第154話 ドナー情報を秘匿しなさい
その黒い影を死神と呼ぶのは後知恵でこじつけた感が強い。
山葉さんの考えでは、近くにいる人に死期が迫ったことによって時空に裂け目のようなものができており、霊感のある人間が人のような黒い影と認識しているだけだというのだ。
それでも、そんな影と一緒にどこかに行ってしまえばただでは済まないのは目に見えている。
「泉さん」
ひときわ力を込めて呼ぶと、やっと声を出すことができた。
黒い影と一緒に、ヒマワリ畑の中の小径を歩いていた泉さんが足を止めて振り返ったのが見えた。
「あなたは誰ですか?ここでなにをしているのですか?」
僕は背後からだしぬけに声をかけられたので飛び上がるほど驚いた。振り返るとそこには山葉さんが立っていた。
「泉さんが大変なんです。連れ戻すのを手伝ってください」
「はあ?泉さんって誰よ」
僕は自分が身動きできないので彼女に何とかしてもらえると喜んだのもつかの間、問題があることに気が付いた。
僕自身は目の前の状況を夢だと把握できる覚醒夢の状態なのだが、隣に寝ていたために僕の夢に出演させられた彼女は、記憶や容貌が高校生当時に戻ってしまった女子高生バージョンの山葉さんなのだ。
彼女は巫女服を着て片手に日本刀を持っているが、その容貌は少しふっくらした雰囲気で幼さが残る。
以前、僕の夢の中に女子高校のセーラー服を着て現れた時と同じ雰囲気なので、彼女の記憶や能力もその時と同じレベルに違いない。
「覚えていないのですか。彼女は呼吸器系の難病に罹って療養しているのですが、彼女のそばに死神を思わせる黒い影が見えたんです」
「黒い影?私は祖母が死ぬ前にそれを追い払おうとしたけどどうしてもできなかったのです。それは何処にいますか」
僕はひまわり畑小径の先の方、泉さんと黒い影がたたずむあたりを指さした。
「ああ、あれは確かに例の影ですね」
山葉さんは眉間にしわを寄せながらその辺りを眺めている。僕は必死になって彼女に頼んだ。
「僕はどうした訳かここから動けない。泉さんを連れ戻してください」
彼女はひまわり畑の小径へと駆け出そうとしたが、その前におぼろげな人影がいくつも現れて立ちふさがった。
僕は彼女を手伝おうとして、何気なく自分の足元を見て愕然とした。輪郭のはっきりしない手が何本も地面から突き出して、僕の足首を掴んでいる。
「あなた達は何者ですか」
山葉さんは日本刀に手をかけながら、影に詰め寄っていく。
「邪魔をするなら斬ります」
彼女はパチンという音と共に日本刀の鯉口を切ると日本刀を抜き、横ざまに薙ぎ払う。
彼女の前に立ちふさがっていた人影は細かい粒子状になり風に舞って消えていった。
「これは霊ではない。その人が生きることに嫌気がさす原因となる記憶や思念です。彼女は良い思い出と共に逝ってしまおうとしている」
山葉さんはさらに数を増やして立ちふさがってくる人影に向かって日本刀を振り回しながらひまわり畑の小径を進み始めた。
僕も、自分の足を掴む手を引きはがそうとする。一本の手を足首から引きはがした時、その手首を形作っていた泉さんの記憶が僕の中に流れ込んだ。
夜更けに目を覚ました泉さんは、自宅のリビングから響く両親が言い争う声に気が付いたのだった。
父親が遺伝的な疾患を持っていたのに隠していたと、母親を激しく責める声に思わず耳をふさぐ。
僕はさらにもう一本の足首に絡みつく手を引き離す。今度は泉さんが通学していた学校の情景が浮かぶ。
別の場所から教室の戻ろうとしていた彼女は、仲の良かった友人たちが自分の病気のことを話していることに気が付いて物陰から聞き耳を立てる。
友人たちは、伝染るといけないから近寄らないようにしようと口々に話していて、戻るに戻れなくなった彼女は教室から離れた。
最後に残っていた手を引きはがそうとすると、先日見た小児病棟の教室の情景が目に浮かんだ。そこでは忘れ物を取りに戻った泉さんに気付かずに、教諭と美咲嬢が口論していた。
教諭は呼吸機能が低下した泉さんの授業はもう止めて、治療に専念させるべきだと言うが、美咲嬢は彼女の希望を奪ってはならないと授業の継続を主張して言い争っていたのだ。自分の余命が残り少ないことをリアルに感じた彼女は病室に引き返した。
足首に絡みつく手首を振りほどいた僕は、どうにか動けるようになったので山葉さんの後を追った。
先ほどまで晴天だった空には、厚い雲が立ち込めてポツポツと雨が落ち始める。やがて叩きつけるような大粒の雨が降り始めた。
ヒマワリの葉に当たる雨粒の音が大きく響き、乾いていた地面はあっという間に水びたしになった。
水に光る地面には大きな水冠が一面にはじける。
ひまわり畑の小径を進んでいくと、山葉さんは黒い影の後を追う泉さんを引き留めて押し問答していた。
「それについて行ってはあなたは死んでしまいます。こっちに戻ってください」
「私はもう疲れたの。手術とか怖いしどうせ上手くいかないんでしょ」
泉さんは手を振りほどこうともがいている。僕も追いついて彼女の手を掴んだ。
雨が降り注ぐひまわり畑の小径は遥か彼方まで続き、その向こうには穏やかな光が輝いて見える。
「泉ちゃん、もう少し頑張れ。君を支えようとする人がたくさんいることもわかってくれ」
しかし、彼女はさらに強く手を動かして、僕たちから逃れようとする。
「あなた達が、死んでも魂が残るかもしれないと教えてくれたのでしょう。教えてくれた通りに先に進んでどこがいけないのよ」
僕は返す言葉がなかった。沈黙した僕の代わりに山葉さんがゆっくりと話し始める。
「あなただけでなく、人はみんなが短い寿命しか持たない生き物なの。それだからこそ最後の最後まで生きる努力は続けなければいけないのよ」
泉さんは暴れるのをやめて山葉さんの顔を見る。
「どうしてそんな、わかったようなことを言えるの?」
「最近亡くなったばあちゃんが教えてくれた。病気で苦しかったはずなのに私が悲しまないように最後まで気を使ってくれた」
泉さんはおとなしくなると目を伏せた。
「私にもおばあちゃんがいたわ。形見にもらった金庫の中には私の写真がいっぱい入っていた」
泉さんは思い出したように僕の顔を見た。
「金庫を開けてくれてありがとう」
彼女は口ごもってから小さな声で続けた。
「もう少しだけ、頑張ってみようかな」
激しかった通り雨は上がり、再び強い日差しが照り付けていた。
夢だと分かっているのに、雨に打たれた土の香りと日に照らされたひまわり畑の草いきれが鼻腔に届く。
蒸し暑い空気の中で、雨と涙でびしょ濡れの顔をした泉さんが僕の手を柔らかく握り返した。
その時、僕は手荒く揺すられて目を覚ました。目を開けると、山葉さんが僕をのぞき込んでいる。
「さっきから『泉さん。』と何回も寝言を言っていたよ」
彼女はアヒル口をして非難がましく僕に言う。
「ちょっと夢を見ていただけですよ」
僕は恐る恐る答えたが、彼女が僕を見る目つきは冷たい。
「以前も女子中学生の地縛霊に魅入られて、ウッチー自身もご執心だったじゃないか。そんなに若い子がいいのなら鞍替えしたらどうだ」
どうやら彼女は、僕の寝言で起こされたこともあって機嫌が悪いようだ。
「そんなんじゃないんですよ。泉さんが例の黒い影と一緒に行ってしまいそうだったから一生懸命呼び止めていたのです。山葉さんだって一緒にいたじゃないですか」
「そういえばそんな気もするな」
彼女は怪訝な表情で思い出そうとするが、その前に僕の言葉が引っかかったようだ。
「黒い影と一緒にと言ったな? あれはそこに存在しているが、人のような動きはしないはずだ。何か別のものを見間違えたのではないのか。さもなければ、本当に「ただの夢」だったという落ちもあり得るし」
山葉さんは首をひねる。
僕も心霊が関わって現実とリンクした夢ではなく、ただの夢である可能性があることは、考えていた。
「そうかもしれませんね。黒い影がお面を外すと彼女の母親の顔をしていたので、僕も夢かもしれないという気がします」
山葉さんは僕の言葉を反芻するように考えていたが、やがて興味を無くしたようにつぶやいた。
「やっぱりただの夢だよ。寝よう」
彼女は僕に背を向ける格好で枕に頭を沈めると、一分も経たないうちに寝息を立て始めた。
ベッドのヘッドボードにある時計は午前3時を示している。僕は彼女にタオル地のブランケットをかけてやると自分もその端に潜り込むようにしてもう一度眠りについた。
翌朝、僕は山葉さんと一緒に朝からカフェの仕事に精を出した。
彼女が店内を切り盛りしている間に、僕はランチメニューのナスとキノコのカレーの仕込みをする。
最近は調理を任されることが多いので、もはや自分がプロの料理人のような気がする。
いつも忙しいランチタイムの喧騒がほぼ終わる頃に、細川オーナーが店に現れた
「おかえりなさい、細川さん。具合は良くなりましたか」
「おかげさまで、長い間休んで迷惑をおかけました」
細川さんは元気そうな笑顔を浮かべて見せる。
「明日は定休日だから休み明けから仕事を始められますか」
「いいえ、リハビリもかねて今日から少しづつ始めてみるわ。何もしなかいとかえって体がなまってしまいそうなの」
彼女の様子を見て、山葉さんは意味ありげに僕に目配せして見せる。何はともあれ、細川オーナーの復活はうれしいのだろう。
細川オーナーが加わったので、僕がランチタイムの食器の片づけを始めていると美咲嬢と黒崎氏のコンビが現れた。
僕がオーダーを取りに行くと、美咲嬢はいつになく神妙な表情で僕に告げる。
「内村さんが例の金庫を開けてくださったので、泉さんが喜んでいましたわ。お礼を申し上げます」
「喜んでくれたならよかったです。彼女はあれから意識を取りもどしたのですね。」
僕はオーダーそっちのけで彼女に尋ねる。僕の横では山葉さんも来て聞き耳を立てている。
美咲嬢は少し間をおいて、僕たちに告げた
「実は、脳死移植のドナーが現れました。体格や適合性の情報を精査した結果レシピエントとして泉さんが候補に挙がっています」
僕は思わず息をのんだ。昨夜見た夢で彼女が手術が怖いと言っていたことを思い出したのだ。そして脳死移植のドナーが現れたという事は、ドナー登録していた人が脳死状態となったことに他ならない。
「彼女は手術を受けるのか」
山葉さんが心配そうな表情で尋ねる。
「ええ、今は彼女も手術をすることを承諾して準備に入っています」
美咲嬢は言葉を切ると、僕たちの顔を見た。
「実は泉さんが手術の前にあなた達に遭いたいと言っています。お忙しいと思いますが会ってあげてくれませんかしら」
彼女にしてはずいぶん遠慮がちな頼み方だ。山葉さんはどうしようかと言うように僕の方を見る。
「行ってあげなさい。午後からの仕事量なら私一人で大丈夫よ。」
話を聞いていたらしい細川さんが腕組みをして僕たちに指示したので、僕と山葉さんは急遽、美咲嬢たちに同行することにした。
僕は黒崎氏が運転するセダンに同乗して病院に向かう途中で、ふと思いついて美咲嬢に尋ねる。
「泉さんのお母さんは元気にしているのですか」
僕の言葉を聞いた美咲嬢は僕の隣の席でビクッとして振り返る。
「何故、そんなことをお尋ねになるのかしら」
彼女のリアクションはオーバーアクションに感じられたので、僕は怪訝に思いながら自分が尋ねた理由を説明し始めた。
「昨夜、泉さんが彼女のお母さんにどこか遠くに連れていかれそうになっている夢を見たのです。それで妙に気になってしまって」
夢ネタを大真面目で話すのは何だか気恥ずかしいものだ。
僕が冗談めかして話しているのに美咲嬢は大仰にため息をついた。
「これだから霊感の強い人間は油断ができない」
僕は彼女が何を言おうとしているのか見当がつかない。
美咲嬢は意を決したように言葉を続ける。
「泉ちゃんの脳死肺移植のドナーは彼女のお母さんなのです。そのことは彼女には伝えていません。彼女に手術を同意させるのはただでさえ大変でしたから、絶対にドナーが誰か教えないでください」
助手席に乗っていた山葉さんが驚いた表情で振り返った。
話しながら美咲嬢の容貌に変化が生じていく。大きく開いた目の瞳孔は縦に長く伸び、口は耳まで避け、大きなとがった歯がびっしりと並んでいる。
「教えたら彼女が手術をやめてしまうからですか」
僕は彼女の容貌の変化に驚いて反対側のドアにへばりつくようにしながら尋ねる。
彼女が猫又だという事はうすうす知っていたが、メタモルフォーゼするところを目の当たりにするのは初めてだったのだ。
「そのとおりですわ。これを逃したら彼女が生きているうちにレシピエントの候補に挙がることはありません。是が非でも移植を受けさせる必要があるのです。もしもドナーが彼女のお母さんだという情報を漏らしたら」
「ど、どうするんですか」
「たとえあなた達でも頭からバリバリと食べてしまいますわ」
「そんな話を漏らすわけないでしょ」
僕が言い切ると彼女はいつもの容貌に戻る。
僕は助けを求めるように運転席の黒崎氏を見たが、彼は無言で振り返って瞳孔が縦に開いたネコ科の目で僕を見返した。
「泉さんのお母さんはどうして脳死状態になったのですか?まさか自殺ではないですよね」
僕が気を取り直して尋ねると、美咲嬢は首を振った。
「路上を歩いている時に、スマホを見ながら自転車を運転していた大学生に引っ掛けられて転倒し、頭部を強打。通報と搬送が遅れ、外傷性の脳浮腫の治療が後手に回ったので脳幹部が広範に損傷したのです。回復の見込みはありません」
美咲嬢の代わりに黒崎氏が事務的な口調で状況を説明した。
「なんてことだ」
山葉さんがつぶやく。
「それは、親子だから優先的に移植してくれるのですか」
僕が尋ねると、黒崎氏が答えた。
「建前上は、それはあり得ません。血液型等の適合性や体形、そして移植申請してからの待ち時間を考慮して判断されます。でも、親子だから適合性は近いはずなので、彼女に移植されることになったのでしょうね」
それきり会話も途切れたので遮音性に優れた高級セダンの中は静かになった。
病院に着くと、泉さんは手術室に搬送されようとしていた。彼女の父親が傍らに寄り添っている。
ストレッチャーに横たわる彼女は僕たちに気が付くとシーツの下から手を伸ばした。
「昨夜夢の中で私のことを励ましてくれなかった?」
僕は答えに迷ったが彼女の手を握りながら思い切って言った。
「山葉さんと二人で引き留めに行ったよ。彼女が言った通りだっただろ?頑張って」
泉さんはうなずくと僕の手をしっかりと握り返した。
「ありがとう。私やっぱり生きていたい」
僕が手を離すと、看護師さん達はあわただしく搬送を再開し彼女を運び去る。
ストレッチャーが運び込まれた手術室には手術中のサインが点灯し、手術室前の廊下は静寂に包まれた。
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