第58話

「湊くん……?」


 腕の力が弱まって俺が固まっていた事に疑問を抱いたのだろう。先生が顔を上げて、怪訝そうにこちらを見上げる。


「──って、あっ!」


 俺の視線の先に何があったのか悟ったのだろう。

 先生は俺をどんと突き飛ばすと、ベッドに座ってその写真を胸に抱えるようにして隠した。恨めし気にこちらを睨んでいる。


「だから、いきなり来ないでって言ったのにぃ……」


 恨めし気というより、泣きそうな顔だった。もともと泣いていたけれど。

 おそらく急な来訪で隠しそびれたのだろう。なんだかその表情がとてもではないけれど年上に思えなくて、可笑しくなってしまった。

 先生の横に腰掛けてじっと見つめると、彼女は俺に背を向けるようにして写真を隠す。


「……それ、見せて下さい」

「やだ」

「どうして?」

「まだだめ」

「でも、さっきもう見ちゃいましたよ?」


 俺がそう言うと──また泣きそうな顔をしていたけれど──先生は観念したように写真を手渡した。


「人の秘密を見るなんて……湊くん、ひどい」


 地面にへの字でも書いていそうなくらい凹んでいたが、そんな彼女にお構いなしで写真を凝視する。

 その写真には、子供が二人写っていた。二人とも小学生の低学年くらいだろうか。ひとりは髪の長い可愛らしい女の子。これは先生だ。顔立ちに面影が残っているから、すぐにわかる。

 そしてもう一人写っていたのは、その女の子より少し背の低い男の子だ。歳は小学一年生くらいだろうか。その男の子は、女の子より見覚えがある。なぜなら、そこにいたのは何を隠そう──小さい頃の俺だったからだ。


「まじか……あの時のあの子、先生だったのかよ」


 この写真は……そう、この写真の中の女の子が急にデジカメを持ってきて、一緒に写真を撮ろうと言ってきたのだ。確か、一緒に行った駄菓子屋の店主に撮ってもらったのである。写真の中の俺は、初めて女の子と撮る写真に恥ずかしそうにしていて、対して女の子の方は満面笑顔だった。

 この写真を見て、ようやく諸々の合点がいった。

 先生にとって最初から俺が特別であった理由も、優しかった理由も、ファーストキスを捧げてくれた理由も……この半年間、わからない事だらけだった事は、おおよそこの写真が教えてくれた。

 小学校一年生の夏休みの頃だ。駅前でチンピラ風の男のズボンにアイスクリームをぶちまけてしまい、怒られて泣いていた女の子がいた。

 俺はその子を助け出した事を切っ掛けに仲良くなり、暫く一緒に遊んでいたのだ。でも、夏が終わる頃にはその女の子とは遊ばなくなっていて、俺の記憶からも抜け落ちてしまっていた。

 この写真を見て、少しずつ想い出してきた。

 この前先生の悩み相談を聞いた公園で俺達は待ち合わせをして遊んでいて、柳葉神社の夏祭りにも二人で行ったのだ。

 先生はきっと……俺に想い出して欲しくて、敢えて縁の多い場所を選んでいたのだろう。


「もしかして……先生の初恋の人って、俺ですか?」


 もう半分くらい答えはわかっていたけれど、敢えて訊いてみた。先生は案の定顔を真っ赤にしながら、こくり、と頷いた。


「じゃあ、何で今まで教えてくれなかったんですか! もっと早くに教えてくれてたら、俺もこんなに色々悩まずに済んだのに! しかもこの写真立てずっと伏せてあるし、俺がどれだけ気にしたと思ってるんですか!」


 色々理由がわかって安心した瞬間、その反動で腹も立ってきてしまった。もっと先生が早くにこれを教えてくれていれば、俺は半年間も悶々と悩まずに済んだのだ。


「そ、そんな事言えるわけないでしょ!?」

「どうして!」

「だって……初恋の人が忘れられなくて桜ヶ丘に引っ越してきて、ずっと子供の頃の写真も大切にしてて……しかも、覚えてるのが私だけとか、そんなの恥ずかしくて言えるわけ──」


 話している途中で自爆している事に気付いたのか、先生は顔を更にまっかっかにして、両手で覆ってしまった。


「先生」


 彼女の顔が見たくて、その手をどかそうとすると、亀の甲羅のように手を固めて顔を隠そうとする。


「やだ、見ないで。こんな顔、恥ずかし過ぎて見せられないから」

「見せて下さい。先生の顔、見たいです」

「やーだ!」

「先生? 年下でも、俺の方が力強いっていうの、もう忘れました?」


 両腕にぐっと力を入れて、先生の手を顔から引っぺがしてやる。すると、そこには……顔をまっかっかにして羞恥に悶え、泣きそうになっている先生の顔。


「やだ、見ないでってば……!」


 その表情が可愛くて、心の一番柔らかくて敏感な部分が、きゅっと締め付けられる。

 何とも言えない甘酸っぱい気持ちと彼女を愛しく思う気持ちに耐えられなくなって、先生を思いきり抱き締める。


「先生、好きです。めちゃくちゃ好きです……!」


 言葉で言い表せない気持ちを、何とか表そうと必死に言葉を探すが、小学生でも言えそうな単語しか出てこない。


「忘れてたくせに」

「そりゃ、だって……小一ですよ? 覚えてるわけないじゃないですか」

「私は覚えてたのに。ひどい」

「飲み会で強引に告られて好きでもない人と付き合っておいて、それ言います?」


 そう切り返してやると、先生は「うっ」と言葉を詰まらせた。再会できるとも思っていなかっただろうから、それを咎めるのも変な話だが、ちょっと意地悪をしたくなったのだ。


「でも……」


 彼女を抱き締めながら、髪の匂いをすぅーっと嗅ぐ。俺に萌えて欲しくて選んだシャンプーの香りがした。


「そいつに手ぇ出されなくて、本当によかったです……」


 たくさん彼女の香りを吸い込んでから、安堵の息を吐く。この香りも、この柔らかさも、ぬくもりも、もう全部俺のものだ。他の誰にも分け与えてやるものか。

 暫く抱き締めていると、彼女がぐすっと鼻を鳴らした。驚いて体を離してみてみると、また涙を流している。


「え、どうしました? 痛かったですか?」


 訊くと、先生は首を横に振って、鼻を赤くしたまま微笑んだ。


「嬉しくて……」


 笑った拍子に、一滴の雫が頬を伝って落ちる。その笑顔があまりに可愛くて、愛しくて、綺麗で。色々な言葉が浮かんでくるけれど、そのどれも合わなくて。

 彼女も言葉が浮かんでこなかったのだろうか。互いに黙って見つめ合っていると、そのままどちらともなく顔を寄せて──唇が優しく重なった。

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