第73話 Porsche 964 Carrera 4
お店を閉めてから僕たちは店の裏側にあるガレージでBMW M3に乗り込んだ。
後部座席に山葉さんと神田さんが座り、ナビシートには僕、そしてドライバーズシートには細川さんが座った。
細川さんは裏通りにM3を乗り入れると、リモコンでガレージのシャッターを閉じる。
M3をゆっくりと流しながら。細川さんは後部座席の2人に聞いた。
「どんなルートで走ったらいい?。」
「昨日ウッチーが走ったコースをたどってみましょう。第3京浜経由で横浜から湾岸線に乗って羽田横を通って辰巳ジャンクションから都心方面に行くコースです。」
細川さんはうなずくとステアリングを切りM3を環状七号線に乗り入れた。
僕は細川さんが信号が変わって発進するときハンドル下のプラスティックのレバーみたいなのを操作しているのに気がついた。
「それってパドルシフトだったんですか?。」
僕は思わず訊ねた。普段山葉さんが使っているのを見た覚えが無かったからだ。
「そうよ。これは七速ATのDCT付きなの。マニュアルのトランスミッションよりもクラッチ操作のタイムロスが少ない分早いのよ」
細川さんはさりげなく説明する。
「山葉さんが使っているのを見たことなかったんですよ」
「悪かったな。私はいつもDモードで乗っているからそれは使っていないんだ。街乗りではそこまでスピードを追求しないからね。この車は見た目は普通のクーペに見えるが、四千CCのV8エンジンを積んでいる。GTRほどではないにしても、型落ちのポルシェなら十分追いつけるスペックだ」
山葉さんが補足した。
僕はこの車がスポーツ仕様なのは知っていたが、そこまで高性能だとは思っていなかったので少し驚いた。
「私はGTRを乗りこなせていないんです。この前も直線では追いつけそうなんだけど他の車をパスしていくときにカレラ4において行かれるので、結局振り切られてしまって」
神田さんが悔しそうに言った。それは無理もないところだ。カレラ4のドライバーの運転が尋常でないのだ。
幽霊ならば、ほかの車が走っていても関係なく突き抜けてしまうはずだが、彼はあくまで自分の車が存在しているかのように他車の隙間を縫って走行していた。
それは彼が自分の死を理解していないからではないかと思わざるを得ない。
細川さんはむやみに飛ばすわけではなく、スムーズな運転で横浜に向かった。そして、いつの間にかジャンクションを経由して湾岸線に乗っている。
「さあ、問題のポルシェはどこにいるの?」
細川さんは日頃、自分だけは幽霊を見たことがないとぼやいていただけに、今日は目的の幽霊ポルシェを見ようと張り切っており、カレラ4を追跡した人に事故や故障が頻発していることなど頓着していないようだ。
「今のところ見当たらないからどこかに隠れてナイトバードが出現するのを待ちましょう」
山葉さんの言葉を聞いて、細川さんは振り返った。
「言ってくれないから大黒パーキングエリアには入りそびれたけど」
「いいんですよ。あそこはパーキングで走行中の車両を見つけてから飛び出しても追いつけないから。代わりに川崎浮島ジャンクションの辺りで、走行車線脇に広いスペースがあるところに車を寄せて見張っていることにしましょう」
「本線の脇にそんなスペースがあるのかねえ」
細川さんはぶつぶつ言いながらも左の車線にM3を寄せた。
結局、川崎浮島ジャンクションのとある場所で僕たちはM3を止めた。
「こんなところに車を止めていたらパトカーに見つかったら怒られますよね」
僕が、昨日の自分を棚に上げて指摘すると山葉さんはのほほんとした調子で答える。
「ドライバーは細川さんだから、走行中に妊娠中の娘が気分が悪くなったので緊急停車したと答えてもらおう」
「私をだしに使うんですか」
神田さんがクスクスと笑い、その横で細川さんは眉間にしわを寄せて走行車線の後ろの方をにらんでいる。
「こんなかわいい娘がいれば結構だけどね。私は問題のポルシェが見えなかったらショックだよ」
彼女にしてみれば、自分が占いで身を立ててきた自負があるのに、霊視ができないことを妙にひけめに感じているのだ。
「細川さん、スタートダッシュもセミオートマで行きますか」
山葉さんが聞くと、細川さんは首を振った。
「スタートはローンチスタートモードにしておいて、本線を追尾し始めたらセミオートマに切り替えるつもりよ。ローンチスタートモードなら時速百キロメートルに達するまで5秒もかからないからね。」
その数字は、スタートダッシュが得意な400CCバイクよりも早い。
しかし、神田さんは加速性能や最高速度ではカレラ4を圧倒できるはずのGTRを使っても、追いつけなかったのだから、結局はドライバーの腕次第ということだろうか。
本線を次々と通過する車を眺めるうちに時間は過ぎていき、山葉さんが車内の沈黙を破った。
「神田さんのお家は吉祥寺と聞きましたけど、一樹さんが湾岸道路から、向島方面に向かって走る理由というのは思い当たりませんか」
神田さんは少し間をおいて答えた。
「一樹は港南台に住んでいました。向島には私の実家があります。二年前、一樹が死んだときは、私はまだ向島の実家に住んでいたのです。あなたが言っているルートは、彼が私の家に来るときのルートだったのかもしれません」
彼が事故を起こしたのも、向島インターの辺りだったと聞いた覚えがあった。
「それなら、彼はあなたと仲直りしようとして向島に向かっていたのかもしれない。追いついて謝るのではなくて、彼にあなたの顔を見せてあげることが供養になると思いますよ。私も頑張らないといけないね」
細川さんは穏やかな口調の中に決意をにじませていた。
山葉さんが足元にも及ばないと言う彼女のドライビングテクニックとはいったいどれほどのものなのだろうと考えると同時に、今夜無事に帰れるかのかという危惧を感じるが、僕はこの結末を見ないではいられなかった。
しかし、神田さんの思いはもっと深いものだった。
「本当にそう思いますか。私が些細なことでなじったせいで彼が事故を起こして死んだような気がしてずっと気が咎めていたのです。今の旦那と結婚して、もうすぐ子供ができるのにそのことがどうしても頭から離れなくて」
首都高速湾岸線を次々に通過していく車両を見ながら神田さんがつぶやく。
「事故は不可抗力で起きたのだから、自分を責めてはいけません。死んだ人も浮かばれませんよ」
山葉さんが諭すように言った。
「でも、ナイトバードを追いかけて事故を起こしたり、車が壊れた人がたくさんいるのでしょう。私は彼が怒っているような気がしてならないのです」
一見、屈託がなさそうな彼女はずいぶん悩んでいたようだ。
「うーんそうだな。例えばスノボとかスキーのスタープレーヤーがスキー場を滑ると、その後で見ていたギャラリーが一斉に滑り始めてこけたり互いにぶつかったりすることがあるのですが、一樹さんのカレラ4を見たドライバーにも同じ現象が起きているのかもしれませんね。ここにその実例がいるわけですし。」
山葉さんは僕を指さしていた。
「そんな間抜けな話の実例にしないでくださいよ」
僕が抗議すると山葉さんは素の笑顔で笑っている。
神田さんもつられて笑顔を浮かべた。
その時、僕は眉間の辺りが冷たくなるような感覚を覚えて、慌てて後ろを振り返った。山葉さんもテールウインドウ越しに後方の車線を見ていた。
「来た!」
山葉さんの声に、細川さんは弾かれたようにパーキングブレーキを解除した。
「どこ?どこにいるの?」
細川さんに見えているだろうか。僕が近づいてくるカレラ4を凝視していると、山葉さんが叫んだ。
「今、大型バスとトレーラーが二台連なっているのを追い越し車線からパスしています。」
「見えた!」
細川さんはM3をフル加速で発進させ、後ろを覗き込んでいた僕は変な姿勢でシートに押し付けられて息が詰まりそうだ。
どうにか姿勢を変えて運転席を見ると、タコメーターはシフトアップのたびに八千回転辺りまで振れている。
瞬時に本線の車の流れに割り込んだM3の横を白い車影がすり抜けていく。
しかし、細川さんはさらに加速して白いカレラ4の後ろに張り付いていた。
甲高い排気音とともにM3はさらに加速する。
細川さんは羽田空港や東海ジャンクションで合流した車の間を右に左にとかわすカレラ4に遅れを取らずに張り付いている。
そして僕がエンジントラブルに見舞われたトンネルを超えたあたりでカレラ4の横に並んだ。
「細川さん、やつは箱崎方面に行く気だ」
山葉さんの声と同時にM3はつんのめるようなブレーキングに入った。細川さんがパドルシフトでシフトダウンするのに合わせてバンバンとエンジン回転が上がる。
カレラ4とM3はもつれあうように辰巳ジャンクションに入った。M3はブレーキングしながらステリングを切ったせいでテールが流れたが細川さんはカウンターステアで立て直す。もしかしたらわざとやっているのかもしれないが彼女の真意はわからない。
深川線の本線までの通路はパーキングエリアからの合流もある。低速で走行している車両に追突したらとおもうと僕は背中に冷たい汗が流れた。
深川線の本線に入る時も、二台はゼブラゾーンを使ってカウンターを当てながら立ち上がっていく。
深川線を都心方面に走ると、高速道路にしては急なカーブも多い。
カレラ4を追う細川さんのドライビングはもう僕の理解が及ばない域になっていた。
目の前を高速道路の擁壁が横向きに流れて行き、気が付くとカレラ4のテールが迫ってくる。
「細川さんカレラ4にぶつけるつもりでラインをクロスさせて!」
山葉さんの指示に細川さんは反応した。
アウトインアウトのラインを取ろうとするカレラ4に対して早めにブレーキングして方向を変えたM3はインベタからアウトに膨らむラインでカレラ4と交差した。
カレラ4の姿とM3の車体が重なったとき僕の周囲は白い光に包まれていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます