第7話

 夜も遅く、腕時計が8時を回った頃に家に帰宅した。身体中が疲れて節々が痛い。さっさと風呂に入り、今日は寝てしまおう。

「ただいま」

 家に帰ると、リビングの方から母親が出てきた。

「おかえり、また随分と遅かったねぇ。あ、そうそうお姉ちゃん大学から帰ってきてるよ」

「姉貴?」

 俺の姉はもう成人した大学生だ。遠いそこそこ良い大学に進学し、普段は寮生活をして暮らしている。

 あと、姉は酒癖が悪い。そりゃあもう、とてつもなく。今もリビングから聞こえる喧騒が軽く面倒くさい。近寄りたく無い。

「まぁ、いいけどさ」

 俺は靴を脱ぎ、荷物を放り投げるとすぐさま風呂に向かった。



 浴室に入り、蛇口をひねりシャワーを浴びる。いつもとは違い、水のシャワーを浴びた。

「冷たい……」

 鳥肌が立ち、寒気を感じる。次第に体温が下がっていくのを感じる。あの時の様な、深く冷たい雨が降り注いでいる様な。苦しみや悲しみがある冷水だ。今日は色々ありすぎた。まだ色々と整理がつかない事が多い。そんな俺の頭を冷やす為には冷水が良い。



 風呂から上がり、髪も乾かさず二階にある自室へ向かった。そうしたら階段で再度母に止められる。

「イッサ、冷蔵庫に晩ごはん入ってるから、時間あったらちゃんと食べなさいよ」

「了解、ありがとう。でも今日は……」

「そう、まあお疲れの顔してるもんね。まあ伝えたから、あとは勝手にしなさい」

 そう母は言い残し、リビングに戻っていった。

「……ありがたい」

 自室に入り、ベットに倒れ込んだ。



 我が家の両親は基本放任主義だ。もちろん悪い意味で言いたいわけでは無くて、基本的に自分の行動にいちゃもんや反対はしないと言う事だ。そして、何か協力して欲しい時には、必ず手伝ってくれる。そんな理想的な両親を持った事は、俺にとっての幸せの一つだ。

 でもだからか、あの件に関してはとても後悔している。元々、姉の様に頭が良かったわけでは無い俺は、親への恩返しとして水泳に全力を注いでいたのだが、結果晒したのは自分の醜態だけで、競泳用の水着や、大会参加費用まで出してくれた親にかっこいい所も結果で答える事も出来なかった俺は、なんだか酷く後ろめたさを感じてしまっている。

 家族にもあの事情を話したが、居た堪れない空気になって、その日から優しく接してくれたのは、嬉しい反面、辛くもあった。

「…………。」

 人生、後悔ばかりだ。

 良い子になりたい自分と、それになれない弱い自分。

 弱い自分を誰も肯定はしてくれないし、次第に誰も見てくれなくなっていくのだ。

 そう思うと彼女といる時間は少しだけ、心地よかった。決してあの罵倒が良いものとは言えないけれど、俺を見て認めてくれている彼女との時間はきっと嫌いじゃないんだ。

「はぁ……」

 だからって、なんで彼女が俺の恋心を先輩にバラした奴なんだろうか。俺の憎き仇なら、最後まで悪役でいて欲しかった。それでも彼女が俺の恋心をバラして、罪悪感を感じなければまたこの奇妙な縁も成り立たないのだろう。


 複雑な感情が入り混じる。


 それにしても、やっぱり後輩はとても優しい奴だったんだな。

 普通、恋心をバラされて引退していった先輩を気に病んで、わざわざ償いに会いにくる人間なんて、存在するのだろうか。にわかには信じられない。傷つけた側はそのまま変わって知らんぷりしてれば何も咎められないのに。どうしてそれを素直に精算しようと思えるのか。彼女は図太過ぎる。

「すげぇなぁ……」

 そう、呟いた時だった。



ーードンッ!!!



「よぉイッサ!!!失恋乗り越えたかぁ!?」

「姉貴!?入るならノックしろよ!?」

「ここは元は私の部屋なんよ?ノックなんていらねぇよなぁ!?」

 酒臭い姉貴に構われた。なんて地獄だ。



「んで、未練は残ってんのか?」

 姉貴は俺のベットの隣にどかどかと座り込み、聞いてきた。

「まぁ、後悔ばっかりだけど」

「そっか……」

 姉貴はなぜか少し安堵した様に呟いた。

 そして姉は、窓から夜空を見上げながら、遠い目で話始めた。

「中学の時さ、あんたが頑張ってたのはすぐに分かった。私も受験で忙しかったから、直接は応援出来なかったけど、いいなぁ、青春だなぁって思ってたの」

「なんだよ、急に」

「え?だって、こういう時しか弟と話す機会が無いんだもん。お酒が入ってなかったらこんな事絶対にあんたに言わないし、言えないもん」

「…………。」

 姉は普段あまり喋らず、クールな立ち振る舞いをしているが、その実お酒を飲むとダムが決壊した様に壊れる。意外に姉は不器用でズボラだ。

「で、あんたが全て台無しにして、幼なじみのナツメちゃんと険悪になって、失敗した時にさ。なんでかな、親近感湧いたの。ああ、弟はやっぱり近くにいるって。遠くに行ってないって」

「……だからなんだよ」

 当時の弱い自分を見て納得されても困る。

「だから、私はこのままでいいと思うよ。あんたは変わんなくても、私はそれでもあんたを嫌いになるとか、そういうのは無いし、事情が事情だから仕方ないとも思うから」

「……そうかよ」

「うん、そう」

「姉貴って、よくそんな小っ恥ずかしい事言えるよな」

「まぁね。私もちょっと恥ずかしい。でも弱って卑屈になってる弟見てるのは辛いし、こういう時支えになってくれるのは、大人じゃ無いからね。私も最近まであんた同じ“お年頃”だったわけだから」

「まぁ、じゃあ、ありがとう」

「うんうん」

 姉がニッコリと微笑んだ。なんで普段あんまり優しい訳でも無いのに、こういう時ばかり助けてくれるんだ。なんか、調子が狂う。

「あ、あとあんたのすきだった先輩の写真見たけど、あんた女見る目なさすぎ。あんなの目に見えて分かる地雷よ。地雷」

「うっせ」

 当時は可愛くて清楚で儚く美しかったんだよ。


「じゃあさ、姉貴」

「んにゃ、何?改まって」

「……いや」


 気になっている後輩がいる。

 そう、喉元まで出かったけれど、噤んだ。

 この事に関しては、自分で蹴りを付けたかったから。丸く収める解決策じゃなくて、自分の答えでこの過去とは決着を付けたかったから。


 俺は、小さな覚悟を抱いた。

 胸が暖かくなった。


「姉貴、本当にありがとう」

「……まあ、知らないけど。どう致しまして」

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