第40話 インパールの記憶

夜が明けると天気は雨となった。スコールほど激しくないが、雨は降り続きやがて塹壕の中に泥水が溜まり始めた。

この地方の雨期が始まろうとしていたのだ。

「中村上等兵殿、今日は敵は来ないでしょうか。」

尋ねるというよりは、希望を口にしたかったのだ。しかし、中村上等兵は渋い表情で首を振る。

「連中は早くここを制圧して、後退する本隊を追撃したいのだ。雨ぐらいで休みはすまい。」

僕は無言で水に浸りかけた擲弾筒を拾って空になった弾薬箱の上に置いた。擲弾筒の弾は残り2発。小銃弾は身につけた三十発足らず、そして手榴弾が2個。自分が持っている武器はそれだけだ。

イギリス軍はアメリカ製のM3スチュアート戦車を使っていた。旧式だが武装が貧弱な僕たちには十分な脅威だ。

遊軍の速射砲部隊は壊滅していた。今戦車を相手に戦うとしたら地雷を抱えたまま戦車の下に飛び込んで自爆するか、戦車によじ登ってハッチから手榴弾を放り込むくらいしかなかった。

「昨日はうまく奴らの鼻先に打ち込んでくれたな。」

「はっ。ありがとうございます。」

古参兵に褒められることなど極めて希だ。僕は敬礼し、足元では泥水が波立った。

「貴様は、配属されて班長に名前を呼ばれた時に、自分の名前はいからしと読みます。と言い返すような奴だった。今では使い物になるから大したものだ。」

僕もそれは覚えていた。軍でそんな口をきいたら殴られるのが落ちだが、温厚な鈴木伍長は、そうか名前は大事だからなと苦笑しただけだった。

その時、シュルシュルと空気を切り裂く音が聞こえてきた。イギリス軍が野戦重砲の射撃を始めたのだ。昨日の小競り合いで、重機関銃の正確な位置をつかんだらしく砲弾は集中し始めていた。

コヒマに到着した頃は周辺は森に覆われていた。陣地を巡った攻防が続き、イギリス軍が激しい砲撃を繰り返したおかげで、周辺の森はなぎ倒され、むき出しのなだらかな丘に変貌していた。

着弾した砲弾はしめった泥と泥水をまき散らした。激しい砲撃が終わった時、僕も中村上等兵も泥まみれになっていた。

「大変だ班長達が直撃されている。」

中村上等兵が壕から飛び出して行ったので僕も続いた。二十メートルほど離れた場所に設置していた重機関銃陣地は直撃弾を受けて破壊され、本間上等兵と鈴木伍長は倒れていた。

「しっかりしてください。」

鈴木伍長は腹から大量に出血しており、本間上等兵は既に息絶えていた。

「重機は見ての通りだ。おまえ達は命令通り後方に下がれ。」

「班長も一緒に後退しましょう。」

「俺はもう足の感覚がない、ここに置いていけ。」

僕と中村上等兵は沈黙した。

「この作戦は勘違いした上層部がしでかした大失敗だ。支那の戦線で輜重隊が地元の住民から食料の提供を受けているのを見たのを憶えているか。」

「ええ。大東和共栄圏のために喜んで食料を提供しているという話でした。」

「そんなことを信じているのはうちの司令官ぐらいだ。他所の国の完全武装の軍隊が街に入り込んで食料を要求したら拒む首長がいるわけがない。文字どおり銃を突きつけて強奪するのと同じだ。」

僕たちは無言で鈴木伍長の話を聞いていた。

「紀元前から兵站は軍事の要だ。俺たちは誇り高き皇軍といいながら兵站活動を蔑ろにして追い剥ぎと同列のことを繰り返していたのだ。おかげで人の少ない山野を行軍したら住民に食料を無心できずに飢えに苦しめられる有様だ。」

鈴木伍長は苦しそうに咳き込んだ。その時、僕は阿達二等兵が離れたところに倒れているのを見つけた。

「阿達大丈夫か。」

助け起こすと。阿達は意識を取り戻した。

「しっかりしろ。」

肩を貸して立ちあがらせたときに、背後で爆発が起きた。

振り返ってみると先ほどまでいた場所で砲弾が炸裂した様子だった。

僕は倒れている中村上等兵を助けに行こうとしたが、腹から下が無くなっている事に気がついて止めた。

彼方からキャタピラの音が聞こえてきた。敵は戦車を投入したのだ。

「阿達ここはもう駄目だ後退しよう。」

阿達二等兵は腕に怪我をしていたが歩けるようだった。

僕は彼に肩を貸しながら元来たアルカン山脈。そしてその遙か向こうのビルマを目指して歩き始めた。

背後の丘の稜線を越えたら。戦車砲の死角に入るはずだった。

稜線の上に立った時、僕は強い衝撃にたたきつけられた。戦車の車載機銃に掃射されたのだ。

太ももの裏側に命中した気銃弾は表側に貫通したが、去り際に皮膚や組織をごっそりと引きちぎっていた。

貫通銃創を受けた僕を今度は阿達二等兵が背負うようにして歩き始めた。

しばらく進むと道の周辺は森になった。やがて、遊軍が布陣している場所にさしかかり応急手当を受けることが出来た。

「俺たちはここに対戦車壕を掘って敵を食い止めるように命令を受けている。おまえ達は早く後方に下がれ。」

応急手当をしてくれた兵士が言った。手当といっても敵が物資を投下したパラシュートの布で縛っただけだ。それでも出血だけは止めることが出来た。

残留する部隊に食料をもらうわけにも行かず、僕たちは食料をかけらも持たない状態で二千メートル級の険しい山脈を越え、百キロメートル以上の道程を歩かなければならなかった。

翌日になると阿達上等兵の腕と僕の足の傷にはウジがわき始めた。

道の周辺には置き去りにされた兵士の死体があちこちに転がっており、中には息のある負傷者もいたが、目の中にウジがわき、話しかけても反応がない。

自分たちも歩くのがやっとなので、そのままにしておくほか無かった。

やがて、僕の足は赤黒く腫れ上がってきた。傷口から毒が回ったらしく熱が出て意識がもうろうとしている。

「阿達。俺を置いて先にいけ。」

僕はどうにか声に出して言った。

「何を言うんだ。一緒に部隊の集結地点まで帰らなければ。」

僕を担ぐようにして坂道を登っていた阿達二等兵は息を切らしながら言った。

「それなら、おれはゆっくり進んでいるから先に行け。おまえが後方で食料をもらったら、それを持って迎えに来てくれ。」

阿達二等兵は何か言おうとしたが、結局黙ってうなずいた。

僕は腹巻きから指輪を取り出すと、阿達に渡した。

「俺が戻らなかったらこれを妻の貞子に届けてくれ。後方で再会できたらちゃんと返せよ。」

「わかった。絶対に迎えに来てやるからな。」

阿達は指輪を握りしめると何度も振り返りながら坂道を登っていった。

僕はその姿を見ながら後悔していた。本音は彼の足にすがりついて、連れて帰ってくれと言いたかったのだ。

だが道程はまだ数十キロを残しており、このままだと共倒れになるのは目に見えていた。

阿達上等兵と別れた後も、僕はしばらく歩き続けた。歩くことが出来なくなってへたり込んだとき道端で並んで朽ち果てた数体の死体と目があった。

不思議なことに白骨化した死体もあれば比較的新しい死体もあった。新しい死体は死体があるところに後からわざわざ寄ってきたのだろうか。

「こんな姿になるのはいやだ。」

僕が、最後の力を振り絞って這って離れようとしたとき声が聞こえた。

「無念だな。」

その声は道端の死体から聞こえたような気がした。

僕が振り返ると、声は続いた。

「皆そうやって力尽きたのだ。せめてここで一緒に眠らないか。」

腐乱した死体に重なって生前の面影が見えたような気がした。這って離れようとしていた僕は逆に近寄るとその横に腰を下ろした。

死期が迫って幻覚を見ているのかもしれない。そう思いながらも、不思議と恐ろしさは感じなかった。

ここ数日の戦闘を思い出し、戦死したイギリス兵から携行食料をあさったことを思い出し、あさましい行いをしたことを後悔した。

「辱めるようなことをした訳ではないだろう。そいつも許してくれるよ。」

隣にいた白骨化した死体からも声が聞こえてきた

「俺は湯沢の出身だ、雪が深い所だが今頃は田植えの準備をしている頃だ。俺がいなくてもちゃんと出来ているか心配だよ。」

他愛のないことを話す死者達の声。

そういえば、阿達に託した指輪は無事に貞子の手に届くだろうか。

「なかなか粋なことをする奴だな。」

「うまく届けばいいな。」

異なる時期に亡くなった兵士たちはこうして先に逝った者たちに慰められながら息を引き取ったのだろうか。

死者達の声を聞いているうちに僕はいつしか眠りに落ちていた。


目を覚ますと僕は旅館の布団の中で寝汗にまみれていた。戦時中の日本兵の体験をなぞる夢を見ていたのだ。

枕元に置いた腕時計を見ると朝5時を回っており、もう一度寝直す気にもなれないので、僕は温泉に入ることにした。

温泉の入浴時間が朝5時半からだったのを思い出したのだ。

僕は温泉の露天風呂に浸かりながら今し方見た夢のことを考えていた。それは普段見る夢とは明らかに異なっていた。

昨夜廊下で拾った指輪が夢の中にも登場していた記憶があり、指輪に戦死した日本兵の霊が取り憑いているのだろうかと思える。

僕は朝食の時に山葉さんに聞いてみることにした。

朝食の時間に栗田准教授と部屋から出ると山葉さんとクラリンが廊下で待っているところだった。

「実は、昨夜旧日本軍兵としてインドでイギリス軍と戦う夢を見たんです。」

階下の食堂に降りながら僕はさりげなく話を始めた。山葉さんは浴衣の袂で口を押さえた。

「日本って第二次大戦でインドまで攻めていってたの。」

クラリンの言葉に栗田准教授が答えた

「インパール作戦のことでしょう。ビルマとインドの国境からインド北部に侵攻した作戦で沢山の日本兵が死んでいます。」

「助清さんが顔を負傷した作戦だな。」

山葉さんの言葉に僕は思わず聞いた。あった

「知り合いの方ですか。」

「いいや。大神家の一族に出てくる助清さんのことだ。」

「フィクションじゃないですか。」

「そういえば小説の「ビルマの秘め事」もインパール作戦を題材にしていましたね。」

僕が山葉さんに突っ込む横で、栗田准教授が更に話を混ぜ返す。

その小説では戦後捕虜収容所に入れられた戦友の前に大島上等兵が僧侶となって現れ。「大島。一緒に日本に帰ろう。」と皆が呼びかけるが、大島上等兵は戦死した戦友を弔うために現地にの頃のだった。

だが、僕の見た夢は小説よりもはるかに過酷だった。

僕は朝食のテーブルに着くまでにかいつまんで夢の内容を話した。

「あの指輪にその作戦で死んだ兵士の思念が染みついていたのだな。」

「やっぱりそうだったんですか。」

「うむ。朝食を食べたら手だてを考えよう。おそらく昨日の家族もそれで悩んでいるのだ。」

彼女の言葉に皆がうなずいて朝食を食べ始めたが、僕は一口も食べられなかった。

おいしそうな和風の朝食セットが並べられているのだが、食べようとすると猛烈に気持ちが悪くなるのだ。

食い意地の張った僕は、焼き魚と御飯を無理矢理咀嚼して飲み込んでみた。

すると今度は猛烈な吐き気が襲ってきた。僕は手で口を押さえて洗面台がある廊下まで走った。

死の間際に敵兵の携行食料あさったことを後悔した兵士の想いが、僕が食べる行為を許してくれないような気がする。

少し落ち着いた僕は、横長の洗面台に先客がいたことに気がついた。昨日夕食の時に一緒になった佐藤さん母娘だ。

「すいません。お騒がせしました。」

僕が謝ると娘さんが言った。

「いいえ。私も同じ事をしていましたから。」

僕を追ってきた山葉さんが後ろから言った。

「ウッチーあの指輪を持っているか。」

僕は問題の指輪をポケットに入れていたことを思い出して、それを取り出した。

「彼が昨夜ここで拾いました。あなた方の指輪ではありませんか。」

佐藤さん母娘は顔を見合わせた。

「何処で無くしたのかと探していました。ありがとうございます。」

娘が指輪を受け取った。

「その指輪を身につけるようになってから食べられなくなったのではありませんか。」

山葉さんの言葉に彼女はうなずいた。

「ええ、実はそんな気がしていました。でも指輪を片付けても食べられない事は変わらないのでどうしたらいいかわからなくて。」

「彼も今朝からあなたと同じ状態になったようです。一緒にその指輪の謎を説くお手伝いをさせていただけないでしょうか。」

「お願いします。何か手だてがあるならと、お願いに行こうと思っていました。」

僕は夢の記憶を懸命に思いだして母娘に尋ねる。

「もしかしてご実家の名字が五十嵐さんか阿達さんではありませんか。」

「いいえ私の実家は石川といいます。」

指輪が夢に登場した関係者の子孫の手に渡ったと推測した僕の考えは一撃で撃破された。

山葉さんは何か推理しているのだろうかと振り返ってみると、彼女は思惑ありげにスマホをいじっていた。

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