第57話 潜入工作

たとえ獲物を咥えていても、人が仕掛けた罠など臭跡で容易に気がつくはずだった。

「私としたことが」

独りごちながら、獲物を降ろして脚に食い込んだ罠を子細に眺めてみた。

それは、直径十五センチメートルほどの円盤部分を踏むと、スプリングの力でワイヤーが閉まる仕掛けだった。もちろん仕掛けた時は落ち葉などでカモフラージュされている。

ワイヤーを緩めるためには、ネジを廻して留め具をはずす必要があった。獣を捕える罠の定番だったトラバサミと呼ばれる罠から進化したようだ。

こんなものドライバーさえあればすぐはずせるのにと思ったがそれは自由に動く人の手があればの話だ。キツネの姿の今では、口を使ってねじをはずすことはできない。

ワイヤーをねじ切ってやろうと思ったが、結わえ付けている大きな木との間には撚り戻しが付けてあった。これではねじ切るのは不可能だ。

人の姿に形態を変えようかと思ったが、この数十年に亘って狐の形態をとり続けていたために容易に人の姿を取ることが出来なくなっていることに気が付いた。

仕方がないので、罠を仕掛けた猟師が現れるのを待つことにした。

猟師の意識を操作して罠をはずさせ、その上で記憶を消して立ち去るつもりだ。

方針が決まると、気分も落ち着いてきたので、とりあえず獲物のウサギを平らげた。子供達に食べさせてやれないのが残念だ。

そしてワイヤーで縛られた右脚を眺めながら地面に伏せてじっと待つことにした。

しかし、いつまで経っても猟師は現れず、次第に焦りが募ってきた。

肉食動物は、一ヶ月やそこらは飢えに耐えられる。しかし、それは水があっての話だ。罠に捕らえられて一週間が過ぎると、喉の渇きは限界を超えた。

何故猟師は現れないのだろう。考えているうちに、状況が飲み込めてきた。

この罠は、猟師が仕掛けたまま忘れて放置していたのだ。仕掛けたまま数ヶ月風雨に晒されても日本製の装置は平気で作動する。自分が気がつかなかったのは、風雨に晒されたために、仕掛けた人間の匂いや痕跡が全て消えていたためだったのだ。

今更のように、罠をはずそうともがいたが、もとより獣が暴れたくらいで外れる物ではなかった。

時折、遠くから自分を呼ぶ子供達の声が聞こえたが、呼び声に答えたいのを必死で押さえた。

捕らえられた自分に子供達がまとわりついていると、通りすがりの人間に見つかる可能性が高いからだ。

やがて体の衰弱がひどくなり動けなくなった。

自分が、乾きのために息絶えようとしているのがわかった。千余の歳月を生きてきて最後がこれかと自虐的に考えていたら、下弦の月がうっすらと森の中に差し込んできた。

二十三夜講で月の出を待って人々とさざめいた昔の記憶が蘇ってきた。

これまでに関わった幾多の人々も泡沫のように消えて行き、今は自分の記憶に残るのみだ。

人の世を捨てた時から、自分は生きることに倦んでいたのではないか。生に対する執着は希薄だったが、残してきた子供達のことだけが気がかりだった。

生身の体から命の火が消えた時、あの子達が生きていけるように導いてやらなければという思念だけが取り残されていた。


僕は妖の霊の記憶から唐突に現実に引き戻され、自分の構えた木の棒が薙刀の柄で押し返されたことい気づいた。

僕は慌てて戦う体制に戻った。

妖の記憶を追体験していたのは一瞬のことだったようだ。

「罠にかかって死んだのか」

僕は思わず口走っていた。

追体験した自分としては同情する気持ちが強かった。

目の前に居るのはクラリンに疑いなかったが、キツネの化身のような妖の霊が取り憑いているのだ。

「私の最後を覗き見たのか」

クラリンの目が金色に輝いた。近い間合いで組み合っていた僕は、はじき飛ばされて壁にたたきつけられた。

「それならば話が早い。私の骸のそばをこの娘が通りかかったから、体を借りたのだ。そろそろ解放してあげようかと思っていたが、おまえ達が乗り込んできて余計なことまで知ってしまったからには返すわけにはいかぬ」

僕はかろうじて棒を構えながら立ちあがった。

「どうやって僕たちの前からクラリンの痕跡を消したんだ」

「消したわけではない。憶えていないだろうがおまえ達はこの娘を追いかけてきた。その時に、私が暗示をかけてこの娘にまつわる記憶だけに目隠しをしたのだ」

クラリンは微笑を浮かべてことばを続けた。

「忠行殿の弟子が土御門通りに住んでいたが、彼は陰陽道に長けていた。私も人目を忍んで訪ねては技を教わったものだ」

暗示にかけられただけで実際はパソコンのデータも改変されていなかったのだろうか。しかし、僕には腑に落ちないことがあった。

「そろそろ解放しようとしていたとはどういうことだ」

「私が欲しかったのはこの娘の現代社会の知識だ。既に一年近くに渡ってこの子達に人の社会に潜入するための知識教えることが出来た。本来なら今日辺り麓に戻そうと思っていたのだ」

僕は現実認識がおかしくなりそうだった。クラリンが行方不明になったのは昨日の話なのではなかったか。

「その子が行方不明になったのは昨日の話だ」

「この屋敷を取り囲む霧はこの屋敷と外界を遮断する。ここで流れる時間は通常とは異なるのだ」

憑依されたクラリンの表情には余裕があるが構えには隙がない。

彼女がじわりと間合いを詰めて僕に斬りかかろうとした時、横合いから誰かが飛び出してきた。

「やめろクラリン。ウッチーや俺がわからないのか」

雅俊だった。いつの間にか僕たちに追いついたのだ。雅俊は素手で薙刀の刀身をつかんでクラリンを止めようとした。

「何故おまえたちは易々とここにたどり着けるのだ。結界があるから何者も立ち入れぬはずなのに」

彼女が薙刀を引くと雅俊の両手から鮮血が吹き出した。

「雅俊手を離せ。指が切れてしまう」

僕が叫んでも、雅俊は手を離さなかった。手から血をしたたらせながら憑依されたクラリンをにらみつけている。

その時、血を流す雅俊を見詰めていた彼女の顔にゆっくりと驚愕の表情が広がっていった。

「いやああああ」

絶叫を上げると彼女は薙刀から手を離した。そして雅俊に駆け寄ると早口でしゃべり始めた。

「あほ。なんで刃物を素手でつかんだりするんや。指が切れてしまったら大変やろ。ああ、こんなに血が流れて、痛たかったやろ、ほんま」

僕の記憶のつかえが飛び、僕の心の中にクラリンに関する一連の記憶が戻っていることに気が付いた。

今まで思い出せなかったのが不思議なくらいだ。

「もとに戻ったんやな」

雅俊はほっとした様子で薙刀の刀身から手を離した。彼自身も記憶が元に戻ったにちがいない。

クラリンは雅俊の手をしっかり握った。雅俊の血で二人の手は血まみれだ。

そのそばで、子供達がぽかんとした表情で二人を見上げていた。

「君たちこっちにおいで」

続きを見させておくと教育上良くない気がしたので僕は子供達を連れて囲炉裏の傍に行った。倒れていた山葉さんは身じろぎしていた。

「山葉さん大丈夫ですか」

僕が声をかけると彼女は意識を取り戻した。

「ウッチーか、クラリンはどうなった」

彼女は頭を押さえながら立ちあがった。大きなたんこぶが痛々しい。

「雅俊が来て呼びかけたら元のクラリンに戻りましたよ」

山葉さんは土間で抱き合っている二人に気がつくと心なしか顔を赤らめて目をそらした。

「この子達は「彼女」の子供なのだな」

山葉さんが視線を向けると、男の子が口を開いた。

「お母さんが僕たちの身の振り方はあなたに決めてもらえと言っています」

「そんなことを言っているのか。人の頭を思い切り殴っておいて気楽な奴だな」

山葉さんが頭をさすりながらぼやいた。

「すいません」

女の子がぺこりとお辞儀をした。

僕と山葉さんは顔を見合わせると、どちらともなく笑い始めた。「彼女」は僕たちの命を奪う代わりに子供達を託したのだ。

「ここを出て山を下りよう」

山葉さんに促されて僕たちは屋敷を出た。外は明るく、立ちこめていた霧も晴れていた。

既に夜が明けたのだろうか。僕は思わず腕時計に目を落とした。日が暮れてから屋敷に入ったとはいえ、それほどの時間は経過していないはずだ。

しかし、僕の電波時計は、時刻を修正しようと高速度でぐるぐる回っているところだった。

あの屋敷の中では時間が早く経過していたのだろうか。僕は周囲が明るいのは夜が明けたためだと思っていたが、修正された時計を見て自分の考えが違っていたことがわかった。時計の時刻は日曜日の夕方を示していた。

あの霧の中では時間が早く進んでいたのだ。

山を下りながら、クラリンと子供達は親しげに話をしている。僕は子供達に聞こえないように山葉さんに彼らの母親の最後を話した。

「ウッチー。その場所はわかるのか」

山葉さんに尋ねられて、僕は自分の頭の中にこの山の空間マップが存在していることに気がついた。それは自分が住んでいる町でどの辺にいるか瞬時にわかるのと同じ感覚だ。「彼女」の記憶が引き継がれたに違いない。

「ここからそう遠くないですよ」

「そこに行ってみよう」

山葉さんに促されて僕は獣道に踏み込み、しばらく歩くと問題の場所に着いた。

見覚えのある大木の根元には錆びたワイヤーの罠があり、その周辺には何かの骨が散らばっている。

「お母さん」

男の子がぽつりとつぶやいたのをクラリンが聞きとがめた。彼女はしゃがみ込んで、子供の目を見ながら言った。

「いうたらあかんよ」

二人は無言でうなずいた。クラリンと二人の間には何かの絆が出来ているようだった。

「なあ、クラリンその子達とどれぐらい一緒にいたか憶えているか」

僕は尋ねてみた。

「そうやな。季節が一回りした気がするから一年くらいやろか。何となくぼーっとしていたから子供達に御飯作ったり勉強を教えたりしながら、私は一体何をしているんやろって思ってたわ。あんたらよく私を探しに来てくれたな」

雅俊が愕然としているのがわかった。僕はことばを選びながら彼女に言った。

「僕たちにとってはクラリンがいなくなったのは昨日のことなんだ。これでも大急ぎで探しに来たつもりだよ」

今度は彼女が怪訝な顔をしていた。

雅俊が気がつかなければ、彼女が異空間で過ごした時間は更に長くなっていたのかもしれなかった。

その傍らで山葉さんは祈祷を始めていた。それは亡くなった人を讃え、子孫を見守ってくれるように祈る祭文だった。

彼女は子供達のために先祖祭りの祈祷をしているのだった。

いざなぎ流の祈祷を行う山葉さんを僕たちが見守っていると落ち葉や枯れ枝を踏みしだく音が近寄ってきた。七瀬美咲嬢と黒崎氏だった。

「大丈夫ですか。二人とも顔色が悪いですよ」

僕が尋ねると、美咲嬢が答えた。

「もう大丈夫ですわ。ちょっと酔っぱらっただけですから。この一帯の結界もはずしてさしあげたでしょう」

美咲嬢は僕たちの所まで来ると、子供達をしげしげと眺めてから口を開いた。

「この骸を私たちが片付けてもいいかしら」

子供達は顔を見合わせて黙っていたが、やがて男の子がうなずいた。

美咲嬢が黒崎氏に目配せすると彼はポケットからポリ袋を取り出して散乱した骨を一つ一つ拾い始めた。美咲嬢もそれに加わり、やがて子供達も一緒に拾い始めた。

山葉さんの祈祷が終わると僕たちは山を下りた。クラリンの救出に成功したのに、喪失感を感じてしまう。それが僕の感覚だった。皆も似たような感覚を抱いたようだ。

美咲嬢が用意したバンに乗り込んだ後、山葉さんは運転をする上門さんに告げた。

「近くにある警察署に寄って下さい。この子達を迷子として届けます」

クラリンが座席から腰を浮かして抗議した。

「何でそんなことをするんですか。この子達は私が連れて帰ります」

「いや、君たちでは経済力がないから無理だ。それに住民票や戸籍をなんとかしてやらないと学校にさえ行けない。猫の子をもらって行くようなわけにはいかないのだ」

山葉さんのことばにクラリンは沈黙した。代わりに美咲嬢が口を開いた。

「養育放棄された子供を見つけたことにして、新たに戸籍や住民票を作らせる気ですわね」

「よくおわかりだな。警察が人ならぬ物の存在など全く感知しないことに百円かけてもいいよ」

山葉さんは微笑を浮かべて答えた。

数日後、僕がカフェ青葉 にアルバイトに出かけてみると山葉さんがカウンターから手招きした。いそいそと近寄ってみるとクラリンと雅俊もカウンターに座っている。

「雅俊。手の具合は良くなったのか」

彼は包帯でぐるぐる巻きの両手を見せて答えた。

「順調に良くなっているけど、完全に治るまではアルバイト禁止だって山葉さんが言うんだ」

「仕方がないよ。食品衛生上、手に傷があったら食品の取り扱いは出来ないのだ。それよりもこれを見てくれ」

彼女が示したのは新聞の社会面だった。先週末に多摩の山中で小学生と見られる男女各一名の児童が保護されたこと、そしてその二人の身元が不明なため情報提供を求めていることなどが簡単に記されていた。

「これだけなんですか」

僕が尋ねると、山葉さんが肩をすくめた。

「何を期待していたんだ。地元警察は必要にして十分なことをしている。七瀬さんの一派があの子達への支援を申し出てくれたから、落ち着いたら彼女たちが引き取ることになるかもしれないね」

「すんなり人間社会に入れるものなんですね」

クラリンが感慨深げに言った。

「最初が肝心なのにちがいない。これまでにも妖の類が人の社会に入り込んでいたことがあったはずだ」

山葉さんのことばを聞いて、僕は七瀬美咲の顔を思い浮かべたが何も言わないことにした。

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