嵐、来たりて

霧友正規

第1話

「もし、どうかされましたか」

 その若い女性の声が自分に向けられたものだと気付くのに、少し時間が必要だった。

 

 時刻は間もなく日を跨ごうかという頃合い。夕刻から降り始めた雨は次第に勢いを増し、元より人気の少ない田舎に陰気な雰囲気を漂わせている。

 僕が座り込んでいたのは、駅舎にひっそりと置かれたベンチ。

 こんな時間と場所で、誰かに話し掛けられるなど予想の外であったし、ましてその女性の声に心当たりはなかった。一度聞いた声なら、忘れない自信が僕にはある。

「……もしかして、僕に声を掛けてくださったんですか」

「はい。何か、お困りなのではと思いまして」

 僕の反応を辛抱強く待ってくれていたのは、一目で高級だと分かる黒塗りの車の助手席から、身を乗り出した若い女性だった。

 僅かな明かりに浮かび上がる白磁の面に、穏やかな笑み。小振りな鼻が小さく突き出し、潤みを帯びて輝く瞳は驚いているかのように大きい。薄暗がりの中で分かったのはその程度だが、まず美人といって差し支えないだろう。

 下手をすれば派手すぎる印象になりそうな紫のワンピースを、嫌味なく着こなしている。車の窓枠にかけた手は、花嫁衣装のようなグローブで覆われていた。

「いえ、気にしていただくようなことでは……」

「もしかして、この雨のせいで」

「はあ。そんなところです」

 問い掛けに、相方への恨み言がスラスラと口から出た。

「友人に、『親戚の別荘を借りたから遊びに来い』と言われたのですが。なんでも、この雨では迎えに行けない、と……」

 風も勢いを増しつつある。たしかに、免許を取り立ての相方の腕前に期待する気にはなれない。

 ひなびた雰囲気がウリの別荘地である。駅舎の電灯を除けば、明かりの灯る建物一つない。現地に辿り着けば何とかなるだろう、という自分の見立ての甘さを呪うほかなかった。

「まあ、それは……」

 口元に手を当て、上品に驚きと同情を表した美女は、思案するように首を捻る。やがてポンと手を打ち合わせた仕草には、それまでとは異なる幼さが感じられた。

 いや――と、僕は自分の判断に修正を入れる。

 落ち着いた物腰や古風な物言いに気を取られていたが、改めて注意を向けてみれば、それらに反する幼さを、顔立ちや声に感じる。美女と言うより、美少女と言った方が適切な年頃なのかも知れない。

 女性、あらため少女が、手を胸元で合わせたまま言った。

「でしたら、我が家の別荘にいらっしゃいませんか? 大したおもてなしもできませんが」

「そんな、急にご厄介になるわけには」

「ほんの一晩のことですもの。遠慮されることはありません。わたくしもお話相手が欲しかったところですの」

 ありがたい申し出だ。渡りに船とは、このような状況を言うのだろう。

 何か裏があるのではと思ってしまうのは、僕の性格の悪さゆえのことだろうか。

 決断を促すように、少女は「さあ」と車の後部座席を手で指し示す。

「……それでは、恐縮ですが、ご厄介になります」

 そして、僕は彼女の別荘の一晩の客となることに決まった。

 僕とボストンバッグが後部座席に収まったのを見て、助手席の少女は楽しそうに一つ頷く。艶やかな黒髪が流れるように揺れた。

「出してちょうだい」

「はい」

 突然のやり取りに驚くが、直ぐに内心で苦笑する。まるで気配を感じさせなかったが、少女が助手席にいるのであれば、運転席には誰かがいるはずだ。目を向ければ、初老の男性が白い手袋越しにハンドルを握っている。

 ――いったい、どんなお屋敷なのだろう。

 否が応にも、期待が高まった。

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