第93話 フライパンの威力

その男は明らかに美咲嬢たちがいるテーブルを目指していた。

黒崎氏と美咲嬢が立ち上がって対峙しているが二人とも素手だ。

僕は何か武器になるものはないかと思って周囲を見回し、レンジに置いてあったフライパンが目に留まった。

勢いでフライパンを手に取ったものの、これで牛刀を持った男に太刀打ちできるのか何となく不安だ。

その時、僕の背後から大きな声が響いた。

「ウッチー、そいつを投げつけろ」

声の主は雅俊だった。

「投げつけるってどうやって?」

「テニスのサービスの要領で投げるんだ、早く」

雅俊がテニスに例えたのは、僕と彼が大学の体育の授業で、テニスを取っているからだ。ちなみに僕のテニスの腕前は決して上手ではない。

試合形式で練習するときも、ファーストサービスはよく外すし、セカンドサービスを慎重にアンダーから入れようとして、それも外す始末だ。

それでも、僕は雅俊に言われたままにフライパンを右手に持つと、背中に背負った形から頭上に振り上げて、力いっぱい投げ飛ばした。

フライパンは緩やかな弧を描いて、縦にとんぼ返りをするように回転しながら、牛刀を持った男に飛んでいく。

男は、牛刀を持った手でフライパンを受けようとしたが、至近距離にいた黒崎氏は男に生じた一瞬のスキを見逃さなかった。

黒崎氏は瞬時に牛刀を持った男との間合いを詰めると、懐から出した黒い物体を男に押し付けた。

それはスタンガンだった。

僕は以前スタンガンで襲撃された経験があるので、その時の痛みを思い出した。

男は牛刀を取り落とすと少しよろける。同時に、男が払いのけたフライパンが床に落ちて大きな音を立てた。

黒崎氏は情け容赦なくスタンガンをもう一度男に押し付け、男は耐えきれずに床に崩れ落ちた。

黒崎氏は男の右腕を後ろ手にねじ上げたうえで、男の背中を足で踏んで抑えつけた。

「内村さん何か縛るものをください」

黒崎氏の要請に僕はカウンターの中に手ごろなものがないか見回した。あいにくとロープ系のものは見当たらない。カウンターの足元に雑多な道具を入れたコンテナがあることを思い出して探すと、ガムテープが目に入った。

ガムテープを取り出してから自分の顔の高さに掲げて見せると黒崎氏はうなずく。僕はカウンターから出て、黒崎氏にガムテープを渡した。

黒崎氏は男の両手を後ろ手にしてガムテープでしっかり止めると、次に足首もガムテープで縛った。

男は身動きできない状態で床に転がされた格好だ

僕と雅俊が、黒崎氏が取り押さえた男を覗き込むと。男は口から泡を吹きながら何かぶつぶつとつぶやいていた。

「この男、傀儡ですわ」

美咲嬢が一言解説したが、僕にはそれが形而上的な意味合いなのか、もっと即物的な意味で言っているのか判断できなかった。

僕は男が落とした牛刀を拾い上げようとすると、山葉さんが制止する。

「ウッチー、それに触ってはいけない。証拠品として使われるかもしれないからそのままにしてくれ」

僕は牛刀を拾い上げようと伸ばした手を止め、所在なく佇んだ。

やがて、通報を受けた警察が数台のパトカーで駆け付け、男をパトカーに収容して連行していった。

さらに、警官のうち2名はカフェ青葉に居残って、僕たちから事情を聴く。

「以前から警察にも相談していましたが、此方の岡村静江さんが森羅正教から脱退しようとしているのを、教団側が引き留めようとしていましたの。今回の事件は教団側が、引き留めることをあきらめて口を封じにかかったのかもしれませんわ」

警察官は美咲嬢の言葉をメモをしながら聞いていたが、一区切りついたところで彼女に向かって訊ねた。

「先ほどの男が、教団の男だという証拠はありますか」

僕たちは顔を見合わせて各自が首を振った。男は終始無言だったため教団の関与をほのめかす言葉は一切口にしていなかったからだ

「あの男は、傷害と殺人未遂の現行犯で逮捕しました。いずれ提訴されると思いますが、確証のないことは口外しないでください」

美咲嬢がゆっくりとうなずいた。彼女にしては素直なリアクションだ。

警察官は僕にも男が店内に入って来た時の様子を尋ねた。

「目の焦点が合っていない感じで、様子がおかしいと思っていました。オーダーを取る時も受け答えがおかしかったと思います。

僕の証言を書き留めた年かさの方の警察官は、居合わせた面々に説明した。

「被疑者は薬物の使用も疑われるため、現在所轄の方で調べています。詳細がわかりましたら追ってお知らせします」

改めて証言をしてもらう必要があるかもしれないと、僕たち全員が住所と氏名を聞かれた。

警察官達は、固い雰囲気であいさつすると表に止めてあった、もう一台のパトカーで帰っていった。

店の外には野次馬が集まってきていたが、遠巻きにしてみているだけで店内にまでは入ってこない。

開店休業状態となってしまったので、僕たちは美咲嬢の顧客の岡村さんを取り囲んでテーブルに座った。

「怖かった。あいつ私のことを殺そうと思ってここに来たのかしら」

岡村さんは青ざめた顔で話している。

「多分そうです。日本の法律では薬物等で心神喪失状態の時に犯行を行った場合は刑が軽くなる傾向があるから恐ろしいことですわ」

美咲嬢は肩をすくめて見せた。

山葉さんは頬杖をついて考え込んでいたがやがて口を開いた。

「もしよかったら、森羅正教に入信した経緯や、なぜ脱退する気になったか話してもらえませんか」

岡村さんはため息をついてから、話し始めた。多分、美咲嬢たちにも何度も話した内容なのだろう。

「私は、城南大学の二年生なんです。一年生の時に大学に入ってから知り合った友達の恵に誘われて、サークルめぐりとかしたんですけど、恵みが気に入った男の子がいるからと言って何回か行き始めたグループが森羅正教だったんです」

それ自体はよくある話だった。

「最初はスポーツ大会とかハイキングに参加して楽しかったんだけど、そのうちに恵が教団に入信すると言い出して私も付き合わされるみたいになったんです。洗礼の儀式とかがあって、その後で聖杯っていう大きな盃に入った液体を飲まされたんです。そしたら何だか頭がぼうっとなって来たんですよね」

僕と雅俊は顔を見合わせた。その教団は大学でときどき見かけるとは言っても内実は知らない。

「教団の教義を詠唱させられた後で、突然教祖様のご子息の優秀な遺伝子を存続させるために協力してくれみたいなことを言われたんです。でもその後で登場した教祖様のご子息というのが、ちょっと生理的に受け付けられないタイプだったので、私は逃げてきたのです」

「それではお友達の恵さんはどうなったんですか」

山葉さんが尋ねた。

「彼女はそのまま入信しました。大学では時々見かけるけど私はそれ以来、距離を置くようにしています。だって私まで巻き添えで危ない目にあわされたんですから」

岡村さんは肩をすくめて見せる。

「その後、教団の幹部がたびたび彼女の元を訪ねて、彼女に教団への復帰を促すようになったので、怖くなった彼女が大学の相談室に訴えたのですが、大学側は心理面のフォローが必要と判断したとのことで私どもに紹介されてきたのですわ」

美咲嬢が話を引き継いで説明した。説明している彼女自身が腑に落ちない表情をしている。

「教団側とトラブルになるのが面倒で、あなた方に押し付けたということではないかな」

「恐らくそんなことですわね。オホホホ」

僕は黒崎氏が、本来の業務と異なる飛び込みの案件は迷惑だと言っていたのを思い出した。

笑ってはいるが彼女も同じように感じているに違いない。

「それで、私たちは何を手伝えばいいのだ?」

「今日の男もそうですが、教団から彼女を勧誘に来る人達は皆何かに憑りつかれているようなのです。あなたにそれを見極めて退治してもらいたいと思いますの」

「ほう。憑依した霊を祓うのなら私の仕事だが、意のままに操られている人間をどうやってここまで連れてくるのだ?」

「それは私に任せていただきますわ」

山葉さんが協力する意思を示したので、美咲嬢は満面に笑みを浮かべていた。

美咲嬢たちが引き上げた後、夕方になってから坂田警部補がカフェ青葉に現れた。

「尿検査の結果、覚せい剤反応が出た男が、暴れて取り押さえられたお店というのがここだと気づいて慌てましたよ。誰も怪我はなかったのですか」

坂田警部補は心配になって様子を見に来てくれたのだった。

「あの男は覚せい剤を使っていたのですか」

僕は店に来た時の男の、普通でない様子を思い出してながら聞いた。

「明らかに常習者です。その上、覚せい剤のせいで人格の崩壊が進んでいる。ここで犯行に及んだのも頭の中で聞こえる声に指図されたからだと言い張っているし、うちの署員が聞き取りした資料を見ても、森羅正教が関与してあの男を差し向けたということを立証するのは無理かもしれませんね」

「そんな馬鹿な、前後の経緯で教団が差し向けたと推定できるのに」

山葉さんが、あきれたような声を出したので、坂田警部補は困った顔をする。

「私たちは疑わしいからと言って、捜査に踏み切ることはできないのです。昼間の男は未遂とはいえ少なくとも傷害未遂の現行犯で逮捕立件することができますけどね」

僕は山葉さんと顔を見合わせた。昼間の男からたどって森羅正教の幹部を刑事処罰の対象にすることはできないということなのだ。

「今日はわざわざ来てくださってありがとう。飲み物のお代は私が持つから結構ですよ」

山葉さんが申し出ると、坂田警部補は首を振った。

「いいえ我々警察官はそういった飲食の供与を受けることは禁じられています。カフェラテは美味しかったし私が払いますよ」

彼は相変わらずの堅物だった。

坂田警部は恐喝や暴力が絡む案件が発生したらすぐに連絡するように言い残して去っていった。

「今日は大変な日でしたね。お客も減ってしまったし」

閉店時刻が近くなったころ、僕は細川オーナーに話しかけた。

午後遅くにパトカーが横付けする騒ぎがあって以降は、客足はめっきりと減っていた。

「何かトラブルがあったと聞いたら、安全が確認出来るまではその店から遠ざかることはあるだろうね。仕方がないよ」

細川オーナーはため息をつきながら言う。

僕としても客足が減るのは一日二日のことだと信じたかった。

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