ。
「いいぞ、そのまま踏み潰せ」
山葉さんの声が響き、僕は意外と表面が硬いその物体をつぶそうと体重をかけたが、その物体が潰れそうな気配を感じた時に僕の視界はブラックアウトした。
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