大江戸物語
第58話 山葉の恋
カフェ青葉のカウンターで、山葉さんは最近買い換えたペーパードリップ専用の白いケトルでコーヒーを淹れていた。
ふくらんだコーヒーの粉に彼女がお湯を注ぐと、いい香りがふわりと広がっていった。
仕事中はポニーテールしている彼女の後ろ姿が、お湯を注ぐ動作と共にリズミカルに動いている。
新しいケトルを買った時に、注ぎ口が細長くて湾曲しているから傾け方でお湯の量が調節できると自慢げに話していた彼女の顔を思い出した。
最近、彼女は何だか楽しそうだが、その傍らで僕は浮かない顔をして食器を洗っていた。
「ウッチー。こっちのトレーもよろしく。私はそろそろ上がるわ」
一緒にアルバイトをしているクラリンがテーブル席から回収した食器を持ってきた。エプロンをはずしてお店のバックヤードに引っ込もうとしていた彼女は、戸口で立ち止まると僕を手招きする。
シンクの脇に下げたタオルで手を拭き、僕が近寄っていくと、彼女は低い声で囁いた。
「最近の山葉さんの様子に気がついてるよね。なんとかした方がええのとちがう」
「クラリンもそう思うのか」
「そんなん誰が見ても明らかやん。最近の彼女は恋する乙女の雰囲気を漂わせて、いつもとキャラがちごうてるやん」
クラリンは腕組みをしながら壁によりかかった。僕に説教を始める気配だ。
彼女は神隠し事件以来、ちょっと大人びた感じがしており、もともと口数で負けている僕は太刀打ちできない。
「でも、彼女の気持ちがそちらに向いているなら、今更僕がじたばたしたら余計にみっともないような気がする」
彼女はいつの間にかセミロングの長さになった髪の毛をかき上げて言った。
「自分の気持ちも伝えないで、そんなへたれなことを言っているからあかんのや。山葉さんにしても、何となくその辺にいるだけの人より、足繁く通ってくれる人の方が良いに決まってるやん」
何となく感じていることでも
口に出して言われるとダメージは大きい。
黙り込んだ僕を見て彼女はため息をついた。
「うちの学部でウッチー推し宣言している女子もいるくらい格好ええんやから、もっと自信を持ってアタックしなさいよ」
僕は自分の容姿に自信がない。
クラリンがさらに口を開きかけたとき、お店の入り口のベルが鳴り、最近カフェ青葉に足繁く通って来る人物が現れた。
ディナーの時間帯も終わって店の中は空いているが、彼は真っ直ぐにカウンターに来て座る。
「いらっしゃいませ。坂田さん」
挨拶する山葉さんに坂田警部補は柔和な微笑みを浮かべた。
「こんばんは。カフェラテを下さい」
食器を洗いに戻った僕の横にクラリンがついてきた。帰るのを止めて様子をうかがいに来たらしい。
山葉さんはいそいそとカフェラテを淹れてサーブし、坂田警部補はカップを口に運ぼうとして手を止めた。
山葉さんがラテアートを描いていたらしく、しげしげとカップのぞき込んでいる。
「これって坂本龍馬ですね。どうやったらこんな細かい表現が出来るんですか」
「普通のラテアートは表面と下の方の泡の色の違いを使って描くんですけど、それはココアパウダーも使っているんです」
「芸が細かいんですね」
坂田警部補はもう一度ラテアートを眺めてからカップを口に運んだ。山葉さんが浮かべた笑顔が営業スマイルではなくて彼女の素の笑顔だったので、僕はますます落ち込む。
クラリンが横から僕を突っついたが、僕は力なく首を振った。
「最近よくお見えになりますね」
普段は口数が少ない山葉さんが続けて話しかけた。
「ええ、山葉さんのお世話になった、劇団ミュウの一件が公判が終わって僕の手を離れました。これを機会に私生活の方も区切りをつけようと思っているのです」
意味深な発言だった。
そういえば去年の秋頃、坂田警部補初めて僕らの前に現れた時に、山葉さんのラテアートをちゃんと眺めてから飲んでいたことを思い出した。その頃の僕は、折角ラテアートを書いてやっても、ろくに見ないで飲んでいると、山葉さんに文句を言われていたのだ。
その辺から差が付いてしまったのだろうか。それとも、坂田警部補は彼女にとって年齢が釣り合っているのだろうか。僕はとりとめもなく考えていた。
「今日は山葉さんにお願いしたいことがあるんですよ」
坂田警部補がおもむろに口を開いたので、山葉さんがシャキッと直立したような気がした。
「なんですか」
緊張した雰囲気で尋ねる山葉さん。
坂田警部補が口を開こうとしたとき、お店の入り口のベルが鳴った。
入ってきたのは齋藤奈々子さんだった。
彼女は坂田警部補が口にしていた劇団ミュウの事件の被害者だ。
劇団員が彼女の身を狙っって傷害未遂事件を起こしたあおりで彼女の所属劇団も解散したが、怪我の功名と言うべきか彼女はメジャーな劇団のオーディションに受かり最近は人気が出ている。
彼女も真っ直ぐカウンターに歩いてくると、坂田警部補の隣に座った。
「こんばんはー。私にもカフェラテください」
山葉さんが凝固しているのを見て取ったクラリンが、奈々子さんに水とおしぼりのセットを出した。僕はカフェラテを準備し始めた。
「ねえ例の件、山葉さんに頼んでくれた」
「いや、今頼もうと思っていたところだ」
カウンターに座ってからの距離の取り方と会話の雰囲気だけで二人が親しい仲だとわかる。クラリンはさりげなく聞いた。
「坂田さんと奈々子さんはいつからつきあっているんですか」
「え、いやぼくは」
坂田警部補が口ごもる横で、奈々子さんが口を開いた。
「それが聞いて欲しいのよ。私たち例の事件の後も時々会っていたんだけど、この人は莉子ちゃんの裁判が始まったので事件関係者と必要以上に親しくするわけにはいかないと言って、しばらくの間、私が連絡しても会ってくれなかったの」
坂田警部補は居心地悪そうに黙ったままだ。
「最近になって、彼女に執行猶予付きの判決が出て一区切り付いたからやっと会ってくれるようになったの」
奈々子さんは、坂田警部補の腕をしがみつくように抱えて見せた。
僕は、奈々子さんにカフェラテを出しながら、山葉さんの顔をそっと覗く。
彼女は、けなげにも営業用スマイルを浮かべて言った。
「そうですか。よかったですね」
クラリンも山葉さんの様子を気にしながら話に割り込んだ。
「最近、このお店に坂田さんがよく出没すると思ったら、奈々子さんの舞台がはねるのを待ってはったんですか」
坂田警部補はうなずいた。
「私の舞台が終わるのを待つ間、時間を潰して来るといって姿を消していたことがあったけど、ここに来ていたのね」
「そうなんだ。楽屋で待つのは知らない人ばかりで何となく気詰まりだったもので」
坂田警部補は気まずそうに言った。 奈々子さんは坂田警部補の腕を放すとカフェラテを手に取った。
「山葉さんにお願いしたいのはね。私が仕事の打ち上げで知り合った歌舞伎界のボンのことなの」
彼女はカフェラテを一口飲むと、ふうっと一息ついた。
「歌舞伎界のボンってひょっとして一之助さんですか」
クラリンが聞いた。一之助さんとは歌舞伎界の若手で最近、テレビ番組等にも出演している人だ。
「そうなの。彼は礼儀正しくていい奴なんだけど、お酒の飲み方が駄目なのよね。まるで自らを酔い潰すために飲んでいるみたい。何かに取り憑かれているようで鬼気迫るものがあったわ」
彼女はもう一口カフェラテを飲んでカップを置いた。
「彼がしらふの時にその話をしたら。自分でもそんな気がしているって言うの。飲み方を直していくのはもちろんだけど、一度どこかでお祓いを頼もうと思っていたらしくて」
僕が抱いていた彼のイメージとしては、折り目正しい雰囲気に見えたので少し意外だった。
「それでうちを紹介してくれたのですか」
山葉さんが尋ねた。
「うん。勝手に紹介して申し訳ないんだけど、引き受けてもらえないかしら」
「もちろんいいですよ」
山葉さんは当たり障り無く受け答えしているが、台詞棒読みの雰囲気だった。
「彼はうちの脚本家の先生と知り合いみたいで、さっき劇場で見かけたからこの界隈にいるかもしれない。彼がここに来ると言ったら今からでもお願いできますか」
山葉さんはうなずいた。
「ありがとう。ちょっと電話してみます」
奈々子さんはスマホを持って店の外に出て行った。クラリンは坂田警部補を冷やかし始めた。
「坂田さん隅に置けませんね。生真面目そうな顔して手が早いんだから」
「いや、そんな手が早いなんて訳ではないですよ」
坂田警部補はしどろもどろに答えた。クラリンは帰るつもりだったことを忘れてすっかり居座っていた。顛末を見届けるつもりのようだ。
僕は山葉さんの恋心が空振りに終わったことでほっとしたが、すっきりした気分でもなかった。
彼女が傷付いている感じが伝わってきて喜ぶ気分にはほど遠かったからだ。
しばらくして、奈々子さんは店内に戻ってきた。
「一之助さんに連絡が取れました。すぐに行くから陰陽師さんによろしく言ってくれ。だって」
それを聞いた山葉さんは店のバックヤードに通じるドアにスタスタ歩いていった。そしてドアを開けたところで振り返った。
「祈祷の準備をしてきます」
それだけ言って、彼女はパタンとドアを閉じた。
一瞬の間があった。僕は沈黙に耐えられなくなって口を開いた。
「お酒の飲み方とお祓いというのは関連があるものなんですか」
誰に聞くともなく口にした言葉だった。僕は栗田准教授に山葉さんの調査を頼まれたときに睡眠不足だからお祓いをしてくれと、うその依頼をして、一撃で彼女に見破られた過去があった。
「際限なく飲んでしまう人はアルコール依存症の一症状ですね。体からアルコールが完全に抜けるまで断酒をするのが基本的な対処方法でしょう」
警察官だけに坂田警部補が正論で答えてくれた。
「でも、気持ちの区切りをつけるためにもお祓いとかしてみるのもい良いいことかもしれませんよ」
クラリンの言葉に皆はまあそうだよねという感じでうなずいた。
しばらくすると店のバックヤードに通じるドアが開いて、巫女姿に着替えた山葉さんが顔を出した。
「準備は出来ました。お見えになったら、こちらに通してください」
彼女はそれだけ告げるとまたパタンとドアを閉じた。
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