こうてい

金魚屋萌萌(紫音 萌)

よむな

 私の肯定をしようと考えたがそれは私の何に対しての肯定なのだろうか存在?それとも肉体精神以下諸々の肯定なのだろうか、とりあえず始めに存在の肯定をしようと考えてみたがそれは他者から見たの存在の肯定(客観的)なのかそれとも自分で自分をみた存在の肯定なのか(主観的)でもそれは自分を見た自分と言う他人が存在し始めて結局他者から見た自分の肯定なのではないかと考えてああもうわけわからない!と混乱し始めて、また今度は客観的って言葉は詰まるところ客観ではなく、主観がとりあえず冷静になって見つめてみましたー、的な感じであったりして、だから教授が評論は小説と体系は違うけど結局は自己表現なのです。といった事にも納得できるわけで、そもそも純粋な客観となるとその「客」は人じゃなくて神になるんじゃないかなと思ったりする、そう、私たちは演じているのだ、この「世界」と言う「舞台」の上で「神」という「客」を前にして我々「生物」は「役者」として「運命」という「演劇」を演じさせてもらっているのだ、ただ「神」は「客」だけれど「脚本家」でも「演出家」でも「総合監督」でもあったりする、でも決して「役者」にはならない。今のところは。ひょっとしたら「役者」になる日も来るかもしれない。


 ええと、ずいぶんと話がそれてしまっている、最初は何の話をしようとしていたのだろうか、そうだ私の肯定の話だ、でもそれは何に対しての肯定なのだろうかいやいやこれだとダ・カーポよろしく話が戻ることになる、ここからはコーダという事にして先に進もう、いや進めようとしたら堂々巡りになるんだ、ならば後ろに戻ってみるか、じゃあ何故私が肯定をしようと思いついたことから始めてみよう、私はこの人でなしの屑野郎、と罵られた事が一度ある、そこで私は自分が人で無い可能性を認識した、そもそも私は何故今まで自分が人であることに確信を持っていたのだろうか?おそらくそれは周りがずっと私を「人」として扱っていてくれたからだろう、でもここにきて初めて私を「人」扱いしない人物が現れた、いや彼も「人」では無い物(非人物)かもしれない、だから同じ非人物である私を見て「この人でなし!」と言ったのかもしれない。まあそんなことはどうでもいい、ともかく私は「人」であること否定されてムッときたから、私が「人」であることの肯定をしようと思考を始めた。でもよくよく冷静になってみると私が「人」であるかどうかなんてどうでもいいんじゃないかと思ったりした。


 面倒と感じてしまった私はこの思考をすぐ終わらせる事にした、自分で自分を「人」と認識するのは大変だが、他者から自分を「人」と認識してもらうのはそんなに難しくはない、私は人では、ああめんどくさい。


 今のところ私を「人」と認める人の方が圧倒的に多い、私を「人」と認めるのは一人しかいない、この世界ではだいたいの物事が多数決によって決まる、ならば世界のルールに従って私は「人」であることになった。ならばこの件は解決じゃないか、でも思考が中途半端で感じでなんか判然としないからテーマを変えてみよう、そうだもっと大きな話にしよう、「人」を抜いて「私の肯定」というテーマにしてみようと思ったのが始まりです。でもまたもや話が最初に戻りそうなのでもう一回テーマを握り返して考えてみよう、思い切って「私」も抜いてしまおう、ついでに「肯定」の意義同音語「校庭」にかえよう、よしこれで「校庭」について考えることになったぞ、これなら簡単だ、ただ辞書で調べればいいのだから。



【校庭】


学校のひろば・運動場など。


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