第223話 渚にて
カウンターに座った孝志さんは暗い表情で思い詰めたような眼差しを僕に向け、僕は沈黙の重さに耐えられなくなって彼に当り障りのない質問をする。
「今日もビートルに乗って来られたのですか」
「いいえ、電車で来ました。お落ち着いて運転できる自信がありませんでしたから」
孝志さんは堅い表情のままで答える。
「孝志君、容子さんのことは気の毒やったけど、いつまでも引きずってはいけないんや。今日はよくここに来いてくれたね」
阿部先生がしんみりと話しかけると、孝志さんは無言でうなずいた。
やがて、お店のバックヤードに通じるドアが開き、山葉さんが顔を出した。巫女姿に着替えた彼女は、明るい表情で僕たちを手招きする。
「準備ができましたよ。皆さんこちらにおいでください」
彼女はまるで、楽しいイベントを企てているような雰囲気だ。
僕は阿部先生と孝志さんを促して、お店のバックヤードにある和室、通称いざなぎの間に移動した。
いざなぎの間には「みてぐら」と呼ばれる祭壇のようなものがしつらえてあった。
いざなぎ流の儀式を執り行った後で「みてぐら」に呪詛の類を封じて梱包し、人の手が触れない場所に埋めてしまうのだ。
「みてぐら」の前に祈祷を受ける孝志さんと付き添いの阿部先生が座ったが、山葉さんは僕も手招きした。
儀式の様子をビデオで撮影しようとしていた僕は怪訝に思って尋ねる。
「僕もそこに座るのですか」
「ウッチーさんが今日の儀式の「きも」の部分なのです」
山葉さんは僕を孝志さんたちの正面に座らせると、御幣を振っていざなぎ流の祭文を唱え始める。
彼女は今日の儀式のために山の神の式神を使っていた
いざなぎ流の祭文を唱えながら彼女は緩やかに神楽を舞う。
舞踏のように見えるそれは、いざなぎ流の神にささげる舞なのだ。
いざなぎの間に山葉さんが唱える祭文が流れるように響き渡り、ひとしきり祭文を唱えた彼女は強い気を込めて御幣を僕の頭上に振り下ろす。
「え、何で?」
何故僕に御幣を振るのか考えるうちに、彼女が僕に取り憑いた容子さんをターゲットにしていることに気が付いた。
湘南から戻った時に、祥さんが祓っただけでは彼女の霊は僕から去っていなかったのだ。
山葉さんが気を込めるのと同時に周囲を眩い光が満たし、いざなぎの間の情景は光に包まれてホワイトアウトしていった。
僕はいつしか自分の見当識が失われて、自己に対する認識が変わっていくのを感じる。
つい最近、夢で容子さんの記憶を追体験した時のように彼女の意識が自分を満たしていく感覚だった。
気が付くと足元には白い砂の砂浜が広がっていた。
砂浜は緩やかなカーブを描きながら遠くまで続いている。
広い砂浜の陸側には松の林が続いており、春ゼミの鳴き声が聞こえていた。
砂浜の沖合には目に染みるようなコバルトブルーの海と。白く輝いて存在を主張する積乱雲が目に入った。
沖合から寄せてくる波は重量感のある響きと共に砕けて浜辺を駆け上がり、引いて行く波打ち際には鏡のような水面が残り、そこには海と空が映る。
私はパンプスを脱いで片手に持つと、波打ち際に足を浸して歩いた。
サラサラとした砂と少し冷たい海水の感触を足裏に感じながら海岸を歩くと、やがて波打ち際に座って海を見つめている男性が見える。それは孝志君だった。
「こんなに天気がいいのに何をうつむいているのよ」
私が声をかけると、彼は顔を上げた。その顔には驚きか喜びか判然としない表情が広がる。
「容子、また会うことができたのだね」
こうして会っているのに、わざわざ問いかけるのは無駄というものだ
「ずっと気になっていたんだけど、あなたは自分の担任クラスのいじめ対策はちゃんとしたの?」
私は気になっていたことを尋ねてみた。それは、果てしなくループした時間の中で私の中に溜まっていくストレスのもとだった。
「もちろんだよ。君が死んだ後で僕は必死になって生徒たちと話し合いをしたり、時には父母を呼んだりして、彼女に対するいじめ的な空気が無くなるように努力した。最終的に彼女は転校したけど僕はそれも仕方なかったと思っている」
「そう。ちゃんと話を聞いてくれたのね、ありがとう」
私は安堵するのと同時に彼の言葉が引っかかっていた。
「私が死んだあと?」
孝志君は私の目を真っすぐに見ながら語り掛けてくる。
「そうだよ。君は僕とケンカして別れた後で信号待ちをしている時に暴走してきたタクシーに直撃されて死んだんだ」
不意に私の脳裏に、信号を無視した大型のダンプトラックと衝突して私の方向に弾き飛ばされてきたタクシーの映像が浮かんだ。
「そうだ、タクシーがぶつかったんだ。何故思い出せなかったのだろう」
きっとそこで私が死んだからに他ならないと自分で補足し私は一人で納得した。
むしろ自分が死んだからこそ不可解な現象に巻き込まれたのだと考えればこれまでのことも説明が付く。
彼はタクシーが暴走してきたと言ったが、実際は暴走したダンプが跳ね飛ばしたタクシーだ。
多少事実と違っていたとしても認識のずれはよくあることだ。
孝志君は何だか老けて見えた。それは、私の死から年月が流れたことを暗示している。
私の死は規定事実化してもはやどうにもならないことに違いない。
「貴方とケンカした場面を数えきれないくらい繰り返し体験してストレスがたまっていたの。あなたが私の話を聞きいれてくれたことがわかってほっとしたわ」
彼の目にブワッと涙が浮かぶのが見えた。
もしかしたら私とケンカしたことをずっと気に病んでいたのだろうか。
「もう会えなくなるなら、伝えたいことは沢山あった。それなのに君は突然いなくなってそれきりだ。僕は本当にやり切れなかったんだ」
私はちょっと意地悪な雰囲気で彼に水を向けることにした。
「そんなに伝えたかったことがあるなら、言ってほしいな」
彼は躊躇したが、砂浜に立ち上がった。
「愛していたんだ」
そうくるのか?彼の言葉はストレートすぎて私は何だか気恥ずかしくなるが悪い気はしない。
「ありがとう。最後にその言葉が聞けて良かったわ」
私は彼に告げると周囲を見回した。
誰かが告げたわけではないが、私にはもう立ち去るべき時間だと分かっていた。
私は周囲を見渡して、この場面からの退場口を探したがそれらしきものは見当たらない。ここは海と空のはざまにどこまでも続く渚なのだ。
私は、走ることにした。
パンプスを放り出すと彼に告げる。
「ありがとう孝志君、あなたと一緒にいられたことをずっと忘れないから」
そして私は波の引いた鏡のような水面を蹴って走り始めた。
波打ち際を本気で走れば砂を跳ね上げてスカートが台無しだが、そんなことはお構いなしだ。
砂と水を蹴っていた私の足は次第に水面を軽く触れるだけになり、やがて走る私の下で鏡のような水面は乱れなくなっていく。
私が次の一歩を踏み出した時、波打ち際の水面は空だけを映していた。
空と海のイメージが余韻を残して消えていった時、僕は自分が畳の上に倒れていることに気付いた。
僕の前では御幣を握り締めた山葉さんが倒れているし、阿部先生と孝志さんも座布団の上に崩れ落ちたようにして眠っている。
山葉さんは、いざなぎ流の術を使って、孝志さんと洋子さんを対話させることに成功したのだ。
「ど、どうしたんですか」
様子を見に来た田島シェフが僕たちの様子に気が付いて大きな声を上げた。
その後ろから祥さんと木綿さんの顔ものぞく。慌てて駆け寄ってきた3人が僕たちを助け起こすが、山葉さんは昏睡したままだ。
「能力を使い果たしたのかもしれませんね」
祥さんは彼女を起こすことをあきらめて棚から出した毛布をそっとかけた。
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