第98話 存在しないフロア
僕たちは、雅俊とクラリンが住んでいる賃貸マンションのエントランスの検証から始めた。
「このソファーでウッチーが居眠りしていたわけだな。夢の中でもここと同じ場所だったのか?」
山葉さんがエントランスのスペースを見回して尋ねる。
「そうですよ。現実と夢の境目がわからない感じで、そこの郵便受けのところに田中さんが立っていました」
郵便受けは、フリーで出入りできる建物の玄関口から投函された郵便物を、施錠されたエントランススペースから取り出せる構造だ。
「ここに名前が書いてあればすぐに田中さんの所在が分かるのに」
僕はロッカーのように並んだ郵便ボックスを眺めたが、郵便物の取り出し口には部屋番号だけが刻印されていた。
「防犯のために外側の郵便ボックスにも個人名は書かないように管理会社から言われているの」
クラリンが教えてくれた。確かに、一戸建ての家でも不用意に家族全員の名前を郵便受けに書いてしまうと家族構成を第三者に知られてしまうので危険だと聞いたことがある。
安全に生活するためには、居住者の氏名が外部に漏れないようにする必要があるのだ。
「勝手に郵便箱を開けたりしたら、防犯カメラで見ている警備員が飛んできそうな気がする。郵便箱はあきらめてウッチーが田中さんを追いかけていったフロアが何階か確かめてみよう。」
山葉さんに促されて、僕は夢の記憶をたどる。
「こっちに続いている通路からエレベーターに乗ったと思います」
僕が指で示すとクラリンは怪訝な顔をした。
「ウッチー、そっちには通路なんかないで、見てみ」
彼女が言う通り、僕が示した方向は壁になっていた。雅俊たちの部屋から降りてくるエレベーターは逆の方向にある。
「所詮は夢だから現実とはリンクしていないのかな」
僕はすでに諦めモードに入っているが、その横で山葉さんはまだ粘ろうとしていた。
「クラリン、このビルの管理会社の電話番号を教えてくれ」
クラリンはスマホの電話帳から、管理会社の連絡先を呼び出した。
「これがそうですけど」
クラリンが電話番号を呼び出した画面を見せると、山葉さんはさっそく管理会社に通話を始めた。
「もしもし、トモヨコーポレーションさんですかですか私は東村と申しますが、メロウ下北沢にお住まいの田中芳江さんの部屋番号を教えていただけないでしょうか。」
管理会社にかまをかけて田中さんの部屋番号を聞き出すつもりのようだ。
彼女の通話に聞き耳を立てている僕の腕をクラリンがつついた。
「ウッチー、最近ちょっと変わったハエを見かけるんやけど」
「ハエ?」
語尾を上げて聞き返した僕をクラリンが肘で突いた。ダジャレと思われたようだ。
関西出身の彼女はつまらないダジャレには厳しい
「ほらここにもいるやろ。普段見かけるハエとちょっと違うと思うんやけど」
郵便ボックスの上側の壁は一部がアクリルボードになって玄関側が覗けるようになっている。
そのアクリルボード部分にハエが止まっている。僕の記憶ではハエのボディーカラーは黒だったと思うが、そのハエは全身が緑色っぽい金属光沢だった。
「本当だ。ハエってもっと黒っぽい色だったと思うけど」
「そうやろ、最近エレベーターの中やこの場所でこのタイプのハエを見かけるのよね」
海外から未知の種類が侵入したのだろうか?。クラリンと一緒に薄気味悪く思いながらハエを見つめていると、先ほどから通話を続けている山葉さんの声がひときわ高くなった。
「え?、郵便物を拾ったのならお宅の事務所まで持ってこい?。いやそんな面倒くさいことしなくてもあなたが田中さんの部屋番号を教えてくれたら、私がその番号のポストに入れておけばいいでしょう?」
思ったように話が進まないので、山葉さんには珍しく声が大きくなったようだ。
「携帯の番号が東村の番号と違うって?。いや私は決して怪しいものではないから」
管理事務所の人はまだ何か話しているようだったが、山葉さんは業を煮やしてプチッと通話を切った。
「融通の利かない人だ」
いや、あなたのしていることは十分怪しいぞ。僕は心の中で山葉さんに突っ込んだがあえて口には出さない。
「まあ、いいや。田中芳江さんが実在の人物だということはこれで確かめられた」
山葉さんは満足げにつぶやいた。
「なんでそんなことがわかるんですか」
クラリンが首をかしげながら訊く。
「それはね、実在しない人だったらそんな住人はいませんですむ話だろ?。ここまで抵抗して情報提供を拒むということは、その名前の人物が実在するということだ」
「あ、なるほど!」
クラリンと山葉さんの会話を聞き流しながら、僕はふらふらと歩いていた。
さっき、クラリンにそこは壁しかないと指摘された場所に通路が見えていたからだ。
やっぱり通路はあったのではないか。その中に進むと、そこはやはりエレベーターホールだった。
扉が開いた状態のエレベーターに誘われるように乗り込むと、それは僕が行先の階を指定していないのに勝手に扉を閉めて動き出した。
「しまった。山葉さんとクラリンを呼べばよかった」
振り返ったが、すでにエレベーターは動き始めている。
僕はエレベーターの扉に向き直ったが、その扉には数匹のハエが止まっていた。
先ほどクラリンと話をした緑がかった金属光沢をもつハエだ。
「こんなにたくさんいるのか?」
ハエごときにビビるわけではないが少し気味が悪い。
エレベーターは四階で止まった。僕はとりあえずエレベーターを降りると、そのフロアの様子をうかがってみた。
当たり前だが、雅俊たちが住んでいる階と同じ配置だ。エレベーターの前から続く通路に沿って、各部屋の入口ドアが並んでいる。
建物北側に通路と入り口ドアが配置され、南側はベランダになるよく見かける構造だ。
僕は通路の奥まで見ようと歩き始めた。さり気なく、各部屋の様子を見てみようと思ったのだ。
「あら、この間葉書を拾ってくれた方ね」
僕は背後から声をかけられて立ち止まった。
そこには田中さんが立っていた。
外出着で日傘も持っている。日中から出かけていて、今戻ってきたような雰囲気だ。
「こんばんわ」
僕は挨拶を返したものの本人に鉢合わせするとは思っていなかったのでどぎまぎしていた。
「今日もお友達のところに来たのかしら」
「ええ、そんなところです」
彼女は笑顔を浮かべて僕に言う。
「差支えがなかったら私の部屋で何か冷たい飲み物でもあげようかしら」
迷い込んできた小学生みたいな扱われ方だが、僕はうなずいた。とりあえず彼女の情報を得たかったからだ。
彼女が先に立って部屋のドアを開けた時、何か黒い影が彼女の部屋から漂い出たような気がした。
「どうしたんだウッチー」
山葉さんに声をかけられて、僕は我に返った。
そこはマンションのエントランスルームで、僕は壁すれすれに立って壁を見つめているところだった。
「あれ?」
先ほどと何も変わっておらず、通路など跡形もなかった。
「クラリン、そのハエはキンバエと言って別に珍しいものではないよ」
山葉さんはクラリンにハエの説明をしている。
「食性の問題で、都会では残飯などを好むイエバエが多いだけだ。キンバエは肉食性が強いから比較的見る機会が少なくなるのだな」
「肉食性が強いってどういうことですか」
クラリンは真面目に質問する。
「このマンションの外構の植え込みにネズミみたいな小動物の死体があってそこに涌いている可能性がある」
「うえ、雅俊が同じハエを捕まえてジャム瓶に入れていたけどあのビンごと捨てよう」
クラリンのハエに対する関心は一気に引いたようだ。
「山葉さん、なんでハエのことに詳しいんですか」
「ハエだけではなくて昆虫全般が守備範囲だ。高校生のころ科学部に入っていたので人は私を虫愛ずる姫君と呼んだものだ」
それはストレートな誉め言葉ではなかったのではないかなと僕は思ったが、今はそれどころではない。
「今、僕は何をしていました」
僕が訊ねると、二人は怪訝な顔をして見返した。
「何をって、壁に向かってじっと立っているからどうしたんだろうと思って声をかけたんだ」
僕は全身に冷たい汗が浮いてくるのを感じた。
「僕はここに、この前見たのと同じ通路が見えたので入ってみたんです。そこでエレベーターに乗って四階まで行ったら、田中さんに会ったんですよ」
「なんですと?」
山葉さんの顔色が変わった。
「田中さんとは何か話したのか?」
「何か冷たいものでもあげようといって部屋に案内してくれたのですが、彼女がドアを開けたところで、山葉さんが声をかけてくれたので、我に返ったのです」
山葉さんは眉間にしわを寄せて周囲を見回す。
「駄目じゃないかウッチー。知らない人の部屋についていったら何をされるかわからないよ」
何だかここでも子供扱いされているみたいだが、拘泥している余裕はない。
「そう言えば、彼女がドアを開けた時に何か黒いものが漂い出てきたような気がします」
クラリンが片手で口を押えた。
「エレベーターが止まったのは何階だったか覚えているか?」
「四階でしたよ」
僕が答えると、山葉さんは勢い込んで言った。
「とりあえず、本物のエレベーターで四階まで行ってみよう」
彼女はエントランスから、本物のエレベーターホールに向かって歩きかけていたが、クラリンは言いずらそうに告げた。
「山葉さんこのマンション三階までしかありませんよ」
山葉さんの足が止まった。居心地の悪い沈黙が僕たち三人を包む。
しばらくして、山葉さんが沈黙を破った。
「こうなったら、ウッチーの夢の記憶を頼りに小諸市まで行ってみよう」
「でも、どうやって行くんですか」
山葉さんはしばらく考えていた。
「カフェ青葉は水曜日が定休日だ。私が火曜日の午後から休みをもらって、ウッチーと二人でバイクで行くことにしよう。二時間半も走れば着くはずだ」
ちょっとしたツーリングだ。
「それじゃあ、火曜日の午後は私と雅俊がアルバイトでカバーしましょうか」
クラリンは何故かニヤニヤしながら言った。
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