翼あるものは沈黙のうちに集う

第97話 舞い落ちた葉書

その日、僕たちはささやかなパーティーを開くことになっていた。

大学の前期末試験の打ち上げである。

夕方にアルバイトを入れていた僕は、山葉さんと一緒に雅俊のアパートにお呼ばれする形になった。

バイト先のカフェ青葉から夜の市街地を歩きながら山葉さんはつぶやく。

「大学の試験の打ち上げなのに私も一緒に行って良いものなのか?」

「いいんですよ。何かにかこつけて飲みたいだけですから」

律儀な山葉さんは僕の言葉を聞いてどうにか納得した。学生の集まりに水を差さないか心配していたのだ。

日中が真夏日だっただけに、夜になっても空気は蒸し暑く、時刻は午後九時を回っている。僕は先日の深夜に、お店にいたずらをされた時のことを思い出す。

「今夜は怪しい気配がなくて、平穏な雰囲気ですね」

「背筋が寒くなるより蒸し暑いほうがましだね。そう何時も物の怪が跳梁しては身が持たないよ」

彼女は苦笑する。怪しげな気配にうろうろされるよりは、蒸し暑くても平和なほうが良いに違いなかった。

雅俊はカフェ青葉から徒歩10分ほどの場所でクラリンとルームシェアしている。僕たちが訊ねると二人は料理をセットアップして待ち構えていた。

「いらっしゃい。ウッチーたちもお店の賄い食べてくるやろうと思って軽めに作ったんやけど」

クラリンが勧める料理はローストビーフにマッシュポテトを添えたお皿で、クレソンとベビーリーフのサラダが飾ってある。その横にはバゲットとピンク色のディップが並んでいる。

「クラリンも料理の腕を上げたんだね。すごくおいしそうだし、軽めといいながら結構ボリュームもあるけど」

山葉さんがほめている横で、雅俊はスパークリングワインを開けようとしていた。

「ごめんな。二人で料理作りながらつまみ食いして先に飲んでいたけど」

「食いしん坊の君に今まで待っていろというのも無理な話だよな」

僕が応えると雅俊は笑う。

僕たちは同じお店でアルバイトしていて山葉さんもお店のスタッフなので、仕事のシフトの関係で四人同時に飲食をすることはあまりない。

雅俊が試験の打ち上げを口実に皆で集まろうと言い出したのだ。

スパークリングワインで乾杯した僕たちはちょっと遅い時間の打ち上げパーティを始めた。

「このディップ、明太子が使ってあるけどさっぱりして美味しいね」

「バターとかクリームチーズだと重く感じるからサワークリームと明太子を合わせてみたんです」

山葉さんがスパークリングワインのグラスを片手に、ディップをこてこてに塗ったバゲットをかじりながら感想を漏らすと、クラリンは嬉しそうにほほ笑む。

「ウッチー、来年の年度末には就職活動の企業側アナウンスが解禁になるやろ。今年のうちからインターンシップに行く予定とかあるか?」

雅俊が唐突に真面目な話を振ってきたので僕はどぎまぎした。就職したい企業があって、そこがインターンシップを実施していれば、参加しておくに越したことはない。

しかし、僕には別の思惑があった。

「実は俺はゼミに残って大学院に進学しようかと思っているんだ」

「え?お前親に学費を出してもらうのが申し訳ないから4年で卒業するって言ってなかった?」

雅俊はローストビーフを切る手を止めて僕の顔を見つめた。

「うん。そう思っていたけどアルバイトをがんばったら授業料の大半は自分で払えそうな気がしてきたから、修士過程まで行ってみようかと思っている」

「そうか、俺の第一志望の会社はインターンシップやらないらしいから、ウッチーから情報を仕入れてどこかに潜り込もうかと思っていたのに」

雅俊はスパークリング用の背の高いグラスを持ったままため息をついた。

就職活動の解禁日は年によって変動する。僕たちが4回生になった年に就職活動が4月解禁になれば、来年の今頃は既に趨勢は決まっているかもしれないのだ。

僕が黙っていると雅俊は細かい泡の立ったスパークリングワインをあおって言葉をついだ。

「ウッチーは栗田助教授とも仲がいいから教授のラインを引き継いで研究室に残るかもしれないもんな。このゆとり教育的モラトリアム野郎め」

雅俊の言葉はボキャブラリーが豊富過ぎて時に難解だ。

「お前の言葉ってじっくり考えていると後からムカッとすることがあるな」

「友よそうやって理解してくれるのは君ぐらいのものだ」

雅俊は他人事のようにいなすと僕のグラスにスパークリングワインを注いだ。

放っておけば宴は明け方まで続きそうだったが、山葉さんは翌朝の仕事がある。僕たちは十二時にお開きにすることにした。

「ウッチー、私は少し片づけを手伝うから先にエントランスまで下りていてくれ」

山葉さんは腰を上げながら僕に告げた。

「僕も手伝いましょうか」

「大勢いすぎてもかえって邪魔だよ」

彼女はひらひらと手を振って見せる。僕は言われたとおりに先に雅俊たちの部屋を出ることにした。

二人が使った食材やお酒の代金の割り勘を分を払っていると、雅俊がニヤニヤしながら言う。

「終電を気にしなくてもよくなったからいいね」

僕は照れ笑いをして手を振って別れた。

僕はマンションの一回まで下りるとエントランスにある質素なソファーで待つことにした。

そこはマンションに入るための認証キーが付いた扉の内側にあるちょっとしたスペースで、郵便物等の取り出し口もある。

ソファーに座って一息ついた僕は、すぐ横に人の気配を感じてぎょっとした。別に声を出した覚えはないが、その人は僕が驚いたことに気づいたようだ。

「あらごめんなさいね。郵便物が気になって見に来ていただけで驚かすつもりはなかったのよ」

六十歳前後に見える老婦人は銀髪を短くまとめていて、涼しげな部屋着姿で僕に会釈した。

僕も会釈を返すと老婦人は微笑を浮かべてエレベーターに乗る。

しかし、僕はその人が落としたらしい葉書がふわりと床に落ちるのを見た。

僕は慌てて葉書を拾うと老婦人を追って、エレベーターに乗る。

「葉書を落としましたよ」

僕が老婦人に葉書を渡そうとしている背後でエレベーターのドアは閉じた。

「しまった」

エレベーターが動き始めてしまったので、彼女がエレベーターを降りる階まで行かないと再び戻ることはできない。

「ごめんなさいね。誰かと待ち合わせだったのかしら」

「ええ、友達の部屋に遊びに来ていて、連れが出てくるのを待っていたのです」

連れという自分の言葉がなんとなくこそばゆく感じる。僕は山葉さんと行き違いになって彼女が先に帰ってしまうのではないかと心配だった。

「大丈夫よ。ここはエレベーターは一台しかないから行き違いになる心配はないわ」

僕の考えを察したような彼女の言葉に、僕は少し安堵した。

僕が彼女に渡そうとした葉書は、裏面の半分が写真になっていて、小さな女の子の写真が印刷されていた。

「それは私のひ孫の写真。可愛いでしょう」

写真の女の子は一歳くらいだろうか。カメラに向かって困ったような表情をしているのが妙にかわいらしい。

葉書を彼女に渡す前に、僕の目は葉書の下半分に吸い寄せられた。「死」という文字が目に入ったからだ。

人の葉書だと思いながら目は文面を追う。それは送金を依頼する内容で、お金が来なければこの子は虐待で死ぬかもしれないとほのめかしていた。

僕は、老婦人が葉書を見ている自分をじっと見ていることに気が付いた。

「すいません。つい目に入ってしまって」

葉書を渡しながら謝ると、老婦人はため息をついた。

「かまいませんよ。私はできることならその子を引き取りたいのだけど、そう簡単にはいかなくて」

はがきのあて名は田中芳江となっていたのでおそらく彼女の名前だ。差出人は林美恵となっていて長野県小諸市の住所が記されていた。

芳江さんが郵便物を持ってエレベーターから出るのを見送っていると、僕は手荒く揺り起こされた。

「ウッチー、こんなところで寝入ってはだめだ、うちに帰ろう」

山葉さんが僕の肩をつかんでゆすっている。周囲を見回すと雅俊のマンションのエントランスだ。

ソファーに座って山葉さんを待つうちに、酔った僕がうたた寝していた図だ。

「あれ、今のは夢だったのかな」

「何を寝ぼけているんだ」

山葉さんが苦笑する。

僕たちは連れだってエントランスを出た。

山葉さんはカフェ青葉の2階の住居部分に住んでいる。最近彼女と付き合い始めた僕は頻繁に彼女の部屋にお泊りしていた。

家の両親には雅俊の部屋で一緒に試験勉強するとかレポート書いているとか言ってごまかしていたが、そろそろ別の理由を考えなければならない。

バイト先が仮眠所を作ってくれたぐらいが妥当だろうか。

僕がとりとめもないことを考えて歩いていると、山葉さんが訊ねた。

「さっき、うたた寝しているときに夢を見ていたのか」

僕の頭に夢の記憶が甦ってきた。

「ええ、あのマンションに住んでいるお年寄りが郵便物を取りに来て、葉書を一枚落として行ったたから追いかけて渡しているところだったんです」

「やけにリアルな夢だな。葉書の内容は見たのか」

僕の足が止まった。

「そうだ、葉書の半分がその人のひ孫だという女の子の写真だったのですが、文面がそのおばあさんに送金を依頼していて、お金が来ないとその子が虐待で死ぬかもしれないとほのめかしていたんです」

「ほう、それは面妖だな。差出人の住所とその人の名前は思い出せるか」

僕は夢の中の最後のシーンを思い浮かべた。

「受取人のおばあさんが田中芳江さん、差出人が林さんで小諸市の住所が書いてありましたね。小諸って山梨県でしたっけ」

「長野県だよ。軽井沢の近くだったと思う」

深夜の市街地を歩きながら、うたた寝している間に見た夢の話をするのも浮世離れした感じがする。しかし、その内容は妙に気になるものだった。

「実はさっき、エレベーターを降りた時に妙な気配を感じたのだ。この前遭遇したような悪意の塊のようなものではないが、少なくとも現身のものではない。今度時間があるときに調べてみようか」

僕はうなずいた。人の五感以外の感覚がとらえるものも蔑ろにできないということは彼女と共に遭遇した様々な経験から学んだことだ。

翌日以降は僕が実家に帰ったり、バイトのシフトが合わなかったりで彼女と一緒に出かけることができたのは数日後のことだった。

あらかじめ連絡してあったので、クラリンがマンションのエントランスまで出迎えてくれた。

さしあたってすることは、僕が夢で見た田中芳江さんが実際に住んでいるかを確認することだ。

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