縁の園

天ノ川夢人

第1話

 うららかな春の朝、ほの蒼白い陽に照らされた人通りも疎らな新宿の裏通りにゴミ集積所が一箇所ある。山のように詰まれたゴミ袋の山の裾から薄汚れた黒い革靴と白い靴下と紺のスラックスを穿いた足が二本飛び出している。通りの向こうの方からゴミ収集車が近づいてくる。

 ゴミ収集車が来て、二人の作業員がゴミ集積所に置かれたゴミ袋をゴミ収集車に運び込む。ゴミ袋を運び終えた作業員がゴミの山から姿を現わした男に声をかける。

「おじさん!爺さん!もうそろそろ起きないと、お店の人達に怒られるよ!」

 ゴミの山から姿を現わした老人は死んだように動かない。スラックスとお揃いの紺のジャケットを着た白髪頭で色白な肌をした小太りな老人である。小さな団子っ鼻の上に載った銀縁の眼鏡が脂汗でずり落ちている。

「爺さん!聞こえないの!死んでんじゃねえだろうなあ」

「おい!もう行くぞ!」

 作業員は運転手に急かされ、その場を去っていく。そのゴミ収集車が動く音で老人は目を覚ます。老人は眠そうに少し目を開ける。そうかと思えば、また直ぐに瞼を閉じる。老人は束の間目を瞑り、眠りに満足すると、またゆっくりと目を開ける。老人は直ぐには動かず、考え事をしている。心を乱さないように注意しながら、考え事は後回しにし、とりあえず、ただ体を動かすためだけに自分の心と体を心の中で組み立てる。

 老人はゆっくりと立ち上がり、左手に固く握った物を見下ろす。老人が握っているのは緑色の大きなボストン・バッグである。老人はしゃがみ込み、ボストン・バッグの大きさを測るようにその両端を皺の寄った肉づきのいい小さな手で触れる。老人はボストンバッグのスライド・ファスナーを開ける。老人はボストン・バッグ一杯に詰め込まれた札束を目にする。老人はそこから一掴みの札束を掴み出す。全部万札である。老人は札束を元に戻し、また考え事をしながら、宙を見ている。老人はボストン・バッグを地面に置いたまま再び立ちあがり、自分の服装を確認する。老人は首を振り、唇を尖らせ、ずり落ちた眼鏡を右の人差し指で上げる。老人は無意識的な仕種で頬に生えた短い白い無精髭を右手の親指の爪で逆撫でする。老人はその小さな髭の音を聞いている。老人はその髭の長さで髭を剃ってからまだ一日しか経っていない事を知る。老人は右手の親指の爪を見、親指と人差し指の指紋を擦り合わせる。手は清潔に保たれ、爪はきちんと短く切ってある。老人はボストン・バッグを持ってその場を立ち去る。

 老人は歩き始めて間もなく、自分の無意識的な足の動きに気づく。足が縺れて転びそうだったので、足が無意識的に動くままに体のバランスだけ注意して自由に歩かせてみる。そうやって歩くと、自分はまだ若いと老人は思う。老人が調子づいて再び自分の力と意志で歩こうとしたら、老人は自分の足腰が酷く弱っている事に気づく。老人は再び無意識に任せて歩く。老人は心の中で、これでまた若さを取り戻したなと心密かに喜ぶ。

 老人は行き先も決めず、無意識に歩きながら、自分が記憶喪失になった事を認める。老人は電信柱に貼ってある所在地で常に自分の居場所を確認している。どの地名にも自分の過去の記憶に思い当たるものはない。老人は紺のスラックスの右後ろのポケットの中に財布を見つける。老人は鞄の中の金は別としても、この財布の中の物だけは自分の物だろうと思う。老人は財布の中に自分の記憶を取り戻すための何かが入っているものと期待し、財布の中を歩きながら調べる。財布の中に入っている物はお金だけではない。老人は財布の中から一枚の名刺を見つける。その名刺には**大学文学部インド哲学科教授、宮崎光男と書かれている。老人の心に不安が募ってくる。老人は名刺に書かれてある事に何一つ思い当たる節が見当たらない。残りのクレジット・カード、ポイント・カード数枚、同じ人物の名刺の束、免許証、保険証、診察券数枚を見ると、名前は全て『宇喜多稔男』と書かれている。老人は宇喜多稔男と言う名を思い出そうと努める。老人にはその名が全く記憶にない。老人は目覚めてからずっとこの事を恐れていた。老人は身分証明書に書かれた住所を当てに帰るべき自分の家を捜す。

 老人は間もなく歩き疲れてしまう。老人は気力に比べ、体力が弱り果てている事に気づく。老人は歩きながら、ショー・ウィンドーに映った自分の姿を見る。老人は立ち止まり、ショー・ウィンドーに映った自分の姿を見つめる。思った通りの年寄りだなと老人は思う。老人は自分の姿を見て、まだ背筋が曲がっていない事に少し自信を取り戻す。老人は財布を再び出して、その中の金を勘定し始める。現金が二三二一一円入っている。老人はその金を当てにしてタクシーを拾い、車で『宇喜多稔男』の家まで向かう事にする。

 老人はタクシーを拾い、車に乗り込む。運転手は老人に、「どちらまで?」と甲高い声で訊く。黒々とした髪を油で七三に分けた四十過ぎの細身の男である。

「高田馬場なんですが」と老人は甲高くか細い声で言い、免許証に書かれた住所を運転手に見せて、「ここまで私を運んでいってもらえませんか?」と頼む。運転手は快く引き受け、老人の希望の地へと向かう。


 老人は眠たげに目を開け、何時の間にか眠り込んでいた事に気づく。タクシーが住宅地に入り、老人は周囲を見回す。通り縋りの五十代ぐらいの主婦が擦れ違うタクシーの車内にいる老人を見て、微笑みかけるように会釈する。見覚えのない女性ながら、とりあえず老人も窓越しに会釈を返す。

 間もなく車が十字路に差しかかると、その先は一軒一軒ゆったりと大きく敷地を取った豪邸が建ち並ぶ高級住宅地に様変わりする。その中でも一際目立つ、ざっと見ても二百坪はある豪邸の前で老人を乗せたタクシーが止まる。老人は財布の中のお金でタクシーの料金を支払うと、足腰の弱った体で大変な思いをしてタクシーから降りる。

 老人は白い塀に囲まれた白い豪邸の前に降り立ち、辺りを見回す。先程ショー・ウィンドーに映った姿で確認した自分の身なりから判断しても、とてもこんな豪邸に住むような人間だとは老人には思えない。その上、自分の降り立った家の前の表札には『高崎』とある。ここが『宇喜多稔男』なる人物の家の所在地であるのは間違いない。老人はとりあえずインターフォンに右手を伸ばし、ボタンを押す。

「はい」と落ち着きある女性の声が応対する。

「あのう、私、宇喜多稔男と申します。一寸お時間戴けないでしょうか?」と老人は甲高くか細い声で答える。

「一寸お待ちください」

 四十代ぐらいの婦人が玄関の戸を開ける。婦人は白い門のところにいる老人に遠くから会釈する。老人は白い門を開けると、芝生のある庭を左に、玄関までの長い通路を通って婦人のいる玄関先まで歩いていく。婦人は春秋用の薄手の黄色のニットの上着に青い丈の短いスリムなデニムのパンツを着た細身の女性である。髪は直毛のショート・カットで、足には素足に青いミュールを穿いている。

「家に何か御用でしょうか?」と婦人は睫毛に触れるか触れないかの長さの前髪の下で神経質そうに瞬きをしながら話す。

「私、実は記憶を失っておりまして、財布の中の身分証明書を頼りにここまで来たんですけれど、表札には『高崎』さんと書かれてあるし、私は全く行き場を失ってしまいました」

「一寸その免許証を拝見させて戴けますか?」

 老人は婦人に子供のような素直さで免許証を手渡す。

「確かに家の住所ねえ」

「ここらは豪邸ばかりで、私のような者が住む家は全く見当たりません」

「不動産屋さんに電話して確認してみますね。この家が建つ前に宇喜多さんのお宅があったのかもしれませんから。あっ、この免許証、期限が切れてますね」

「そうですか。何年前に?」

「ええと、そうですねえ、四年前ですね。どうぞ、中にお入りください。今、電話で確認します」

「ありがとうございます。ご迷惑おかけして済みません」

「いえいえ、そんな。どうぞ、お上がりください」

 老人は扉を開けて待つ婦人に招かれ、玄関に入る。

 玄関と廊下の段差はほとんどない。入って右には壁に嵌め込まれた背の高い下駄箱がある。入って左には金色の額縁に入った大きな油絵が飾られている。幻想的な美しい林の真ん中で白い膝丈ぐらいのドレスを着た貴婦人が木漏れ日を浴びている絵である。壁は濃茶のベニアで出来ている。玄関に満ちた香りが余りに良い匂いなので、老人はその香りを楽しみながら、大変な思いをして靴を脱ぐ。消臭剤の中の小バラの香りである。

 玄関の天井は吹き抜けになっており、玄関を上がると真っ直ぐに廊下が延びている。その床は落ち着いた深い色を見せるフローリングである。廊下の途中の右側には真ん中に洗面所を挟んで二つのドアーが並び、突き当たり正面にもう一つドアーがある。その突き当たり正面のドアーの手前左側の引っ込んだところに二階に通じる階段がある。階段は玄関の方向の天井裏に向かって斜めに登っていくように位置している。婦人は正面突き当たりのドアーを開け、居間に入る。

 ドアーを抜けると吹き抜けの居間が正面と左に広がり、右側には台所がある。正面の壁の手前には八人掛けの赤いダイニングテーブルが左右に延びて置かれ、その奥の壁の前には赤い食器棚が置かれている。ダイニングテーブルの右隣と左隣にはイタリア風の彫刻が施された白い円柱が二つある。その左の円柱の更に左にも同じ白い円柱が一つある。それら三本の柱は階下から見える二階の廊下を支えている。入って左奥の壁際には硝子板が載った黒い木製のテーブルを四方囲むような形でソファー・セットが置かれている。ソファー・セットと先程の三本目の柱との間には白い華奢な螺旋階段がある。先程婦人と老人が居間に入る時に通ったドアーと同じ吹き抜けの高い壁面は、居間の端から端まで一面ガラス張りで、そこから暖かな強い陽射しが部屋全体に射し込んでいる。

 婦人はそのソファー・セットに老人を案内し、「どうぞ、こちらにおかけになってください。今、不動産屋さんに電話してお訊きしてみますから、少々お待ちください」と言って、ダイニングテーブルの左にある、真ん中の柱の所に置かれた緑の鉄の蔓を編んだような電話台の上の電話機で早速不動産屋に電話をかける。老人は庭向きのソファーに腰を下ろすと、居間をぐるりと見回す。婦人が電話している間、老人は眉間に全集中力を集め、失われた記憶を呼び戻そうと努力する。

 電話を終えた婦人はソファー・セットの所まで戻ってくると、庭を背にした老人の向いのソファーに浅く腰かける。ソファーにどっぷりと体を沈め、背凭れに寄りかかるようにして、しっかりと寛いで座っていた老人は、寸足らずのような辛い前傾姿勢になって、婦人の報告に身構える。婦人は何とも気の毒そうに俯き、思い切って顔を上げると、揺ぎない眼差しで老人の眼を見つめる。

「今、不動産屋さんにお電話して宇喜多さんの事を調べて戴いたんですけどね、宇喜多さんってお宅は家がこの家を建てる前に火事で一家全員お亡くなりになられた方々なんだそうです。いえね、宇喜多さん、今、記憶を失くしていらっしゃるから、こういう事言うと不安になられるかもしれませんが」

「いえいえ、私だって自分が本当に宇喜多という名であるのかどうかは全く覚えがない訳ですから、宇喜多家と言う一家が全員亡くなっているならば、私は宇喜多稔男ではないという事です。つまり、この財布の持ち主も私ではないという事になります」

「宇喜多さん、いえ、何てお呼びしたらよろしいでしょうかね?」

「宇喜多で構いません。記憶を失った身元不明の者が間に合わせに仮名を使うぐらいなら、別に問題はないでしょう」

「じゃあ、宇喜多さん、区役所に行って調べてもらいましょう」

「ああ・・・・、はい」

「宇喜多さん、お腹空いてらっしゃらないですか?お食事はもう済まされたんですか?」

「いやあ、それが、朝起きてから何も口にしていないんです。でも、お構いなく。お話が済んだら、どっかその辺に食べに行きますから。いえね、お金ならこの通りあるんです」と宇喜多は言って、咄嗟に緑色の大きなボストン・バッグのスライド・ファスナーを開け、婦人に札束を見せる。婦人は迷惑そうに眉間に皺を寄せ、「あらあら、突然、そんなに沢山のお金を見せられたらびっくりするわ」と言う。

「私をここにしばらくおいてくださいませんか?家賃その他、必要な支払いは奥さんが決められた金額をそのまま支払わせて戴きます」

「一寸主人に聞いてみませんと、私一人では何とも申し上げられません」と高崎夫人が申し訳なさそうに言う。

「失礼ですが、御主人は何時にお帰りになられますか?」と宇喜多がせっかちに高崎夫人に尋ねる。

「あっ、あなた」と高崎夫人は短く声を発し、居間に入ってきたばかりのこの家の主人と思わしき人物の近くに走り寄る。高崎氏と高崎夫人が声を潜めて話し始める。宇喜多の気持ちはたちまち落ち着かなくなる。痴呆症の老人同様に厄介者扱いされ、手っ取り早く警察に引き取らせる可能性だって十分あり得ると宇喜多は考える。

 高崎氏はこの豪邸の主人にしては随分と若い四十代前半ぐらいの男である。髪は黒く肩まで伸び、細身の体に茶色の背広のジャケットを左脇に挟んでいる。

 高崎夫人がひそひそと夫と話し終えると、高崎氏はゆっくりと宇喜多に近寄る。高崎氏は張りのある安定した低い声で、「初めまして、夫の高崎保と申します」と宇喜多に自己紹介し、丁寧に御辞儀をする。宇喜多はソファーの深みから何度も腰を弾ませ、苦労して漸く立ち上がる。宇喜多は何度も頭を下げながら、「申し訳ありません!突然お伺いした上、こんな頼み事までしてしまいまして!」と甲高くか細い声で、本当に申し訳なさそうに詫びる。高崎氏は落ち着いた低い声で、「まあ、おかけになってください」と宇喜多に席を勧める。宇喜多は荒い息を吐きながら、「ああ、はい・・・・」と力なく返事をする。宇喜多は再びソファーに腰を下ろす。高崎氏も宇喜多が腰を下ろすのを見届けてから、壁を背にした宇喜多の右斜め前のソファーに腰を下ろす。宇喜多は荒い息を吐きながら、ズボンの右のポケットから白い皺くちゃのハンカチーフを出す。宇喜多はその白い皺くちゃのハンカチーフで、拭いても拭いても流れ出る額や顔や両掌の汗を繰り返し拭きながら、高崎氏の座るソファーの後ろの壁に嵌め込まれたアメリカ先住民族の生活様式が描かれた横長の巨大な木の彫刻を見遣り、吹き抜けの天井を見上げ、足下を見下ろしして、漸く乱れた呼吸を整える。そこで口許も押さえず大きなくしゃみをし、汗でびしょ濡れになった白い皺くちゃのハンカチーフを広げて、長々と鼻水の音を立てて鼻を攄む。高崎氏は端整な顔を醜く歪め、露骨に不快感を顔に表わし、その一部始終を黙って見ている。

 宇喜多が高崎氏の顔に視線を戻し、「いやあ、良いお住まいですなあ」と甲高くか細い声で話しかける。高崎氏は宇喜多が話し出すまでの僅かな間を物凄く待たされたかのようにおどけた顔を見せる。宇喜多はそんな高崎氏の顔を見て、「ははっ」と作り笑いをする。高崎氏は顎を引いた独特な得意顔で、「この家は私が自らデザインをして、図面を引いて造らせた家なんです」と自慢げに話す。宇喜多は子供のような無邪気さで、「はああ!それはすばらしい才能ですなあ」と甲高くか細い声で讃嘆する。宇喜多は改めて家の中を見回しながら、先程鼻を擤んだ白い皺くちゃのハンカチーフを畳み直す。高崎氏は唇を固く結び、黙って宇喜多の様子を見ている。宇喜多は畳み直した汗でびしょ濡れのハンカチーフで、また体のあちらこちらから吹き出る汗を絶え間なく拭いている。

 高崎夫人が盆に載せてお茶と茶菓子を運んでくる。高崎夫人はテーブルの上のそれぞれの席の前に茶托を敷いた湯呑みを置き、その真ん中に茶菓子を入れた大きな皿を置く。高崎夫人は親しみを込めた笑顔で、「どうぞ、お茶です。よろしければお召しあがりください。こちらに甘い物をお持ちしましたので、よろしければこちらもお召しあがりください」と宇喜多に言う。宇喜多は何度も頭を下げながら、「ああ、済みません、奥さん。どうか余りお気を使わないでください」と甲高くか細い声を濁らせて言う。高崎夫人は宇喜多の向かい側の庭を背にしたソファーに浅く腰かける。

 高崎氏が宇喜多の眼を見て、「本当に宇喜多さんとお呼びしてよろしいんですね?」と老人の本心を確認する。宇喜多はこの出会いの始まりに溢れんばかりの喜びを笑顔に表わし、「はい、そう呼んでください」と甲高くか細い声で気さくに答える。高崎氏は笑顔で宇喜多の顔を見て、「そうですか。それならば、私も宇喜多さんとお呼びさせて戴きます」と言う。とは言え、契約が成立するまでは宇喜多も半分不安な気持ちでこの家の住人と対面している。

 高崎氏が打ち解けた笑顔で、「宇喜多さんは家にしばらく住まわれたいんでしたよね?」と宇喜多に話しかける。宇喜多は小さな包みにくるまれた小さなバームクーヘンを食べながら、「はい、そうです」と真面目な顔で答える。宇喜多がほんの一瞬口の中に残ったバームクーヘンの欠片を無意識的に飲むと、その欠片が運悪く喉に引っかかる。宇喜多は激しく咳き込む。宇喜多は先程高崎夫人が出したお茶の湯呑みに慌てて手を伸ばす。宇喜多は素手では湯呑みまでも熱いお茶をゆっくりと火傷しないように気を付けて飲む。

「大丈夫ですか?」と高崎氏が心配そうな顔付きで訊く。

 宇喜多は全く心に余裕なく、「はい、はい、大丈夫です」と慌てて答える。「もし、お宅に住ませて戴けるのであれば、お金は御主人が決められた額を支払わせて戴きます」

「それでは月々家賃五万。敷金礼金は無し。その他こちらにかかった費用はその都度お知らせして払って戴くという事で如何でしょうか?」と高崎氏が笑顔で宇喜多に訊く。宇喜多は生真面目そうな顔付きで何度も頭を下げながら、「あああ!ありがとうございます!助かります!お世話になります!」と礼を言う。

 高崎氏は小柄な宇喜多と違い、同じソファーに深く腰かけていた体をゆったりとした前傾姿勢にする。高崎氏は打ち解けた笑顔で、「それでは二階の客間にお泊りください」と宇喜多に言う。宇喜多はソファーの左の肘掛に左手を突き、ソファーの深みから身を起こすと、勢いをつけて立ち上がる。立ち上がった宇喜多は何度も頭を下げながら、「どうもご親切にありがとうございます」と感謝の念を言葉に表わす。続いて立ち上がった高崎氏が直立姿勢で宇喜多を見下ろし、「お食事やお風呂の準備が出来ましたら、妻にお部屋までお呼びに参らせますので、どうか御心配なく」と理性的な笑顔で宇喜多に言う。宇喜多は見上げるような高崎氏との身長差に動揺し、老人然たるよろめきを晒しながら、「ありがとうございます」と甲高くか細い声で感謝する。高崎夫人が気遣うような微笑を口許に湛え、「寝巻きや洗面道具なんかはお持ちでらっしゃいますか?」と宇喜多に訊く。宇喜多は畏まった口調で、「いえ、そういう物はこれから買い物に行って買ってきますので、どうか御心配なく」と言う。高崎夫人は慎みある笑顔で、「こちらにお客様がいらした時用にと用意がありますので、宜しければそれをお使いください」と言う。宇喜多は青年のような若々しい口調で、「ああ、ありがとうございます。それではお言葉に甘えて」と感謝する。宇喜多は先程喉に詰まったバームクーヘンが気になり、老人めいた咳払いをする。

 高崎夫人がしなやかな身のこなしでソファーから立ち上がる。高崎夫人は笑顔で宇喜多に、「それではお疲れでしょうから、先にお部屋に御案内致します」と言う。宇喜多は緊張した顔で、「ああ、はい」と申し訳なさそうに返事をする。

 高崎夫人が先程宇喜多と居間に入ってきた時のドアーを開け、宇喜多を連れて居間を出る。廊下に出ると、高崎夫人は直ぐ右にある階段を上っていく。宇喜多はその後に続く。宇喜多は階段を上っていく高崎夫人のお尻をじっと黙って後ろから鑑賞している。余り大きくないお尻が宇喜多の好みである。高崎夫人の小さなお尻はそんな宇喜多の目を十分楽しませる。

 二階に上がると、先程の廊下の真上に位置する廊下がある。高崎夫人はその廊下を左に曲がる。階下と同じように、二階の廊下の右側にも洗面所を挿んで二つのドアーがある。

「この一番手前がトイレで、その隣、真ん中が洗面所です。その隣、二つ目のドアーがお風呂場に通じています。階下の方も同じ順序になっております」と高崎夫人が拘りなくさらりと家の中の説明をする。

 高崎夫人が突き当たりの右の引き戸の前で、「ここが宇喜多さんの御部屋になります」と笑顔で言い、引き戸を開ける。戸を開けて現われたのは真新しい畳の香りに満ちた和室である。入るなり宇喜多は畳の数を数える。八畳ある。窓は正面と左に大きく取ってある。入って右の押入れから高崎夫人が蒲団を出し、宇喜多に床を設える。

「ああ、宇喜多さん、一寸座って待ってらしてください。お疲れでしょうから直ぐに御蒲団を御用意致しますので。ああ!そうだ。座蒲団をお出ししないといけませんわね」と言って、押入れから座蒲団を出し、畳の上に置く。「どうぞ。ここにお座りになってお待ちください」

「ああ、済みません」と宇喜多は言って、座蒲団の上に腰を下ろす。

 宇喜多は蒲団を出している高崎夫人の後姿を黙って眺めている。蒲団を抱える時などの声も宇喜多の心の耳で聞けば、まるで夜の夫婦生活の時の声を思わせる。宇喜多は高崎夫人の胸を背後から揉む想像をしている。宇喜多は高崎夫人の服を一枚ずつ剥ぎ取り、白い上下の下着まで脱がしてしまうと、高崎夫人を四つん這いにさせ、後ろから人妻の性器にワガモノを挿入する。宇喜多は高崎夫人の堅くなった茶色い乳首を中指と薬指の間に挿み、こんなに硬くなってと言うと、乳房を揉みながら、高崎夫人の飾り立てた品性の嘘に迫るとでもいうように、思いつく限りの卑猥な事を想像する。因みにこの日の実際の高崎夫人の下着上下の色は黒であり、高崎夫人の乳首の色は日本人には珍しいピンク色である。宇喜多は引き戸の右隣の床の間にある金色の五重塔のミニチュアの左隅にティッシュ・ペイパーの箱があるのを確認する。床の間には『必勝』と書かれた掛け軸が飾られている。掛け軸の『必勝』という言葉が宇喜多の心を妙に楽しませる。自分に全く関係のないような言葉が何も想わぬ宇喜多の心に意味もなく火を点けるように刺激してくるのだ。

 高崎夫人は引き戸を開けながら、「それではお疲れでしょうから御蒲団にお休みになってください」と言い、「御用の時は何なりとお申し付けください。それでは」と言って、引き戸を閉めながら外に出る。

 宇喜多は高崎夫人の遠ざかる足音に耳を澄ます。高崎夫人の足音が聞こえなくなったところで、宇喜多は床の間のティッシュ・ペイパーの箱を近くに置くと、座蒲団の上で少し大きくなった性器を外に出す。それを数十秒手で扱く。宇喜多は射精した精子をティッシュ・ペイパーで受けると、紺のスラックスの右のポケットの中に仕舞う。宇喜多は汚れた背広と靴下とワイト・シャツとタイを脱ぎ、白いパンツとランニング・シャツだけの姿で蒲団に入る。宇喜多は蒲団に身を横たえると、眼鏡を枕の後ろに置き、しばらく天井を見ている。高崎夫人が部屋を去り、自慰行為も済まし、それで少し宇喜多の緊張感は和らいでいる。年のせいか、宇喜多はやはり、相当に疲れている。宇喜多はゆっくりと瞼を閉じ、間もなく眠りに落ちる。


 宇喜多はダイニングテーブルの席に腰を下ろし、朝食を食べている。右隣には妹の姿をした妻がいる。前には高校生の息子がおり、時々宇喜多の若い頃の野球部員の友人の姿になる。その息子の隣には同一の姿を保った娘がいる。照明は点滅し続け、家具は移動と変化を繰り返している。宇喜多の身長は安定せず、ダイニングテーブルの左右の空いた席に座る人物がいない。その座っていない左右の開いた席には料理が用意されている。その料理が色々な料理に変化している。宇喜多は酷い頭痛がし、額に脂汗を掻いている。宇喜多はその汗を拭きたくとも、ズボンのポケットにハンカチーフがない。テーブルの上にはちり紙も布巾もない。自分の前のテーブルが醤油や油で汚れている。手に持った茶碗や箸を置く清潔な場所が見つからない。早く食べてしまえば良いので、宇喜多は急いで御飯を掻き込む。それがなかなか噛み終えられない。喉の通りが悪い。咳をしたくてもテーブルに散らばりそうで出来ない。宇喜多は食事を中途で止めてでも、早く席を立ちたいと焦っている。誰も観ていないTVが大音量で点いている。そのニュースを聞こうとしている宇喜多の邪魔をするかのように、テーブルに腰かけた家族の話し声が大きくなったり小さくなったりする。宇喜多は躊躇いを捨てて食事を止め、さっとその場に立ち上がる。

 宇喜多は目覚める。宇喜多は酷い悪夢を見たせいで少し気分が重い。宇喜多は右手に腕時計を嵌めている事に気付き、時間を見る。正午を少し過ぎている。長い一日だ。まだ明日を拝めないのかと宇喜多は心の中で気の遠くなるような思いを言葉にする。宇喜多は重い溜息を吐く。宇喜多の腹が鳴る。宇喜多は蒲団から起き上がり、服を着て座蒲団の上に腰を下ろす。宇喜多が寝ている間に、床の間に小さなTVが置かれている。宇喜多はそのTVを点ける。珍しい動物の映像が放送されている。その番組の動物の映像を観ていると、宇喜多の心は楽しさで陽気になる。無意識的な心がTVに集中している。宇喜多がTVの画面から目を逸らそうとすると、直ぐまた画面に視線が戻る。目の大きな小さな猿がTVで紹介される。宇喜多はじっとそれに見入る。宇喜多の耳に廊下からの足音が聞こえる。引き戸の後ろ辺りで足音は止まる。ゆっくりと引き戸が開き、「失礼しまあす。まだお休みですかあ?」と高崎夫人が引き戸の隙間からそっと宇喜多に声をかける。

「起きてますよお」と宇喜多は高崎夫人の顔を生真面目な笑顔で見上げて言う。

「あら、ほんと。眠れましたか?」と高崎夫人が物柔らかな口調で宇喜多に訊く。

「はい、お蔭様で一眠り出来ました」と宇喜多が笑顔で答える。宇喜多は高崎夫人を見た途端、またいやらしい想像をし始める。宇喜多は高崎夫人の青い丈の短いスリムなデニムのパンツのスライド・ファスナーを手で下ろし、性器の方まで手を入れて、旦那だけじゃ満足しないんだね、ここがしたくて仕方ないんだろと言って、陰唇を右手の指で抓む想像をする。

「一寸トイレをお借りします」と宇喜多は言って立ち上がる。

「ああ、どうぞどうぞ」と高崎夫人が笑顔で引き戸の柱側に寄り、宇喜多に道を開ける。宇喜多はよろよろと立ち上がり、腰を引いてレストルームに向かう。宇喜多は屁っ放り腰で廊下を進みながら、「一番奥のでしたね」と自己確認を口に出す。

「そうです。二つ目のドアーがトイレです」と高崎夫人が少し背伸びをしながら、腕を前方斜め上に伸ばし、下に折り曲げた指先で宇喜多の頭の向こうを示して言う。

 宇喜多がレストルームの前に立つと、中から水を流す音が聞こえてくる。宇喜多がドアーの前で順番を待っていると、中からドアーが開く。出てきたのは高校生ぐらいの少女である。肩まで伸びた後ろ髪も顔の輪郭に合わせた前と横の髪も全て茶に染めた、子顔ですらりと背の高い、手足の長い細身の少女である。

「あら、節子、帰ってたの?そちらの方、宇喜多さんって仰るお客さんよ」と高崎夫人が母親らしい力の籠もった声で言う。

 宇喜多は黙ったまま少女と向き合う。少女の方も宇喜多の眼を直視し、自分からは挨拶をしない。僅かな沈黙の後、宇喜多は自分が少女の大きな黒い眼を見つめたまま何も言わずにいる事に気づく。

「あっ、あの、私、宇喜多と申します。今日からお宅に住ませて戴く事になりました。どうぞ宜しく御願い致します」と宇喜多は慌てて少女に挨拶をする。

 少女は不機嫌そうに眉を寄せ、老人の心理を読むように目を細めて睨む。宇喜多は挨拶が遅れた事に悪気がない事を示そうと、ハートを開いて向き合う。少女は照れ臭そうに笑顔を歪めると、明るい口調で、「節子です。宜しく御願いします」と宇喜多に挨拶する。節子はレストルームの前に立ち塞がり、ドアーの前から退こうとしない。宇喜多は気の利かない節子に焦れに焦れ、「あの、トイレをお借りしたいんですけど」と甲高くか細い声で懇願する。節子は人形のように変化のない笑顔で、「下のトイレ使って。二階は私専用なの」と非常に早口な素っ気ない口調で言う。宇喜多は節子の良心に向かって強く言葉に心を籠め、「判りました」とだけ言う。宇喜多はくるりと向きを変えて階段の方に進む。宇喜多は老人めいたぎこちない急ぎ足で階段を下りていく。

 一階に下りると、急いで宇喜多はレストルームに入り、用を足す。自慰行為に使ったティッシュ・ペイパーも一緒にトイレに流す。宇喜多はレストルームを出ると、左隣のドアーのない洗面所で鏡に映った自分の姿を見る。やっぱり、こりゃあ、随分と爺さんの姿になったもんだと宇喜多は心の中で呟く。髪は白く薄くなっている。皺や染のある色白な顔に目尻が力なく垂れ下がった小さな目が生真面目そうな銀縁眼鏡の奥に見開かれている。眉毛にまで白い毛が混ざり、口はおちょぼ口で、唇が厚く、鼻は鼻腔の広がった小さな団子っ鼻である。

 宇喜多は洗面所を出ると、またゆっくりと階段を上がる。宇喜多は二階の廊下に戻ってきて客間に向かう。宇喜多は階下の居間の三本の柱に支えられている二階の廊下を見やる。宇喜多の部屋の右斜め前の部屋だ。その部屋のドアー越しに高崎夫人が部屋の中の者と話をしている。そこに先程の少女の姿はない。

「全く・・・・」と高崎夫人が顔を顰めて呟きながら、宇喜多の方に歩いてくる。高崎夫人は不意に廊下で宇喜多と向き合う。高崎夫人は咄嗟に笑顔を浮かべ、女性らしい優しい口調の高い声で、「ああ、宇喜多さん、お昼の御用意が出来ておりますので、下に下りてきてくださいますか?」と言う。宇喜多は何度も頭を下げながら、「ああ!ありがとうございます!御馳走になります!」と心の籠もった礼を言う。宇喜多の足の裏に節子の部屋と思われる部屋の中から音楽のビートが伝わってくる。宇喜多は音楽の音が漏れてくる部屋の方を向き、「娘さんは音楽が好きでらっしゃるんですな」と高崎夫人に笑顔で話しかける。高崎夫人は力の籠もった鋭い眼で、「ルナシーです」と何か困ったような顔をして宇喜多に答える。

「娘さんがですか?」と宇喜多が驚いたように訊く。高崎夫人は笑いながら、「LUNACYじゃなくて、LUNA SEAって、語尾上がりの発音のバンド名なんですよ」と宇喜多に説明する。

「はあ・・・・」と宇喜多は拍子抜けした漏れるような声で言う。

 宇喜多が高崎夫人と一緒に階下に下りてくると、高崎氏は既に左右に延びたダイニングテーブルの左側の席に腰を下ろしている。宇喜多は高崎氏の真向かいの右側の席に案内され、椅子を引いて腰を下ろす。高崎夫人はラーメンの入った三つの丼と割り箸と水差しとグラスをそれぞれのテーブルの席の前に運ぶ。高崎夫人は水差しからそれぞれのグラスに冷水を注ぎ、「宇喜多さん、簡単な物で済みませんが、宜しければ召し上がってください」と宇喜多に昼食のラーメンを勧める。

「ああ、いえいえ、それでは御馳走になります。戴きまあす」と宇喜多がラーメンに合唱して言うと、「戴きまあす」と高崎氏も言って、箸を手に取る。高崎夫人は高崎氏の右斜め前の席の椅子を引き、浅く腰掛けると、「戴きまあす」と胸元で軽く合唱して言う。

 ダイニングテーブルの空いた席は宇喜多の右斜め前の二つと、左斜め手前の席、つまり高崎夫人の右隣の席である。昼食の料理は大きな焼き海苔とメンマともやしとチャーシューの載ったラーメンである。宇喜多にとっては朝食と昼食を兼ねる久々の食事である。

 宇喜多が麺を嚙みながら、「珍しいラーメンですな」と生真面目な顔で高崎夫人に言う。高崎夫人がラーメンを見下ろしながら、「ああ、一寸お口に合わなかったかしらねえ」と独り言のような小声で言う。

「いえいえ、美味しいです。なんて言うラーメンなんでしょうか?」と宇喜多が甲高くか細い明るい声で訊く。高崎夫人は背筋の真っ直ぐ伸びた姿勢で割り箸の両端を持ち、「和歌山ラーメンって言う、醤油豚骨ラーメンです」と笑顔で答える。宇喜多は高崎夫人の方には眼を向けず、丼に顔を近づけて麺を啜りながら、高崎夫人の説明を聴いている。

 麺を食べ終えた宇喜多がもやしを箸で突付いている。それを見て高崎夫人が、「もやし、お嫌いでしたら残してください」と申し訳なさそうな顔をして言う。

「いえ、嫌いじゃないんです。生野菜が苦手なもので」と宇喜多が甲高くか細い声で言って、口を尖らせる。高崎夫人が心配そうな顔で宇喜多を見て、「じゃあ、残してください」と労わるような口調で言う。宇喜多は丼から顔を上げ、「いえ、麺を食べた後に、こうしてよおく熱いスープで茹でて食べるんです」と楽しそうに言う。

「宇喜多さんは何処のお生まれですか?」と高崎氏が唐突に宇喜多に質問する。宇喜多が丼に顔を近づけ、「品川区の五反田で生まれ育ちました」と眼だけ高崎氏に向けて答える。

「私は市ヶ谷です。それより宇喜多さん」と高崎氏が笑顔で言う。宇喜多は顔を上げ、「はい」と改まったように身構えて返事をする。高崎氏は興味津々たる顔付きで、「今、御自分の生まれ故郷を仰いましたよね?」と宇喜多に確認する。

「ええ。ああ!ええ・・・・」と宇喜多は愛想笑いしながら、少し動揺したような口調で答える。

「どんな家なんです?」と高崎氏が畳みかけるように質問する。

「小さな一軒屋です。庭に小さな池もありました。父と母の顔も思い浮かびます。父は勤め人で、母は専業主婦です。私の名は孝です!宇喜多孝です!私には兄がいて、その兄が稔男と申します!」

 高崎夫人が慌てたように素早く数回夫の白いポロ・シャツの右袖を引っ張りながら、「亡くなった名刺の方よ」と興奮気味に説明する。

「宇喜多さん、失礼ですが、記憶喪失って言うより、物忘れに近いんじゃないでしょうか?」と高崎氏が申し訳なさそうに言う。宇喜多は自分の内面と向き合うようにして、「ええ。そうかもしれません。そうか、兄は死んだんだった」と寂しそうにか細い声で言う。高崎氏は割り箸を握った手を宙に浮かしたまま、「御家族はいらっしゃらないんですか?」と更に宇喜多に質問する。

「ああ。あっ!えっ?い、います!なるほど。御宅のお母さんが私の妻でした」

「何て言う名前ですか?」と高崎氏が訝しげに眼を細めて宇喜多に訊く。宇喜多は戸惑いを振り払い、「美春です」とはっきりとした口調で答える。高崎氏は落ち着いた口調で、「失礼ですが、宇喜多さん、美春は確かに私の母ですが、母の夫はあなたではありません」ときっぱりと否定する。高崎氏の眼には相手の心の動きを隈なく凝視するような大人の厳しさが表われている。

「公園で二人並んで花見をしているのが見えるんです。私はてっきりその女性が自分の妻だと思いまして、大変失礼致しました」と宇喜多が困ったように謝る。高崎氏は麺を噛みながら、そんな宇喜多の顔を厳しい眼差しで見つめる。

 すっかり自分の記憶に自信が失せた宇喜多が、話の筋通りに、「御主人のお生まれになったところもなかなか良いところですな」と会話を続ける。

「私は千葉なんです」と高崎夫人が明るい声で会話に加わる。宇喜多は高崎氏の返事を待たず、「千葉の何処ですか?」と高崎夫人の方に振り向いて訊く。

「松戸です」と高崎夫人が明るい口調で答える。宇喜多は高崎夫人の口から全く馴染みのない地名を聞いて、「松戸・・・」とただ夫人から聞いたばかりの地名を呟く。

「松戸は『マツモトキヨシ』が昔からあったところなんです」と高崎夫人が地元自慢をする。

「『マツモトキヨシ』。何ですかな、それは?」と宇喜多は高崎夫人の方を見て聞き返し、要約もやしを食べ始める。高崎夫人は僅かに笑みを顔に残しながら、「薬局です、有名な」と少し沈んだ声で答える。宇喜多はもやしを口に入れながら、「お店の名前は何と?」と横目で高崎夫人を見て、再度質問する。

「ですから、『マツモトキヨシ』です」と高崎夫人が楽しそうに言う。

「へええ、『マツモトキヨシ』ってお店の名前なんですか!珍しい店の名ですなあ」と宇喜多は無表情な顔で反応し、「私は余り千葉には詳しくないんです」と自分の事を話す。高崎夫人はそれでも尚宇喜多の関心を千葉に引きつけようと、「成田空港とかディズニーランドはご存知でしょう?」と千葉の話題を続ける。

「ああ、成田空港なんかは有名ですな」と宇喜多が成田空港の建設地に対する東京の人間独特の自分達の庭を自由に他所に広げたかのような思いで言う。「ディズニーランド?千葉に?知らないなあ」と宇喜多は態と知らないふりをして、考え込むように首を傾げて呟く。「ああ!東京ディズニーランドの事ですね!千葉のディズ二ーランドと聞いて、何かと思いましたよ(笑)!」と宇喜多は漸く思い出したかのような態とらしい皮肉を言う。高崎夫人はそれに対し、美女の笑顔とでも言うような動かない笑顔で、じっと宇喜多の眼を無言で見つめる。宇喜多はその動かない笑顔から身震いする程の女の恐ろしさを思い知らされる。

「宇喜多さんはお酒はいける口ですか?」と高崎氏が明るい口調で宇喜多に訊く。宇喜多は引き攣った顔に精一杯愛想の良い笑顔を浮かべ、「ええ、まあ、日本酒なら」と高崎氏に返事をする。高崎氏は意外そうな顔をして、「ビールは駄目なんですか?」と宇喜多に訊く。

「駄目なんですよ、ビールは。苦いだけで美味しくない。どうせ飲むなら、どっちかと言えば、日本酒の方が良いですな」と宇喜多が答える。高崎氏はからかうような眼で宇喜多を見て、「お酒の記憶もあるようですよ」と言う。

「ああ!はい!」と宇喜多は嬉しそうに甲高くか細い声で言う。

「それじゃあ、宇喜多さん、今夜一杯やりましょう。私はもっぱらビールなんですが、今日は私も日本酒をお付き合いさせて戴きます」と高崎氏が宇喜多との時を楽しみたい気持ちを素直な言葉で表現する。

「はあ・・・・」と宇喜多は溜息交じりの気のない返事をする。宇喜多は先程の高崎夫人の無言の仕打ちにすっかり疲れ果ててしまっている。宇喜多がちらりと再び高崎夫人の様子を窺う。夫人はまだあの動かない美女の笑顔とでも言うべき真顔でじっと宇喜多の眼を見つめている。年老いた宇喜多は高崎夫人の仕打ちにへとへとに疲れる。

 昼食を終えると、高崎氏が席から立ち上がり、宇喜多に親しげな口調で、「それじゃあ、宇喜多さん、私はまた仕事に出かけますので失礼します」と言って、再び仕事に出かける。

 宇喜多には高崎夫人と二人で居間にいるのは相手を美人と認めるだけに男として耐え難い緊張感がある。先の自慰行為の事で絶え間なく続く良心との葛藤にも疲れている。宇喜多はそそくさと二階の和室に引っ込む。宇喜多はあれだけの仕打ちを受けた後でも、まだ高崎夫人への性欲が残っている。本当に色欲というものは根深い動物的な本能である。

 宇喜多は客間に帰ると、緑色のボストン・バッグに目を止める。今日は何日だろうかと不意に宇喜多は思う。宇喜多は客間を出て再び階下に下りる。宇喜多はそのままドアーを開けて居間に入ると、高崎夫人の姿を探す。

「奥さん!一寸お聞きしたい事があるんですが!」と宇喜多は居間に声を響かせ、高崎夫人の声が返ってくるのを待つ。高崎夫人の返事はない。買い物にでも出かけたのかなと宇喜多は思う。宇喜多は再び廊下に出るために居間のドアーを開け、洗面所を挿んだ左右に二つあるドアーに視線を向ける。宇喜多の耳にはレストルームからの物音は聞こえない。奥さんが何処にいようと、うろうろと家の内外を探し回るよりは廊下で待っていた方が向こうの眼にも止まり易かろう。もしも奥さんがレストルームにいたなら、こんなところで待っていては失礼か。宇喜多の心がまごつく。その時、宇喜多の耳にドアーの向こうの居間から先程の高崎夫人の娘、節子の話し声が聞こえてくる。高崎夫人の声は聞こえない。節子が誰かと話をしているのは確かだ。宇喜多はその相手を高崎夫人だと思って、居間へのドアーを再び開ける。高崎夫人の姿は見当たらない。節子がダイニングテーブルの左にある真ん中の柱の所に置かれた電話機で誰かと話をしている。宇喜多がドアーの隙間から顔を覗かせると、背後に人の気配を感じた節子がドアーの方に振り返る。節子は受話器を手で蔽うと、はっきりとした愛情のある話し方で、「何?」と宇喜多に用件を尋ねる。宇喜多ははっきりとした物の言い方をする節子に圧倒されながら、「あのう、今日は何日でしょうか?」と怖ず怖ずと尋ねる。節子は遠慮なく率直な言い方で、「二〇一一年の五月二十四日。ねえ、今、友達と話中だから、もう用が済んだのなら、さっさと出てって」と言って、宇喜多を追い払う。

「五月二十四日ですか。済みません、お忙しいところ」と宇喜多は丁寧に節子に礼を言う。節子は宇喜多の顔を真顔で見て、家族の者に対するような遠慮ない言い方で、「良いから良いから、用が済んだのなら、早く出てって」と言って、面倒臭そうに宇喜多を追い払う。宇喜多はおどけるような口調で、「はいはい、判りました」と言うと、いそいそと廊下に出る。宇喜多は節子との言葉の遣り取りに小さな恋人に対するような愛を込めている。宇喜多は節子に対し、純粋な甘い気持ちになる。宇喜多はそっと外から居間へのドアーを閉める。随分と気の強い子だなと宇喜多は心の中で呟く。

 宇喜多は階段を上がって客間に戻る。宇喜多は客間の引き戸を閉めて再び座蒲団に腰を下ろす。かと思うと、宇喜多はレストルームに行くため、再び階段を下りる。宇喜多が居間のドアーの近くに来ると、先程の節子の声がする。

「お母さん、あたし、あの人見た事ある」と節子が言う。

「何処で?」と高崎夫人が飾り気のない話し方で言う。

「ここに引っ越してきた時、お祖母ちゃんと一緒に来た人よ」と節子が子供らしい口調で言う。高崎夫人は搾り出すような声で、「ええ、誰かなあ」と言う。「じゃあ、お祖母ちゃんがたった一度だけこの家に来た時っていうのは、確かお父さんがこの家を建てた年だから、お父さんが三十六歳の時ねえ。じゃあ、今から五年ぐらい前って事になるかしらね」と高崎夫人が節子に言う。

 宇喜多は便所で用を足すと、再び階段で二階に上がり、客間の前の引き戸を開ける。客間に戻った宇喜多はゆっくりと丁寧に引き戸を閉める。宇喜多は座蒲団の上に腰を下ろすと、すっかり呼吸が乱れ、荒い息を吐く。誰かが部屋のドアーの前で立ち止まり、引き戸をノックする。宇喜多は節子を意識し、「はい、どうぞ」と優しい口調で客間の中から返事をする。

 引き戸が開いて現われたのは節子の姿ではない。宇喜多は座蒲団の上に腰を下ろしたまま、ぽかんと口を開けて高崎夫人の顔を見上げる。高崎夫人はそんな年老いた宇喜多を笑顔で見下ろし、丁寧な優しい口調で、「あのう、もう少ししたら、お風呂にお入りください。今、お湯入れてますので」と言う。

 高崎夫人が去ると、宇喜多は畳に横になる。宇喜多はティッシュ・ペイパーの箱を近くに置く。宇喜多は節子の姿を眼前に想い浮かべる。宇喜多は節子の制服を脱がし、節子の股を開かせると、節子にワガモノを握らせ、モノが勃起したところで、節子の性器にワガモノを挿入し、『このじゃじゃ馬め!もう男なしでは生きていけないんだろ!毎日したいか!気持ち良いか!してくださいって言え!そしたらご褒美をやる!この淫売め!良い声出さないと止めるぞ!自分で腰を動かしてみろ!』と自慰行為の中の宇喜多はセックスに関して存分に現役ぶりを発揮する。実際の宇喜多はと言うと、もう自然には完全な勃起さえしなくなっている。老いて猶情欲は消えず、宇喜多は後先考えず、これから世話になろうという家の主の妻とその娘の両方をネタに淫らな自慰行為をやらかす。宇喜多は頑としてその行いを恥ずかしい事だとは認めない。男と女しかいない世界なんだから、こんな事はお互い様なんだ。男と女がいれば、考える事する事は皆同じなんだとすっかり開き直っている。

 宇喜多は階下に下り、居間へのドアーを開けると、「奥さん、お風呂に入らせて戴きます」と姿の見えない高崎夫人に言う。台所から高崎夫人が、「ああ、はい!どうぞ!」と言いながら、宇喜多の方に走り寄ってくる。「タオルや新しい下着と、主人の髭剃りや寝巻きを脱衣所に置いてありますので、宜しかったらお使いください。下着は主人に買っておいた全く使っていない新しい下着です。お嫌でなければお使いください」

「ああ、ありがとうございます。使わせて戴きます」と宇喜多は高崎夫人に深く感謝する。宇喜多は高崎夫人の自分の妻にした時の様子がありありと想い浮かんでくるような良妻賢母ぶりや、客としての自分を持てなす態度にいたく感心する。その宇喜多が高崎夫人と長年連れ添う愛妻家として、今度は愛情の籠もった夜の夫婦生活の交わりを想っている。宇喜多は記憶を失って路頭に迷っていた自分に快く宿を貸してくださった一家の聖域に、またしても精液を撒き散らそうとしている。宇喜多はそんな事にはお構いなしで、ただただ風呂場での自慰行為に気が焦っている。

 宇喜多は居間を出て一階の浴室のドアーを開けると、脱衣所で急いで服を脱ぐ。宇喜多は老人とは思えない程の性欲を募らせて風呂場に入る。風呂場に入った宇喜多は先ず念入りに体を洗う。石鹸の泡で全身を包んだ宇喜多はその泡を直ぐには洗い流さない。宇喜多は長い前戯の後、愛してるよと高崎夫人の耳元で甘く囁く。宇喜多はもったいぶったようにゆっくりとワガモノを挿入する。宇喜多は高崎夫人のか弱い喘ぎ声を想像しながら、ゆっくりと正常位で腰を動かす。宇喜多は夫人の体を反転させ、後背位で激しく腰を振って責め捲くる。宇喜多は限界まで責めて勢いよく射精しようとしている。それがモノを扱く手を握り直した途端に呆気なく射精してしまう。宇喜多は尚立て続けに二回目の射精に挑み、激しくモノを扱く。宇喜多は甲斐なく萎んでいくモノの感触を手の中に感じる。宇喜多はげんなりとした眼で宙を見上げ、悲しそうにモノを見下ろす。宇喜多は不完全燃焼のような結果に終わった高崎夫人との二度目の夢想の交わりにがっかりと気持ちが落ち込む。宇喜多はゆっくりと浴槽の中の湯に浸かる。窓の外で何か生卵のプラスティック・ケースに似た物を踏みつける音がする。宇喜多は素早く浴槽から立ち上がり、窓の外の隣家との境を壁で仕切った黴臭い細い脇道の左右を鋭い目付きで確認する。宇喜多は玄関の方に誰かの人影が立ち去るのを見る。何事もなかった事に安心した宇喜多は再び浴槽に浸かる。

 宇喜多孝。確かに自分の名だ。五反田の家は子供時代の記憶と深く繋がっている。美春さんは私の妻ではないのか。私に妻はいるのか。年が年だから、親しい人の事を思い出しても、必ずしも幸せな記憶ばかりとは限らないと宇喜多は心の整理をする。

 宇喜多は脱衣所で濡れた体を拭き、寝巻きを着て廊下に出る。居間のドアーの左隣にある階段下に黒い詰襟の学生服を着た小柄な中学生の男の子が立っている。

「始めまして、私、この家に住む事になりました宇喜多孝と申します。宜しく御願い致します」と宇喜多は丁寧に男の子に挨拶してお辞儀をする。男の子は階段の方を向くと、宇喜多の挨拶には答えず、黙って階段を上っていく。宇喜多はしばらく茫然と立ち尽くし、男の子が上っていった階段をずっと遅れて上っていく。

 宇喜多は客間に入り、座蒲団の上に腰を下ろす。緑色の大きなボストン・バッグを引き寄せ、バッグの中の札束を畳の上に並べていく。何と札束は一億ある。宇喜多は札束を見ながら、今後の事を考える。幾ら考えたところで、宇喜多にはこれからの人生に全く希望が見出せない。宇喜多は自分の家や財産や家族の事を考え、この一億円が自分にとって多いのか少ないのか、一体何のお金なのか、何か悪い事をして手に入れたお金なのではないかと考える。宇喜多は畳の上に並べた札束の上に大の字に横たわる。自分がこれから働いて一億稼ぐには一体何年かかるのだろうと宇喜多は考える。宇喜多は過去の記憶が蘇らない事をとても悲しく思う。宇喜多は目に溜まった涙を軽く瞼を閉じて押し出し、皺の寄った肉づきの良い小さな白い両手で拭う。

 部屋の外から引き戸をノックする音が聞こえ、「はい。どうぞ」と宇喜多は力なく答える。引き戸が開き、高崎夫人が明るく微笑んで、「夕食が出来たので下に下りてきてくださいませんか?」と言う。宇喜多は気分を一新し、外界の人との関わりに心を紛らわそうと、「はいはい、直ぐ参ります」と元気よく返事をする。宇喜多は札束を敷いた畳の上から素早く立ち上がる。少しでも早く部屋を出たいと思っている宇喜多の前に高崎夫人が開いた引き戸の通路に立ちはだかり、何処か怪しむような暗い声で、「そのお金、幾らあるんですか?」と宇喜多に訊く。宇喜多が沈んだような暗い声で、「一億です」と答える。

「わああ、凄い!」と高崎夫人が静かに驚きの声を漏らす。宇喜多は畳の上の札束の方に顔だけ向け、無関心に札束を見下ろしながら、「どういうお金なのかが判らなくて」と涙声で言う。高崎夫人は自分の疑いに胸の詰まるような後悔の念を抱きながら、「ああ・・・・」と大した言葉も思い浮かばずに意味のない反応を声に漏らす。高崎夫人には宇喜多の自分に対する疑惑をさっさと晴らしてあげたい気持ちもある。とは言え、宇喜多自身が思い出せないような過去の真実を赤の他人の自分が知る筈もないと、高崎夫人の心は無力感で一杯になる。高崎夫人は気持ちを切り替え、「さっ、下に行って主人とお酒を楽しんでください」と明るい声で言う。

 宇喜多は道を開ける高崎夫人の前を通って部屋を出ると、高崎夫人の先に立って階下に下りていく。居間へのドアーの前で立ち止まって俯く宇喜多のために、高崎夫人が宇喜多の代わりにドアーを開けてやる。高崎夫人は笑顔でドアーを手で押さえながら、視線は宇喜多の足下を見下ろし、「入って入って」と明るい声で宇喜多を一家の居間に招く。宇喜多はしょんぼりとした声で、「ああ、済みません」と言い、渋々と居間に入る。

 宇喜多は昼間と同じダイニングテーブルの右側の席に腰を下ろす。俯いた宇喜多はちらりと夕食を待つ高崎氏と先程の少年の姿を確認する。宇喜多の右斜め手前の席に座る少年は黙って俯いている。高崎氏は昼間と同じテーブルの左側、宇喜多の真向かいの席に座り、黙って新聞を読んでいる。赤い花柄の白い寝巻き姿の節子がタオルで濡れた髪を拭きながら、螺旋階段を下りてくる。高崎氏が新聞を畳みながら、漸く宇喜多が来ている事に気づき、「あっ、宇喜多さん、失礼しました」と言う。「宇喜多さん、それじゃあ、そろそろ一杯やりますか」

 宇喜多は努めて明るい顔をした甲高くか細い声で、「ああ、はい」と返事をする。高崎夫人は食卓に徳利を四本置き、御猪口を三つテーブルの上に置きながら、「熱燗で宜しかったでしょうか?」と宇喜多に尋ねる。宇喜多は潤んだ眼で微笑みながら、「いやあ、熱燗なんて戴けるような身分ではありませんが、熱燗は嬉しいですなあ」と明るい声で答える。節子は少年の右隣、高崎夫人の席の向いに腰を下ろす。節子の着席に続いて高崎夫人も昼間と同じ高崎氏の右斜め前、節子の向いの席に浅く腰かける。

「宇喜多さんはお仕事は何をされていたんですか?」と高崎氏が宇喜多にそれとなく質問する。

「古本屋です」と宇喜多が気さくに答える。

「へええ。古書店ですか。古書店は何処にあるんですか?」と如何にも関心があるような眼で高崎氏が訊く。

「大田区の蒲田です」と宇喜多は拘りなく答える。

 高崎氏は事情聴取をする警察官のような仕種で手帳を開きながら、「へええ、ちょっとメモを取りますんで、電話番号とご住所をお聞きしても宜しいでしょうか?」と宇喜多に訊く。宇喜多は高崎氏への恩返しに一家を自分の家の夕食に招待するつもりで、「ええ、良いですよ。では、宜しいですか?」と言う。高崎氏が明るい笑顔で、「はい、どうぞ」と言う。宇喜多は間違いのないように、一語一語はっきりとした発音で、「電話番号は03の****の****です。住所は大田区*******です」と言う。高崎氏は手帳を閉じて、「ありがとうございます」と言うと、手帳に視線を向けたまま固く口を結んで頷く。

「ところで宇喜多さん」と高崎氏が再び宇喜多に話しかける。宇喜多は高崎氏の抱く自分への親しみの情に精一杯応えようと、「はい、何でしょう?」と努めて気さくに返事をする。

「今、宇喜多さん御自身の口から御自分の御職業とお家の電話番号と御住所を直接私に教えてくださったんですよ」

 宇喜多はそれを聴いた途端、ありありと過去の記憶が蘇る。宇喜多は溢れんばかりの勢いで、「あっ!わっ、私、妻も息子も娘も母もいます!親父は去年亡くなりました!なるほど!ああ!あの一億円は私の本の外国での売り上げの印税分なので、私が好きな事に使おうといつも持ち歩いていたお金でした!私は**大学の文学部を卒業し、小説を書きながら、副業で古書店を経営していました!」と憚りなく自分の事を興奮気味に話す。高崎氏は得意気な顔で、「もうこれで思い出せない事はないでしょう?」と宇喜多に確認する。宇喜多は喜び一杯の顔で、「ええ。ああ、良かった!ありかどうございます!」と言うと、勢い高崎氏に向かって合掌する。

「もしかして、宇喜多さん、記憶を失った前日にお酒を飲みませんでしたか?」と高崎氏が心配そうに訊く。宇喜多は何故そんな事が判るのかと驚きながら、意外な事実を思い出したように、「ええ、飲みました」と高崎氏に答える。

「何か病気が御有りなんですか?」と高崎氏が真面目な顔で宇喜多に訊く。宇喜多は高崎氏の質問に気分を害し、「いいえ、病気なんて何も」と直ぐに否定する。高崎氏が疑いの眼差しで宇喜多を見ながら、「本当にお酒飲んで大丈夫なんですかね?」と確認する。宇喜多は記憶を失くす程酒を飲んだ事を反省しながら、「昨日は一寸酒の量が多くて、潰れる程飲みましたんでね」と恥ずかしそうに打ち明ける。高崎氏は宇喜多の眼の奥の心を深く見つめるようにして、「じゃあ、今日は少しにしておきますか?」と宇喜多の本心を確認する。

「ええ、その方が良いですな。それでは折角熱燗にして戴いたんで、少しだけ戴く事にします」

 高崎氏が徳利を掲げ、「それじゃあ、飲みますか」と言う。宇喜多も別の徳利を手に取り、御猪口に酒を注ぐ。高崎氏が酒の入ったお猪口を少し前に差し出し、「それじゃあ、宇喜多さんの記憶の回復に乾杯!」と言う。宇喜多は少し照れながら、「ああ、ありがとうござます」と言うと、同じように少し前にお猪口を差し出し、「乾杯!」と明るい声で言う。宇喜多はゆっくりと口の中で味わいながら酒を飲む。宇喜多は満足そうな顔で、「ああ、美味い!」と言うと、酒の辛さに固く眼を閉じ、酒が体に浸透する刺激を楽しむ。

「美味そうに飲まれますねえ」と高崎氏が笑顔で言う。「ああ、たまに飲む日本酒は良いですなあ。美味い!」

 高崎夫人が夫の顔を楽しそうに見て、「美味しいわね」と言う。節子が高崎夫人の真向かいの席から、「お母さん、あたしも飲みたい」と母親である高崎夫人に言う。

「じゃあ、一寸よ」と高崎夫人は言い、節子に御猪口を手渡し、酒を注ぐ。節子は少し口に含むようにして飲み、ゆっくりと味わう。

「どう?」と高崎夫人が節子に感想を訊く。節子は子供らしい笑顔で、「美味しい!何かもう顔が熱くなってきた!」と言う。

 高崎氏が真面目な顔で、「宇喜多さん、五年くらい前に、母の美春とこの家の新築祝いにいらしてくださったそうですね」と宇喜多に話しかける。宇喜多は居間の中を見回しながら、「ええっ?五年前ですか・・・・」と言って、遠い過去の記憶を思い出そうとする。「ああ!そうだ!兄の名義だったこの家の土地を高崎さんにお譲りする前に、確か美春さんと小学校の同窓会でこの家の土地の話をして、確か半値でお売りする話を私が持ち出したんです」

「ああ、そうです!確かに母の同級生からこの家の土地を安く売って戴いたんです」

「新築祝いの時に美春さんに招待されて、確か私来ましたよ。しかし、私、あんまりその時の事をよく憶えていなくて。いやあ、縁あってお邪魔したところで救われたんですな。本当にご迷惑お掛け致しました。私にも家族が待ってるんで、夕食を戴いたら、早く家に帰ります」

 高崎夫人が穏やかな優しさの籠もった口調で、「ゆっくりしていかれたらとも思いますが、御家族も心配されてるでしょうからね。それじゃあ、そろそろ御夕食にしましょうか」と高崎夫人が言って、テーブルの端に両手を置いて立ち上がる。高崎夫人はそのまま台所に向かおうとしかけて、節子の方に振り返る。節子は真っ赤な顔をして徳利からお猪口に酒を注ごうとしている。

「一寸、節子!飲み過ぎよ!」と高崎夫人が大声で節子に注意する。節子はとろんとした眼で、「だって美味しいんだもん」と言う。高崎夫人は半分笑ったような顔をして、「あなた、顔真っ赤よ」と節子に注意する。宇喜多は節子を見て微笑んでいる。高崎夫人が申し訳なさそうに宇喜多を見て、「申し訳ありませんが、娘がお酒を飲み過ぎるんで片付けさせて戴きますね」と言う。宇喜多は節子の方から高崎夫人の方に視線を移し、「ああ、はい。美味しいお酒を御馳走になりました」と言うと、軽く頭を下げる。

「宇喜多さんはどんな小説を書かれるんですか?」と高崎氏がそれとなく宇喜多に訊く。

 宇喜多は申し訳なさそうな眼をして、「若い頃からずっと幻想怪奇小説を書いています」と答える。

「何と言う御筆名で?」

 宇喜多は一種独特な落ち着きを見せ、「湯田才司と言います。多分、ご存知ないでしょうね」と笑顔で言う。高崎氏は眉間に皺を寄せ、「ああ、私、小説は時代小説しか読まないものでねえ」と申し訳なさそうに言う。高崎氏は宇喜多の右斜め手前の席で存在を忘れるくらい静かに俯いて座っている息子を見て、「学は知ってるかもな」と言うと、前のめりに顔を突き出し、「知ってるか、学?」と学に訊く。学は顔を上げ、「知ってる」とぽつりと無表情な顔で答える。

「学君は小説は読むだけですか?」と宇喜多が切っかけを掴んで学に話しかける。学は畏まった態度で暗い眼差しを宇喜多に向け、「ウェブで書いてます」と宇喜多の質問に答える。宇喜多は学の警戒心を解こうと、気さくな口調で、「ペン・ネームは何て言うんですか?」と学に質問する。

「怪赤尾です」

「今度読ませてください。かいって、怪しいの怪ですか?」と宇喜多が楽しそうに学に訊く。学は歪んだ暗い笑みを顔に浮かべ、彼なりに打ち解けた態度で、「はい」と素直に返事をする。

「あかおは?」と宇喜多が興味有り気に学に訊く。

「赤い尾っぽです」と学は歪んだ笑顔で言うと、直ぐに宇喜多の反応に身構えるように無表情な顔に戻る。

「ほう。ウェブ小説のペン・ネームは少し変わってますからな。名前らしくないんですよね?」

 学は眼を輝かせ、「はい」と返事をする。宇喜多は自信に満ちた作家然たる態度で、「字画なんかは変に収まりが良いと、人生や人間を詰まらなくしますからなあ。赤尾は良いですね。苗字は少し変えた方が良いかもしれません。古田赤尾なんてどうです?」と言う。高崎氏が笑顔で学の方を見て、「ほう、湯田さんの一字を貰った訳だ」と言う。宇喜多は恥じ入るような慌てた顔で、「いやいや、そういうつもりで言った訳ではありません」ときっぱりと否定する。宇喜多は椅子の背にそっくり返って顎を引くと、「どうします、学君?」と学の意見を確認する。学はぎこちない笑顔で、「古田赤尾にします」と言うと、突然素早く席から立ち上がり、螺旋階段を駆け上がる。節子以外の全ての者が二階に走り去る学を眼で追う。学の部屋は二階の廊下の手前、節子の部屋の左隣にある。宇喜多は何が起きたのかと酷く動揺し、高崎夫妻の顔を交互に見る。高崎氏が顔を歪め、「一寸変わった子でしてね」と宇喜多に打ち明ける。宇喜多は笑顔で高崎氏に、「私も子供の頃はよくそう言われました」と言う。

 学が螺旋階段を駆け下りて来て、宇喜多の前に湯田才司の全著作を置くと、「サインしてください!」と元気良く言って、両手で宇喜多の右手にペンを握らせる。宇喜多は孫程も年の若い愛読者から尊敬の念を示されると、自分でも照れ臭く思う程の素直な笑顔で、「ああ(笑)、はいはい」と返事をし、老作家の喜びを噛み締めるように味わう。

 宇喜多は長年の全著作に一冊ずつ丁寧にオートグラフしていく。

 宇喜多が全著作にオートグラフすると、学は元気良く、「ありがとうございました!」と礼を言って、本を持って螺旋階段を駆け上がる。高崎夫人が夕食をお盆に載せて居間に来る。

「学!御飯よ!何処行くの?」と高崎夫人が二階に走り去る学を見上げて言う。

「宇喜多さんにサインして戴いた本を大切に部屋に置きに行ったんだろう」と高崎氏が困ったような笑顔で妻に言う。

 学は螺旋階段から駆け下りてくると、目を輝かせて自作の小説の原稿を両手で宇喜多に差し出し、「あのう、湯田先生、これ、僕が書いた小説の原稿なんです。宜しければ読んで戴けませんか?」と言う。宇喜多は学の眼を見て、「おお!そうですか。そのお年でもうこんなに長い作品を書かれたんですか。それじゃあ、この原稿、一寸お借りして、大切に家に持ち帰ってから拝見させて戴きます」と機嫌良く丁寧な口調で言う。

 夕食はしめじと鶏肉のサワー・クリーム煮と鰻重である。

 夕食のご馳走を前にした宇喜多が高崎夫妻の前できつく目を閉じ、しゃくり上げるような男泣きで止め処なく涙を流しながら、「本当にお世話になりました。私はてっきり記憶喪失だとばかり思っていたので、実は半分諦めていたんです。記憶が戻ってみたら、元の宇喜多孝と湯田才司の半分ずつの人間になり、色々と差し出がましい事も申しましたが、皆さんには本当に感謝しております。ありがとうございました」と言って、心から高崎家の人達に感謝して、頭を下げる。高崎氏がとても親しげに、「宇喜多さん、学も大好きな作家さんの全作品にサインを戴いて、おまけに原稿まで読んで戴けるので本当に嬉しそうにしています。堅苦しい事は抜きにして、また気楽に一杯やりにいらしてください。それでは宇喜多さん、御家族もお帰りを待っていらっしゃるでしょうから、そろそろ夕食にしましょうか」と宇喜多に言う。

「それでは戴きまあす」と高崎夫人が言うと、皆一斉に「戴きまあす」と言って夕食を食べ始める。泣いた後の食べ物の味がしない事ぐらい、宇喜多とて子供の頃の経験でよく知っている。それでも宇喜多は本当に深い感謝の念を抱きながら、高崎家の人々との夕食を楽しむ。

 一同夕食が済むと、高崎夫人が明るい声で、「それでは宇喜多さん、急いで帰り支度をしてください。その間にタクシーを呼んでおきますから」と宇喜多に言う。宇喜多は非常に満足げな顔をして、甲高くか細い声で、「ご馳走様でした。大変美味しい御夕食でした。それではそろそろ帰り支度をさせて戴きます」と言って、椅子から立ち上がり、高崎夫人に開けてもらったドアーから廊下に出る。階段下で高崎夫人が明るい声で、「それではタクシーが来ましたらお呼び致しますので」と宇喜多に言う。宇喜多は夫人の眼の見つめ、「ああ、済みません。色々とご親切にありがとうございます」と言って、軽く頭を下げる。

「それでは失礼します」と宇喜多は言うと、くるりと向きを変えて階段を上り、客間へと廊下を進む。宇喜多は客間の引き戸を開け、高崎夫人が自分の後を追って抱きついてくるような予感がして階段の方に振り返る。振り返った宇喜多の背後に高崎夫人の姿はなく、宇喜多は引き戸を開けっ放しにして客間に入る。宇喜多は畳の上に両膝を突き、緑色の大きなボストン・バッグの中に札束を手早く揃えて仕舞う。宇喜多は高崎氏から借りている寝巻きを脱ぎ、元着ていた服に着替える。宇喜多が帰り支度を済ませると、高崎夫人が開いた引き戸の前に立ち止まり、引き戸の板を数回ノックする。高崎夫人は宇喜多の丸い小柄な背中に向かって、「宇喜多さん、タクシーが来ました」と明るい声で伝える。宇喜多はにこやかな笑顔で高崎夫人の方に振り返り、上機嫌な声で、「ああ、ただ今参ります」と返事をする。

 宇喜多は緑色の大きなボストン・バッグを右手に握り、階段を下りていく。高崎夫人も宇喜多の後から階段を下りながら、宇喜多の白髪の後頭部に、「また遊びにいらしてくださいね。学も喜びます」と言う。宇喜多は慎重に一段一段階段を下りながら、甲高くか細い嬉しそうな声で、「そう言って戴けると、また私も皆さんと一杯やりに来れますなあ」と言う。宇喜多が階段下で玄関の方に廊下を曲がると、既に高崎家の人々が玄関まで宇喜多を見送りにきている。宇喜多は廊下で高崎夫人の方に振り返ると、本当に申し訳なさそうな真面目な顔をして、「ああ、あのう、奥さん、申し訳ありませんが、メモ用紙一枚とペンをお借り出来ませんか?」と高崎夫人に訊く。

「はいはい、一寸お待ちくださいね。只今持って参ります」と高崎夫人は言って、直ぐ傍のドアーを開けて居間に入る。高崎夫人は慌てたような様子で電話代の上からメモ帳とペンを持って宇喜多のところに引き返してくる。

「どうぞ!メモ用紙とペンです」と高崎夫人は言って、宇喜多にペンとメモ用紙を差し出す。

「ああ、ありがとうございます」と宇喜多は唇を引き締めて力の籠もった小声で感謝する。宇喜多はとても手馴れた素早さでメモ帳の上にペンを走らせる。

「メモ用紙を一枚戴きます」と宇喜多は言うと、硬い板を撓らせるようなお辞儀をして、メモ帳から一枚メモ用紙を剥がす。宇喜多は力んだ声で、「こちらはお返しします」と感謝しながら、高崎夫人の胸元にペンとメモ帳を差し出す。

「はいはい、もう宜しいんですね」と高崎夫人がペンを重ねたメモ帳を受け取り、明るい声で言う。

 宇喜多は玄関に集まる高崎家の人々の脇を通り過ぎ、玄関で靴を履いて家の中に振り返ると、「ありがとうございました。それではお邪魔しました」と笑顔で言って、高崎夫妻にお辞儀をする。宇喜多は学に親しみの籠もった温かい口調で、「学君、これ、私の家の古本屋への地図です。宜しかったら遊びにきてください」と言って、学の右手を掴み、その右手を両手で包み込むようにして紙片を握らせる。学は敬愛する作家・湯田才司から手渡された直筆の地図を満足そうに繁々と眺める。節子はそんな学の様子を右隣から訝しげな眼差しで見下ろしている。

「それではお世話になりました」と宇喜多は笑顔で別れの挨拶をすると、高崎家の人々への感謝の念を募らせ、また泣き出す。宇喜多は涙声で、「美味しいものを色々と御馳走様でした。皆さんもお元気で!さようなら!」と高崎家の人々に最後の別れを告げる。

 宇喜多は高崎家の人々に家の外まで見送られ、家の前に止まったタクシーに乗り込む。宇喜多は五十過ぎぐらいの髪の薄い色黒で小太りな運転手に、「JR蒲田駅西口のアーケイドの中の【幻影館古書店】までお願いします」と行き先を告げる。

「はい、畏まりました」と運転手が言う。

 宇喜多は走り出したタクシーの中から家の外に見送りに出てきた高崎家の人々の方を振り返り、姿が見えなくなるまで手を振る。


 タクシーが蒲田のアーケイドの中にある【幻影館古書店】の前に止まる。運転手が後部座席を振り返り、居眠りをしている宇喜多に、「お客さん、着きましたよ」と声をかける。目を覚ました宇喜多は、「あああ、よく寝た」と言って、運転手に料金を支払う。宇喜多は開いたままの左のドアーからシートの上で小刻みに腰をずらしながら、苦労してタクシーを降りる。

 宇喜多の古書店内は皓々と灯が点いている。宇喜多は何の躊躇いもなく店の中に入り、いつも通りに店内で店番をしている妻に向かって、「ただいまあ!」と元気よく帰宅を告げる。宇喜多の姿を見るなり、店番をしていた女性がさっと立ち上がる。長い白髪を後ろで束ねた化粧毛のない痩せた女性で、年は宇喜多とそう変わらないように見える。女は宇喜多の顔を見つめたまま、何も言わずに立ち尽くす。

「綾子、俺は幽霊じゃないぞ!」と宇喜多はその女性に言って、微笑みかける。宇喜多は店から家の中への沓脱ぎに一段上がり、腰を屈めて、手を使って靴を脱ぐと、そのまま家の中に入り、早速高崎家に電話を入れる。

「ああ、もしもし、宇喜多です」

『ああ、宇喜多さん!』と高崎夫人が明るい声で電話に出る。

「ただいま家に帰りました。本当に今日はお世話になりました」

『無事にお帰りになられましたのね。御家族の方々が心配されてるでしょう?』

「ああ、これから説明するところです。今日はありがとうございました」

『いえいえ、こちらこそ』

「それではお休みなさい」

『お休みなさい』

 宇喜多は丁寧にゆっくりと電話を切る。

「あなた、何処に行ってらしたの?心配したわ」と宇喜多の妻である先の女性が宇喜多の直ぐ後ろに立って言う。宇喜多は店から直ぐ上がり込んだところにある八畳程のフローリングのダイニングルームの四人掛けの食卓の左奥の席に腰を下ろす。宇喜多は笑顔で、「ああ!疲れた!」と言って、漸く安心して疲れた体を休める。「いやね、銀座で酒飲んで潰れてよ。朝目え覚めたら、記憶が全部ねえんだよ。どう言う訳か兄貴の財布持って出かけたみてえでよ、宇喜多稔男ってのが自分かもしれねえと思って、家を捜しに行ったらよ、後で知ったんだが、小学校の同級生の息子さんの家が建ってて、そこの人がほんとに良い人でな、そこでしばらく厄介になる事になったんだよ。そこで一日話してる裡に少しずつ記憶が蘇ってきてよ、全部思い出したところでたった今家に帰ってきたところよ」

「何だかあんたの小説みたいに随分と夢見たような話だわね」と宇喜多の妻の綾子が呆れたように言う。宇喜多は笑顔で、「まあ、言われてみりゃ、そうだな」と言って、食卓の上にある『ミニあんぱん』を一つ掴んで齧る。綾子は特別怒った風でもなく、穏やかな口調で、「結婚してから一度も朝帰りはないし、こんな遅くまで帰ってこなかった事もなかった人だから、本当に心配したわよ」と言う。宇喜多は『ミニあんぱん』を噛みながら、誠意ある顔付きで、「済まんな」と心を籠めて綾子に謝る。宇喜多は食卓の上に山積みされた古本を喰いかけの『ミニあんぱん』を掴んだ右手で下から上に指でなぞる。綾子は宇喜多の向いの席に腰を下ろしながら、目尻に皺を寄せた笑顔で、「まあ、無事帰ってきたんだから良いけどね」と言う。宇喜多は随分とぶっきら棒なふて腐れたような口調で、「今日はもう寝る」と言う。それを聞いた綾子はさっと席から立ち上がり、「じゃあ、今、蒲団敷くわね」と言う。

「ああ、いい!いい!自分でやる。お前は店番してろ」と宇喜多は心の中ではもっと妻の気持ちを気遣える優しさがありながら、ぶっきら棒な言い方で妻を引き留める。

 宇喜多は二階の窓のない四畳半の寝室に上がっていく。宇喜多は四畳半の窓のない寝室の薄暗い蛍光灯の下で自分の蒲団だけ敷くと、水色と白の縦縞の寝巻きに着替える。宇喜多は寝巻き姿で再び階下に下り、台所の空間内にある階段下の洗面所で歯を磨く。歯磨きを終えた宇喜多は台所にある白い大きな冷蔵庫から冷水の入った水差しを出す。宇喜多はグラスに冷水を一杯注ぎ、渇いた喉に流し込む。宇喜多は店番をしている妻の後姿に、「それじゃあ、綾子、先に休むからな。後は頼んだぞ」と甲高くか細い声で言って、二階の寝室に再び上がる。二階の寝室の蛍光灯の電気を豆電球の灯に変えると、宇喜多はもそもそと蒲団の中に入り、疲れた体を横たえる。宇喜多は赤い豆電球の灯をぼんやりと見つめる。宇喜多は大きく鼻から安堵の息を吐き、瞼を閉じると、間もなく眠りに落ちる。


 宇喜多は人通りの多い小さな商店街を歩いている。突然強い向かい風が吹いてくる。宇喜多はくるりと向かい風に背を向ける。その振り返った長い商店街は今の今までずっと宇喜多が歩んできた自らの半生の道程である。未来に向かって歩もうと、立ち止まって過去を振り返ろうと、自分が無自覚なまま通り過ぎた大切な物事は沢山あるだろうと宇喜多は思う。宇喜多は自分の死が刻々と近づいている事を強く意識している。宇喜多は自分にとって新しい事を始めるに当たり、過去を振り返ったり、未来を想う。そういった個人的な関心事の全てが自分が本当に知りたいと切に願う事から遠ざけているように宇喜多は思う。宇喜多は大勢の人達と共に生きてきた筈の半生を振り返る。宇喜多は今の自分の周辺には誰一人仲間がいない事に気づく。助け合って生きてきた友を再び訪ねようか。また新たな人との出会いに全ての希望を託そうかと宇喜多は考える。宇喜多は目に見えない何かにしがみ付き、その目に見えない何かを手放せないでいる。それは一度掴んだら二度と手放せないような、人間ならば誰もが必要と感じる物事だ。それでいて、代わりの物を得たならば、いつでも手放せる。宇喜多は商店街の自分の左右を行き交う人の群れの中で立ち尽くす。宇喜多が今深く考えねばならないと感じている物事は寂しさや悲しみについてである。自分の中に欠落しているような物事ではない。その問題について今ここで深く考えねば、必ず手遅れになってしまうだろうと宇喜多は思う。その宇喜多の頭の中の大切な問題点への注意力が大気の中の風のように流れ去ろうとしている。宇喜多はその問題点への注意力を自分の中に留めておく事が出来ない。

 宇喜多の意識にゆっくりと目覚めが近づいてくる。宇喜多は目覚まし時計も使わず、いつものように翌朝五時に目覚める。窓のない四畳半の同じ寝室の隣で妻がすやすやと気持ち良さそうに寝ている。宇喜多はそんな妻の寝姿を静かに見つめる。宇喜多は妻を起こさないようにそっと蒲団から出る。宇喜多は寝巻きから服に着替える。宇喜多は寝室を出て、静かに階下に下りていく。宇喜多は赤と白のチェックシャツを着て、紺のスラックスと白い靴下を穿いている。

 宇喜多は暗い台所の階段下の洗面所の灯を点ける。宇喜多は早速歯磨きと洗面と髭剃りを済ませ、几帳面に洗面所の灯を消す。宇喜多は暗い台所から暗いダイニングルームへと入り、電気を点け、再び暗い台所に戻る。宇喜多は冷蔵庫から生卵を一つ取り出し、卵の実を入れるための器と御椀を食器棚から出す。炊飯器から御椀に米を一杯盛り、卵の殻を器の角で割り、器の中の生卵に醤油をかける。宇喜多は卵の殻を流しに捨て、箸と御椀と卵の入った器を自分の席の前の食卓の上に置く。宇喜多は昨夜と同じ食卓の自分の席に腰かけ、御椀の温かい米の上に箸で掻き混ぜた生卵をかける。ダイニングルームの中の音は時計の針の動く音だけである。宇喜多はそんな静かな食卓で、ひんやりと冷たい醤油の味の効いた生卵掛け御飯をよく味わって、掻き込むようにして食べる。朝食を食べ終えた宇喜多は箸と御椀を食卓の上に置き、椅子の背に凭れる。宇喜多は右手の人差し指で歯に詰まった米を取り、それをよく前歯で細かく噛み砕いて飲み込む。宇喜多は腕を組んで肩を交互に上げ下げし、骨を鳴らして体の疲れを抜く。更に宇喜多は頭を左右に動かし、首の骨を鳴らす。宇喜多はゆっくりと気持ちを落ち着けていき、執筆の精神状態に至るまで心を慣らしていく。宇喜多は朝食に使った御椀と器と箸を流しに持っていく。宇喜多は自分できちんと皿洗いをし、乾燥籠の中に洗い物を入れる。宇喜多はシャッターを閉めた暗い店内に下り、電気を点ける。宇喜多は右側にレジスターのある机の上のPCに向かって、椅子に腰かける。宇喜多は間違いのないように慎重にPCを起動させる。ここからが宇喜多の開店前までの執筆時間なのである。

 宇喜多は一昨日までの原稿の内容をしっかりと憶えている。宇喜多にとって、今、何よりも重要なのは昨日一日の出来事である。宇喜多は小説の下書きとして昨日一日の出来事を克明に気紛れ日記に書き込んでいく。

 六時半になると、妻の綾子が階下に下りてきて、「お父さん、おはよう」と店内にいる宇喜多に挨拶をする。宇喜多はPCと向かい合ったまま、妻の方に振り返りもせずに、「ああ、おはよう」と普段通りの親しげな挨拶をする。宇喜多は妻と朝の挨拶を交わすと、再び執筆に集中する。


 七時になると、宇喜多は勝手口から外に出て、自転車を外に出す。宇喜多は自転車に乗って出かけていく。宇喜多はとても慣れた動作で自転車を漕ぎ、かなり広範囲にゴミ集積所を見て回る。辺り一体可燃ごみの日である。宇喜多は自転車を漕ぎながら、五十代ぐらいの男のホームレスに、「よう、松林さん、何か良いのあったかい?」と親しげに声をかける。松林は厚手の黒いジャンパーと深緑色の迷彩のズボンと黒いゴムの長靴姿で、白髪交じりの黒く脂ぎった長い髪と不精髭を生やし、垢塗れで真っ黒になった人の良さそうな優しい顔をしている。松林が親しげな明るい濁声で、「良いのがあったら、後で持っていくよ。もうこの辺には何もないよ」と宇喜多に親しい近所の友人に話しかけるような気楽な口調で言う。

 宇喜多が思い出した自分の日常は本当に好ましい生活であった。幸せ一杯の生活をしていたのだなと宇喜多は思う。記憶が蘇ると、宇喜多は生活習慣と自分とを別々に捉える事は出来なくなる。いつも通りに自分の生活習慣を繰り返し、執筆と店の仕事を行うだけだ。


 二〇一一年五月二十四日、宇喜多孝、六十歳に起きた出来事は彼の心に幸せな生活に対する神への感謝の心を芽生えさせる。昨日、高崎学少年は宇喜多に出会い、宇喜多が敬愛する幻想怪奇小説家・湯田才司だと判った。学少年はその憧れの湯田本人から『古田赤尾』と言うペン・ネームまで貰った。学少年は喜びの頂点に達し、プロの小説家を目指す決意をした。まだ中学二年生の若さである。学少年は湯田に作品を手渡し、湯田からの感想を待っている。学少年は湯田からの返事が返ってきたら、湯田本人に直接弟子入りする覚悟でいる。

 一方、宇喜多は文学的な転機を迎えている。湯田才司としての幻想怪奇小説作品は長編が九作、中編が四作、短編が二十八作ある。宇喜多は湯田才司としての幻想怪奇小説の作品の数には十分に満足している。

 宇喜多が食卓は昼食を食べながら、店のレジスターの前で背を向けて座っている妻に、「もう幻想怪奇小説は書かない」と打ち明ける。綾子は少し頭を後ろに傾け、「何か他に書きたい事でも見つかったんですか?」とそれとなく宇喜多の心境の変化を確認する。宇喜多は綾子の作った炒飯を食べながら、「いいや、まだ見つかってない。この店があるから、ゆっくりと今後の事を考える時間は十分にあるだろう」と答える。綾子は宇喜多の方に振り返り、夫の突然の気変わりに対し、愛情に満ちた口調で、「お好きなように!」と夫の決意に対する寛容さを示す。綾子は夫の書く物に対しては一切口を挟まない。宇喜多は炒飯を食べながら、「俺は夢見るようにぼんやりと世界を見る癖があるからなあ。これからはもっとはっきりとしたものを見る眼で小説を書きたい」と綾子に言う。

「じゃあ、小説の神様とでも言われるような作品を沢山書いてくださいな」と綾子が大した考えもなく、宇喜多にでさえ本気とも冗談とも付かぬような言い方で応援する。宇喜多は楊枝で歯の掃除をしながら、おどけたような口調で、「小説の神様ってお前、随分と安っぽいもんを目標に挙げてくれるじゃないか」と言う。

「でも、小説の神様って言われたら嬉しいでしょう?」と綾子が暇潰しに始めた話題を無闇に長引かせる。宇喜多は学の小説の原稿を読みながら、満更冗談とも言えぬ真面目な口調で、「そりゃあ、まあな」と綾子の質問に答える。綾子は店のPCに映し出された宇喜多の昨日一日の出来事の途中原稿を読み終え、「これ、本当に昨日一日の出来事なの?」と訊く。宇喜多は綾子の感想を期待し、「そうだ」と簡単に答える。綾子は少し頭を後ろに反らせ、「あなた、もしかして、痴呆症じゃないでしょうねえ?」と宇喜多の脳を心配して訊く。

「馬あ鹿。酒だよ。酒の飲み過ぎ。ああ、『ワンカップ』飲みてえ」

「買ってきましょうか?もうないかしらねえ。買い置きがあったと思うんですけど」

「禁酒だよ禁酒!」

「へええ!何日続くんでしょう、か!」

「記憶がなくなるってのはな、盲人になるように恐ろしいものなんんだよ」

「ああ、それでね」

「あんな経験は二度としたくない」

「記憶が蘇って、ほんとに良かったわね。昨日一昨日はほんと心配したのよ」

「済まないな」

「無事帰ってきてくれて良かったけどね。だって、結婚してから一度も、夜、閉店後出かけたり、朝帰りした事もない人だったから、何か遭ったんじゃないかなって、そればっかり心配して」

「済まん済まん」

「それ新作の原稿?」

「あっ、これ?お世話になった高崎さんの息子さんが書いた小説なんだ。まだ中学二年生の作品だよ。これがまたなかなか良く書けてるんだよ」

「どんな小説?」

「いやね、これがまた幻想怪奇小説でさ」

「随分と嬉しそうに話すわね」

「そりゃまあな。俺も湯田才司として長年幻想怪奇小説だけを書いてきた作家でもある訳だし、若い人が自分に影響されて同じようなジャンルの小説を書き始めたっていうのは何とも言葉では言い表せない嬉しさがあるよ」

「あなた、自分が作家だって事は憶えてたの?」

「まあ、昨日一日の事はそのパソコンの中にちゃんと全部書くから、続きは楽しみにしてろ」

「あなたってほんと作家よね。作品にしようとしてる事は何に関してもただ話して聞かせるような事はしないのよね」

「うん」

「うんじゃないですよ。妻から一切作品に興味を示されないような作家が大勢いるんですからね」

「お前は結婚前から俺の小説の愛読者だったからなあ」

「こんなに妻に関心持たれて生活してられる事を少しは感謝してくださいよ」

「うん。俺は幸せ者だよ。抜群に息の合った妻と結婚して、子供二人も無事成人して結婚し、その上孫の顔まで見れた。まあ、これ以上言う事も望む事もないわな」

「そうよ。でも小説は一生書くんでしょ?」

「まあ、小説を書く事は俺の本業だからなあ」

「あたしも最近、何かあなたみたいな才能があったら、もう一寸人生違ってたろうなあってよく思うの」

「お前には結婚前から何度も小説を書くようにって勧めてきただろ」

「私には小説を書く才能はないの。あなたが先に逝ったら、出家でもしようかなあって思ったりはしてるんだけどね」

「出家したいのか、お前?」

「思うだけよ。あなた達置いて出家なんて、心配で心配でとても出来ませんよ」

「色んなしがらみを解いて、本当に身も心も欲望や執着から自由になる事が出家して修行する事の目的だからな。お前の望みもそこまでではないんだろう」

「あたしは何やっても本物にはなれませんよ」

「俺もお前の事をもっと本当で気にかけていたなら、きっと何か始めるようにとは言ったろうけれど、仕事に追われて、古本屋までやってたから、お前の幸せについては全く確かめずに過ごしてしまったよ」

「あたしもそういう深刻ぶった心境に浸るのは苦手なんだけど、人生に関しては何かちょっと悔いが残っちゃうのよね」

「人生の主役の座を人に譲っちゃいけないよ」

「だったら、あなたとも結婚してないですよ」

「判らないものだ」

「人生に意味なんてものはそもそもないわ。仮にあるのだとしたら、それは神様だけに判るもので、人間には判らないものよ」

「お前はそれを判ろうとしてきたか?」

「人並みに人生の意味について自分に問い続ける事はしてきたつもりですよ」

「何でお前は俺と結婚したんだ?」

「あなたの書く作品世界が好きだったからですよ」

「俺の作品の何処が好きだったんだ?」

「悩みがないところ。生きる事に関して心にゆとりが感じられるところ。力強く生きる人間が描かれるところ」

「それは幻想怪奇小説の読み方じゃない!それは俺だよ」

「そうよ」

「女ってそういう風に本を読むものなのかな・・・・」

「全ての女性がそういう風に本を読むのかは判りませんよ。あたしがそういう風にあなたの本に接してきたのよ。私はれっきとしたあなたの作品の愛読者なんです」

「お前には小説を書いてみて欲しかった。俺は自分の妻が自分と結婚し、自分の文学を始める幸せをずっと夢見てきたんだ」

「あたしが自分の文学を始める事があなたの幸せと何の関係があるんですか?」

「文学ってのはな、書くだけでは満足も進歩も生まれないんだ。文学は語って進歩するものでもある。語る事によって何かに気づいたりする事もある。親しい人に自分の文学を始めるように勧める理由は、親しい仲にある人程その人の文学作品を読んでみたくなるからなんだ。話してる相手がこの人良い事言うなあって思った時に、それが受け売りでなく、自分の言葉なのかどうかをその人の文学作品を読んで確認したくなるんだよ」

「発言する言葉が人の受け売りじゃいけないんですか?」

「いけないって言うか、偽者と付き合うより本物と付き合う方が良いだろ?」

「誰だって本物には違いないじゃないですか」と綾子が鼻孔を膨らませて言う。

 宇喜多は妻に失望して言葉に詰まる。綾子は自分の発言に得意になっている。宇喜多は元通りの妻との生活に戻っていくために自分の考えを改めねばならぬような理由は何一つ見当たらない。

「あなたの言う本物とか自分の言葉って、一体どう言ったものなんですかね?」

「なるほどね。昔お前と同じ議論をした。その時俺は確か個性だと答えた」

「何かそんな事昔話しましたね」

「うん」

「今だったら何て答えるんですか?」

「俺もあんまり進歩してないな」

「そう。残念だわ。全く変わらないあなたに逢う事も、変わったあなたに遭う事も出来なくて」

「これからはお前の言葉を真面目に聴こうと思う。俺は素晴らしい妻を持ったよ」

「少し変わってきたって訳ね」

「全く情けないよ」

「どうして?」

「男が女に負けたようで」

「男らしいのがあなたの長所よ」

「男なんてものはちっぽけなものさ。男は皆少年の心のままなんだ」

「本当にそうかしらね」

「違うのか?」

「違うと思うわ」

「どう違うんだ?」

「少年の心のままで孫まで出来るような行為は出来ないわよ。所詮男は男、女は女。互いが心惹かれ合うように出来てるこの世界で自分の性や存在に自信のないような人間なんて何の価値もない存在ですよ」

「お前は意外と賢い女なのかもしれないな」

「それを認められるなら良いわ。あなたに対して失望もしません」

「若い人ならここで愛してるとか何とか言うんだろうけど」

「そんな言葉は望んでいませんよ」

「俺と結婚してくれてありがとう」

「いいえ、こちらこそどうもありがとうございます」と綾子は漸く満たされた思いで言う。綾子が力の籠もった目で宇喜多を見て、「それともう一つ。俺の文学はお前の文学だでしょ!」と言う。「お父様お母様にもそう言った?文壇の人だけでなく、親しい友達や出版社の人達にもそう言った?小説はね、大勢の人の存在があって出来るものなのよ」

 宇喜多は妻の眼が見通している事を恐れ、俯いてしまう。

「あなたの文学の魅力のないところはね、女性に対する敬意が払われていないところ。女性に対する畏怖の念を全く抱いていないところ。それともう一つ。女性に対する全面的な信頼がないところ。女は腕力では男には敵わなくても、心は男より強いの。男は女の愛を気分一つで撥ねつけ、捨て去る非情さがある。それは強さではないの。弱さなのよ。女は誰に対しても母性的な愛で接する事が出来る。感謝のない甘ったれた男が全ての女性に拒絶される時があるのを御存知かしら?それは女に対して自分が何者として女の愛を得ようとしているのかが曖昧な男なの。男は実の子に対してでさえ、父性的な愛が失われる事がありますよね?文学を志す人はね、皆我が強いの。皆自分は特別だと思って、謙虚な心、感謝の心がないの。小説を書くなんて行為は本来偉い事でも何でもないの。教えを書にするのは神様仏様だけで良いの」

「もっと人間ならではの文学の良さだってあるものだよ。俺にとって文学は生きる事そのものなんだ。飯を食う事より、女遊びをする事より楽しい事なんだ。俺から文学を取り去ったら、俺の幸せは全て失われてしまうんだよ。俺は文章を書いて生きてきた人間なんだ。作品あっての俺なんだよ。神や仏の書に役割りがあるように、人間の文学や芸術にだってちゃんとした役割りがある筈だよ」

「あたしはあなたのそういう何者にも縛られない自由さが好きなの」

「記憶を失ったら、自由というものが物凄く怖くなった。記憶を失っている間、俺は自分の決断次第で何者にでもなれるような心の自由を全く利用しなかった。生きてきた通りの自分だけを知りたかった。過去を知らずして前に進む事はとても不安な事だった。それを思えば、今の俺は本当に幸せだ」

「自由って、自分が何者かが判らないとただ恐ろしいものなの?」

「そうだよ」

「それで記憶が蘇るとまた自由を求めるの?」

「まあね。向上心が表われるんだ」

「自由って向上していこうとする意志の事なの?」

「少なくとも積極的な意味においてはそうだ。お話の筋道を追い、話を展開させていくのが人生だろ?」

「昨日の続きって事かしら?」

「確かに人間は昨日や今日の続きばかりで生きている訳ではないよ。昨日や今日の出来事というのはそれを一生続けて良いものかどうかを確認する程度にあるものだ。人生というのはもっと濃密で貴重な時間だよ」

「専業主婦って、毎日が同じ事の繰り返しよ?」

「繰り返されてる事は生活習慣ばかりじゃない。向上心がその人の生活習慣に大きな変化を起こす時に人生の転換期を迎えるんだと思うんだ」

「あなたが幻想怪奇小説を書くのを止めるって言ったような事?」

「そうだ」

 綾子はぼんやりと自分の人生について考え始める。

「あたし、またあなたの新しい作品が完成しては読むような事をしてあなたの後を追うのかしら。何かあたし、自分のやりたい事が全然判らないの」

「なら、料理教室にでも通って、自分の関心のある事を深めたらどうだ」

「料理教室にでもって、料理は私の生活の中の中心を占めるような大切な事なんですから、そんな簡単な言い方しないでください」

「確かに夫に美味しい物を作って食わしてやりたいっていうのは妻としての最大の喜びだからな」

「自分に出来もしないような事をそんな判った風な顔をして言わないでください」

「そりゃ悪かったな。確かにそんな事は俺には真似も出来ないよ」

「家事なんて何とも思っていないような男が出来ないなんて言葉を簡単に使わないでください。主婦なら誰でもやっているような極普通の当たり前の事だと思ってるんでしょ?お節介を広げて政治家にでもなれば、少しは世のため人のためになるような事もするのかもしれませんけど、大抵の女の一生なんて大した事も考えず、毎日家の仕事をして、お喋りに人生の大半をを浪費して、最期は残った家族の事を心配しながら死んでゆくだけですよ」

「お前は出家する事を考えてるんだな。俺と離婚するとか。俺はお前が自分の文学を始める事だけを願ってるんだよ」

「あたしは文学なんてやりませんよ」

「ならば、綾子、お前はもう自分のやりたいように生きなさい。出家したいなら直ぐにそうしなさい」

「ああ、そうだ!あたしもお昼食べなくちゃ!あなた、お店代わってくださる?」

「おお、良いよ」

 宇喜多は妻の心が揺れているのをそっと見守っている。人間、考える時はいつも独りだなと宇喜多は思う。宇喜多はそれを寂しくも感じる。妻とは人生の限られた時間内での伴侶なんだな。この妻と結婚して良かった。結婚して本当に得をしたと宇喜多は思う。

 宇喜多は綾子との日々を回想する。若い頃の宇喜多には結婚願望は余りなかった。自分の小説の愛読者だった今の妻からの熱烈な求婚に気を好くして結婚したのだ。綾子と歩んだ結婚生活は宇喜多が想っていた以上に幸せな時間だった。結婚して子供が生まれ、孫が生まれ、自分はあらゆる人間関係を経験し尽くしたと宇喜多は思う。

 宇喜多には信仰する特定の神がいない。宇喜多は幼き頃から想っていた名もなき神の事を思い出す。宇喜多は神仏に祈る習慣がない。心の中にはぼんやりとした神への感謝の思いがある。

 宇喜多は学少年の小説をまた読み始める。学の小説には幻想風景の描写が少なく、主人公の内面が十分に描き切れていない。宇喜多は学への手紙として、学の原稿の右脇に置いた便箋にそんな事を書きながら、学の原稿を読んでいる。

 宇喜多は学の小説を読み終え、原稿と手紙を封筒に入れる。宇喜多は切手を貼って学に送るだけになった郵便物を携え、「一寸郵便局に行ってくる。店の方頼むぞ」と家の中にいる綾子に店から声をかける。

「はあい!」と綾子は大声で返事をし、店に出てくる。「例のお世話になった家の息子さんへの手紙?」

「まあな。じゃ、行ってくる」

「行ってらっしゃい」

 宇喜多は店を出て、近くの郵便局に向かう。宇喜多は昨日の朝、突然、自分の記憶を失った。宇喜多は再び記憶が失われる事を非常に警戒している。宇喜多は高崎氏の言うように昨日の朝から夜までの出来事は記憶喪失と言うより一時的な物忘れに近いのではないかと考え始める。宇喜多は小説でフィクションを創作する事に関してはとても自由な勇気のある心を持っている。想像した事が本当に自分の現実になるなんて発想は決して抱かない。宇喜多は歩きながら自分の文学の方向性を絞っていく。宇喜多は昨日の朝から夜までの記憶喪失をよく振り返ってみる。

 宇喜多はアーケイドの商店街にある郵便局に入る。宇喜多はその郵便局で学少年宛の郵便物を出す。宇喜多は昨日一日の不思議体験を考えずにいられない。宇喜多はそんな不安の中でずっと神を求めている。宇喜多は地道に人生の栄光や確かな自信を築いてきた。そんな彼が昨日、初めて自分の過去に疑念を抱いたのだ。宇喜多は真っ直ぐに家路を辿る。宇喜多の頭は不安で一杯だ。再び記憶を失う事への不安で一杯なのだ。宇喜多は少しでも早く妻の許に帰りたいと願っている。そうせずには自らの記憶喪失が何時また起きるか判らず、それを防いでくれる神仏への信仰がまるでないのだ。この男の前世にはクリスチャンや仏教徒としての人生が綿々と続いている。聖人になるような神聖な人生は見当たらない。勿論、突出した個人の力で時代の頂点を極めるような事ばかりが人生の目的ではない。この男はこの男なりに生まれ変わりを通じて神仏への信仰を繋いできたのだ。

 宇喜多は無事に『幻影館古書店』に辿り着く。宇喜多は極度な精神不安の中にある。宇喜多は生まれ変わりを重ねた信仰の深まりを想っている。宇喜多は今生の妻との結婚を永遠の伴侶との出会いだと信じている。宇喜多はその事に特別な自信を持っている。実際には全く別の女性と結婚しているのだ。

 宇喜多は妻が店番をする『幻影館古書店』の店内に入り、「ただいま!」と言って、機嫌よく帰宅する。レジスター越しに腰かけた宇喜多の妻の綾子が愛情豊かな声で、「ああ、あなた、お帰りなさい」と夫の帰宅姿に応じる。綾子は自分の方に近づいてくる夫の姿をまるで機嫌の良い近所の老人でも見るように見つめている。宇喜多は無事に妻のいる店に帰宅し、すっかり男気を取り戻す。宇喜多は上機嫌な声で、「綾子!店番代わろう!」と言って、妻から店番を引き継ぐ。綾子は夫の存在の温もりを再確認する。綾子ははっきりとした声で、「はい。じゃあ、私は夕食の支度をしますので、あなたにはお店をお願いしますよ」と笑顔で言う。宇喜多は綾子が見せた女神のように安定した優しい声と言葉を聞き入れ、「うん」と素直な子供のように返事をする。

「ところで、あなたがこれから書く小説の方向性は定まったんですか?」と綾子が台所から宇喜多に話しかける。

「宗教文学を書きたいんだが、何しろ俺の信じる神は全く名も知らぬ神だから、先ずは信仰の神を捜して、その教え通りに生活してみようと思ってるんだ」

「あなたの心に昨日一日の出来事がそんなに影響したんですか!何だかあなたが変わるのって寂しいわね」

「そんな事言わずに、これからも俺を応援してくれよ」

「勿論するわよ。私はあなたの第一のファンなんですから」

「俺も漸くお前と共に生きる道に辿り着いた訳だな」

「まあ、そうですね。私はずっとあなたに寄り添って生きてきたつもりですけどね」

「夫の知らない妻の一面があった事に関しては俺も相当なショックを受けたよ」

「別に隠し事をしていたつもりはありませんよ。あなた本人と単なるファンとしての心の開きに人生の虚しさを感じたものですから」

「俺にはお前の人生をどうしてやる事も出来ない。俺が勧める作家の道を拒まれたら、俺が保障してやれる幸せな生き方は他に知らないんだ」

「私は信仰の道に進みますから、もう心配なさらないでください。私は信仰の道にちゃんと生き甲斐を見出しましたから」

「そうか。それで俺もお前の事には安心したよ」

「で、どうしてあなたは信仰の神を求め始めたんですか?」

「永遠の命と同じ価値のある人生を求め始めたんだよ」

「なるほどね。やりたい事をやりたいように生きてきて、死んだら、はい、お仕舞いって人生観じゃ虚し過ぎると」

「まあ、そういう事だな」

「判ったわ。それじゃあ、私は夕食の支度をしますから」

「うん」

 宇喜多は宇喜多は店の椅子に座り、名も知らぬ神に思いを寄せる。

「あなた!」

 宇喜多は妻の大声を聞いて、驚いて振り返る。

「おお、どうした、大声出して?」

「何度呼んでも聞こえやしない!」

 店内の時計を見ると、郵便局から帰宅してから一時間が経過している。

「ええ!もう一時間も経ったのか!で、何だ?」

「御飯ですよ」

「おお、夕飯か」

 宇喜多は家の中に入り、代わりに綾子が店に出る。

「カレーライスか。美味そうな良い匂いがするな」

 宇喜多は食卓の席に座り、生まれて初めて食前に手を合わせ、「いただきまあす」と言う。宇喜多は食事の美味さに感動する。宇喜多が考えているのは名も知らぬ守護神との半生の事である。宇喜多は六十年の人生で何度となくカリー・アンド・ライス を食べてきた。宇喜多はカリー・アンド・ライスに関しては一度も食欲がなくて残した事がなかった。宇喜多は自らの半生を振り返り、本当に幸せな人生を生きてきたと名も知らぬ守護神に感謝の念を抱く。

 茶色いレザー・ジャケットと灰色のスラックスと黒い革靴といった服装で、白髪に金縁眼鏡の、六十代半ばぐらいの背の高い痩せた男が、「今晩は!」と店の方から明るい声で挨拶する。

 綾子が明るい声で、「あらっ!森下さん、いらっしゃい!」と客に挨拶をする。

 森下が綾子に遠慮ない口調で、「旦那はいるかい?」と訊く。綾子は浮かれたような口調で、「ええ、主人なら今、夕食を食べてます。どうぞ、中にお上がりください」と言う。宇喜多は店の方を振り向くなり、「おお、久しぶりだね、森下さん」と席を立って客を出迎える。「さあ、入って!入って!」

「悪いね、夕食中に。私の事は気にしないで、ゆっくりと召し上がっていてください。私はしばらくお店の本でも眺めてますから」

「いやあ、もう食べ終えたところですよ。どうぞ、上がってください」

 森下は笑顔で、「悪いねえ。突然訪ねてきちゃって」と照れ笑いを隠しながら言う。森下は沓脱ぎに上がり、靴を脱いで家の中に入る。宇喜多は掌を上にして向かいの妻の席を示し、「どうぞ、そこにおかけください」と森下に席を勧める。「森下さん、東京には何時お帰りになったんですか?」

 森下は親しげな笑顔を恥ずかしそうに口許に覗かせながら、宇喜多の向いの席に腰を下ろし、「一昨日、息子夫婦のところに孫の顔を見に出てきたんですよ」と言う。

「何処も孫は可愛いものなんですなあ。私もそうです。お酒は何を?」と宇喜多は上機嫌な口調で言って、席から立ち上がる。

「ああ、じゃあ、ビール戴こうかな」

「ビールね。私はもう酒は止めました」

「へええ!湯田さんが酒を止めたの!」

 宇喜多は冷蔵庫から冷えたカンド・ビアーを出し、食器棚からジャグを出す。宇喜多は森下の前にジャグを置くと、「さあさあ、どうぞ!」と言って、ジャグにビアーを注ぐ。

「戴きまあす」と森下は言って、ジャグで冷たいビアーを飲む。

「森下さん、相変わらず絵は描いてますか?」

「ええ、描いてます。最近はよく神社の絵を描くんです。絵にする神社を探しに二、三日旅に出る事もあります」

「私もこの年で漸く信仰に目覚めました」

「いやあ、私は信仰未然です。私は神社の美しさに魅了されて、すっかり虜になってしまいましてね。色んな神社があるものです。どんな神社にも固有の美しさがあります。私の場合、信仰とかそういうんじゃなく、ただ神社に行って、神社という建築物を眺めるのが好きなんです」

「はああ。いやあ、森下さんはお幾つになられましたか?」

「今年で七十三歳になります」

「まだこれからもずっと絵を描かれるんですか?」

「ええ。人生これからですよ」

「私はもう幻想怪奇小説を書くのを止めにしようと思いましてね」

「ああ、それは残念だなあ。で、これからは何を書かれるおつもりなんでしょう?」

「宗教文学を始めようと思っていましてね」

「あああ、そうですか・・・・」

 森下は宇喜多の話に全く興味を示さずに言うと、湯田も詰まらぬ男になったと、ビアーまでも不味そうに飲む。宇喜多はそれを黙って見ている。宇喜多は森下とは以前のような親しい付き合いは出来なくなるだろうと思っている。

「それじゃ、私はそろそろ失礼します」と森下が唐突に言って立ち上がる。

「ああ、それじゃあ、また遊びにいらしてください」と宇喜多は言い、もはや引き止める理由もなく客を見送る。森下は黒い革靴を履いて店内に下りる。森下は家の中から見下ろす宇喜多と店にいる綾子の顔を交互に見て、「それじゃ、お邪魔しました」と言って、そのまま背を向けて店を出ていく。

「あなたもお友達が減っていくんですかねえ」

「じゃっ、店番代わろうか」

「あたしも付き合いは減ったわ。黙って疎遠になった知り合いも多いんですけどね」

「森下さん、何か昔のようには話が弾まなかったな」

「信仰に目覚めた途端だから、あなたも随分びっくりされたでしょうね」

「何て言うかな、よく知ってる過去の自分を見ているような気がするんだ。何だか森下さんが信仰に目覚めた自分を過去に引き戻すような存在に思えたんだ」

「そう!」と綾子が嬉しそうに右の人差指を宇喜多の胸の方に押し出して言う。綾子にだけ判って、自分は無自覚であるのが、宇喜多の心を酷くそわそわと落ち着きない気持ちにさせる。宇喜多は自分の胸を見下ろし、右手で何となく擦る。それを見た綾子がにやりと訳知り顔の笑みを浮かべる。

「綾子、ああ、いやあ」

「お酒?」

「うん、まあ、止めとく」

「それで本当に止め切ったら凄いわね」

「ああ!『ワンカップ』買ってくるから、店!店頼む!」と宇喜多は言い、足早に店を出る。宇喜多は近所の酒屋の自動販売機で『ワンカップ大関』を一本買い、震える手で蓋を開けると、ゆっくりと味わうようにして口に含む。宇喜多は少しずつ冷酒を喉に流し込む。

「うめえ!」

 宇喜多は周囲を見回す。通行人達は宇喜多の視線に気づくと振り返る。人々は宇喜多の顔や身なりをジロジロと見ながら通り過ぎていく。宇喜多が周囲の眼を意識した途端、宇喜多の意識に或女性の事が思い出されてくる。

「輝ちゃん・・・・」と宇喜多は悲しげに呟く。宇喜多は大学時代の自殺した女友達の事を思い出したのだ。沢井輝子は学生時代に精神分裂病(現・統合失調症)が発病し、三十九年にも亘る長き精神・神経科病棟での入院生活を経て、漸く去年退院した。退院後、実家で兄夫婦と同居していた沢井輝子は、それから間もなくして、実家の物置小屋で首を吊って自殺した。

「輝ちゃん、輝ちゃんは確かに通りすがりの人にちらちらと振り返られるような美人だったよ。きっとそうやって皆、輝ちゃんの噂話をあちらこちらからしてたんだ。気のせいなんかじゃなかったんだよね。あの時は気のせいだなんて言って、ほんとにごめんよ!」と宇喜多は沢井輝子の顔を想い浮かべて言うと、『ワンカップ』を地面に叩きつけ、商店街の酒屋の販売機の前にしゃがみ込んで大泣きする。

「一寸あんた!どうしたのよ!」と綾子が背後から宇喜多の両肩を掴んで言う。眼を閉じた宇喜多の周りには人だかりが出来ている。

「輝ちゃんはな、死んでやりたかったんだよ!」と宇喜多は泣き叫ぶ。

「長い長い時間をかけてね、時代が変わっていったの。精神障害者が漸く社会で普通の人達と一緒に暮らせるようになったのはとても素晴らしい事なのよ」

「輝ちゃん、酒が大好きだったんだよ。自殺した輝ちゃんの部屋には『ワンカップ』の空き瓶が積み木みたいに綺麗に何段も重ねて並べられてあったんだってさ」

 綾子は泣きながら、「判ったから、もう帰りましょ。あなたは何も悪くないの。沢井さんが三十九年ぶりに突然浦島太郎みたいにあなたの目の前に現われた時に、あなたがとっくの昔に結婚していて、子供も孫もいる生活をしているのを知った事は別に何もおかしな事ではないの。当たり前の事なのよ」と夫を慰める。

「俺、輝ちゃんの事、もう死んでしまった者のように忘れて暮らしてたんだよ」

 綾子は夫の両脇に手を通して立ち上がらせながら、爽やかな声で、「さあ!お家に帰りましょ!」と言う。

「俺、一昨日の晩、酒飲んで、とにかく飲めるだけ飲んで、実は死ぬつもりでいたんだ」

「あんたは神様に生かされてるのよ!もう前みたいな生活してちゃいけないんじゃないの?」

 宇喜多は綾子に体を支えられて店に戻る。宇喜多は綾子にレジスターの前の席に座らされる。綾子はその背後に立ち、宇喜多の両肩に手を置き、「さあ!あなたはここでこれから新しい自分の文学を始めるのよ!」と言う。

 世界が変わってしまったのだと宇喜多は思った。自分には綾子という理解者がいる。俺は幸せ者なんだと宇喜多は自分に言い聞かせる。


『輝ちゃん、俺は死ねなかったよ。俺はこれから信仰の道に生きるよ。俺は自分の力では到底判らない道の事を神様から沢山学んで、神様と共に生きようと思うんだ。

 輝ちゃん、縁あったら、またあの世で会おうな!輝ちゃん、またあの世で会えたら、今度こそは輝ちゃんの人生の話を幾らでも聴くからね。輝ちゃん、頼むから俺を怨まないでくれよな!俺も泣きたいだけ泣いたよ。輝ちゃんの分まで泣いて泣いて、もう涙も涸れてしまったよ。

 俺、輝ちゃんの作詞作曲したフォーク・ソングを今でも時々口ずさむんだ。輝ちゃんは俺の心の中にずっと一緒にいたんだよ。俺、輝ちゃんの事を忘れようとすればする程幸せだった頃の輝ちゃんを思い出して、歳月の隔たりなんて全く忘れてしまうんだよ。俺、輝ちゃんの事、ずっと忘れてなんかいなかったよ。このままでは自分が不幸になると思って、何度も何度も輝ちゃんの事を忘れようとしたけれど、結局、俺、輝ちゃんの事を忘れられなかったよ。俺、輝ちゃんとの思い出に浸っている時に、思い出からしか得られない幸せを感じて生きてきたんだ。

 輝ちゃん、病院の中で俺の小説をずっと読んでくれてたんだってね。俺、それを知った時、ほんとに嬉しくて泣いちゃったよ。

 俺の知ってる輝ちゃんは永遠の二十歳だった。現実の女房は年々年を取って、亭主の俺も同じように老けていく。輝ちゃんが会いに来てくれた時、俺、ほんとに嬉しかったよ。髪は白くなってたけど、輝ちゃんの心はやっぱり二十歳の頃のままだった。

 綾子が俺の余生の事を神様に生かされてるんだって言ってた。テレビで霊能者がよく言う受け売りの言葉だけれど、ほんの一寸俺にも意味が判ったんだ。

 俺はまだまだ死ぬ訳にはいかない。場合によっては文学だって止める覚悟は出来てる。俺はこれからまだまだ生きるよ。あの世の幸せを想って、信仰に生きようと思うんだ。

 俺、輝ちゃんにさよならなんて言わないよ。俺と輝ちゃんにお別れなんてものはないんだからね。それじゃあ、輝ちゃん、また思い出の国で会おう!』

 宇喜多はそのようにPCの中の私小説のラストシーンを書き込む。


 宇喜多が本を売りに来た客に、「ありがとうございました!」と言う。娘と電話をしていた綾子が電話を終える。綾子は靴脱ぎに足を下ろし、靴脱ぎの上の段を椅子代わりにして、腰を下ろす。

「しかし、不思議だなあ。何故酒飲んで死のうとしてた俺が態々箪笥の奥に仕舞ってた兄貴の財布なんかを持って家を出たんだろう・・・・」

「でも、確かに不思議よねえ。・・・・お兄さん、かしらね・・・・」

「えっ?」と宇喜多は心がぽっと温まるのを感じながら、咄嗟に妻の方に振り返り、驚きの声を上げる。「ああ、・・・・兄貴ね。まあ、不思議な事ってあるもんだな。俺には兄貴の財布を箪笥から出した記憶も、その財布を持って家を出た記憶も残ってないんだよ」

「そうなの。不思議ね」

「さあ!そろそろ店仕舞としようか!」

「ああ!そうですね」

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縁の園 天ノ川夢人 @poettherain

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