第59話

 一度唇を重ねるだけのキスを終えてからは、先生が落ち着くまでずっと彼女を抱き締めていた。

 付き合う前の〝ご褒美〟では散々キスしまくっていたくせに、いざ気持ちを確認してからするキスは、軽く触れ合う程度の一回で終わってしまう。それがなんだか可笑しかった。

 今はキスよりも、互いの気持ちと感情を一番近くに感じ取りたいだけなのかもしれない。ただ彼女がそこにいて、自分を想ってくれて嬉しさで涙してくれる事が嬉しくて。そんな彼女の存在を、ただただ感じていたいのだ。


「家庭教師になったのも……偶然、じゃないですよね?」


 先生が落ち着いてきた頃、腕の力を緩めて向き合って訊いてみた。これだけの一致だ。偶然のはずがない。案の定、俺の予想は正しかったようで、彼女もこくりと頷いた。


「ちょうど春に、湊くんのお母さんと会って──」

「え、ちょっと待った」

「ん?」

「母さん、先生の事知ってたの?」


 衝撃的な真実がさらっと語られたので思わず聞き流してしまいそうだったが、今の言葉を聞く限りそうだったとしか思えない。

 俺のその質問に、先生は呆れたように大袈裟に溜め息を吐いた。


「私、昔湊くんちに行った事あるんだよ?」

「え!?」


 先生は当時、駅前ソフトクリーム事件で男の子に助けられた旨と、その男の子と友達になった旨を両親に伝えたそうだ。それを知った両親は、娘と共に俺の家まで御礼を言いに来たらしい。俺の方はというと、その時家にいなかったので、その現場には出くわしていない。どうせどこかに遊びに行っていたのだろう。後で話程度は聞いていたかもしれないが、十年以上前の話だ。覚えているはずもない。

 ともあれ、先生と母さんはそこで顔見知りの関係になっていたのである。そして、今年の春……駅で偶然母さんを見掛けた先生は声を掛けた。母さんも先生を見てすぐに思い出したそうだ。写真を見た今ならわかるのだけれど、先生は顔立ちなど小学生時代の面影を色濃く残しているので、気付く人は気付くだろう。

 偶然の再会に二人は懐かしさのあまりに喫茶店で話し込み、その際に話題で出てきたのが俺の成績が芳しくないというものだった。そこで先生が明大生という事を知った母さんが家庭教師を頼み込み、あれよあれよという間に話が決まったのだと言う。ママ友の紹介と言うのは、真っ赤な嘘だったのだ。


「嘘だろ……内緒にしてやがったのかよ、あの糞ババア……!」

「あ、お母さんにそういう口の利き方はいけないんだよ。それに、内緒にしておいてって言ったのは私の方だから」

「え? どうして?」

「恥ずかしかったのもあるけど、何も言わないで引っ越したから」


 気まずくて、と先生。

 先生のその気まずさは俺の記憶力の悪さの前では杞憂となったわけなのだけれど、気付いていそうな素振りがあれば、すぐに打ち明ける気ではいたそうだ。気付くまでは言うつもりもなかったらしい。おそらく先程写真を見ようとした時に『まだだめ』と言ったのも、その為だろう。俺が自力で思い出すまでは隠したかったようだ。

 ただ、この話を聞けば、母さんと先生が妙に連絡を取り合っていたのもわかる。普通、生徒の母親に『偶然会ったので夕飯一緒に食べます』とは、なかなか送らないだろう。しかもそれに対して『うちの息子を宜しくお願いします』だなんて、冗談とも本気とも取れないような返信をするわけがない。文化祭の件についても、わざわざ教えた事について違和感があった。でも、それもこれでわかった。二人はそれが送り合えるだけの仲だったのだ。


「はあ、なんだそれ……俺だけすっごい空回りしてた感じじゃないですか……」


 それにしても、先生と母さんがそんなところで結託していたとは、夢にも思っていなかった。二人のうちどちらかが教えてくれていたら、俺はこんなに悩まなかったのに。今こうして明らかになったからよかったものの、今日突っ込んでいなかったら、きっと俺は来年まで悩み続けていたのだろう。

 本当に、全く……女は自分勝手だ、と嘆いていた神崎の気持ちがよくわかった。こっちが悩んでいるなんて、これっぽっちも思っていない。


「えっと……それで、先生」


 深呼吸をしてから、もう一度先生を正面から見据えた。


「俺と、付き合ってくれるんですよね……?」


 発熱しているんじゃないかと思うくらい、自分の顔が熱くなっているのを感じた。それは先生も同じようで、彼女も顔を赤くしている。


「……うん」


 先生はそのまま優しく微笑んで、頷いてくれた。

 そして、身を乗り出したかと思うと──先生の方から、口付けてくれた。俺の唇を潤すように、水音を立てながら、何度も何度も口付けてくる。いつになく積極的な彼女を見て、我慢できるはずがなかった。その口付けに応えるようにして、彼女の唇を覆うようにキスをする。

 ただ、今日の先生はいつもと違った。先に先生の方が我慢できなくなったのか、俺の頬を両手で覆い、彼女の方から舌を絡ませてきたのである。

 互いの息が荒くなるまで、そうは時間がかからなかった。

 舌が絡まる水音と吐息だけが部屋を満たして、徐々に吐息の間に色っぽい先生の声が混じり始める。互いの舌が上下左右を行き合い、絡まり、吸い出し吸い出され……唇さえも舐め合った。彼女の舌が唇から離れると、唾液が外気に触れてひんやりする。その冷たさから逃れるように、また彼女の熱を探し回った。

 今までも激しいキスは何度も〝ご褒美〟でしたと思う。でも、付き合ってからする先生とのキスは……それまでのものと全く異なっていた。舌がじんじんと疼いて、頭もぼーっとうつけて気持ちが良い。離れたくなくなってしまって、何度も何度もキスを繰り返す。それはきっと先生も同じで、彼女は俺の頬をずっと撫でながら、一心不乱で舌を絡ませていた。

 こっそり目を開けて彼女を盗み見ると、彼女も同じくこっそり目を開けていて、目が合った。溶けそうなくらいとろんとした瞳で俺を見ていて、理性が吹っ飛びそうになってしまうのを必死で食い止める。

 唇を離すと、先生の頭をそっと抱え寄せて、その小さくて可愛い耳に舌を這わせた。彼女は小さく喘ぐと、びくっと体を震わせた。


「やだっ、耳やだぁ……!」


 抵抗されるけども、お構いなしに耳に舌を這わせる。まずは外側の耳輪、次に対輪脚、そして最後に舌先を尖らせて、外耳孔に突っ込んだ。ぬちゃっとした音が俺の耳まで聞こえた。きっと彼女の耳の中は大変な事になっているだろう。


「ん──ッ!」


 先生は必死に声を上げまいと口を手で押さえているが、隙間から快楽に悶える吐息と喘ぎ声が漏れていた。

 その時、ふとある事を思いついて、外耳孔から舌を抜いて耳に口を寄せた。そして──


「好きだよ、結月ゆづき


 彼女の名前を呼んで、耳にキスをした瞬間……先生は体をびくびくっと大きく震わせて、何かに耐えるように、俺の体をこれでもかというくらい強く抱き締めてきた。その間も体をびくびくと震わせている。

 驚いて体を離して彼女を見ると、熱い息を荒々しく吐いていた。


「あの、先生……?」


 大丈夫なのか訊こうとしたら、先生は羞恥に塗れた表情をしたかと思うと、いきなりぽろぽろと涙を零した。慌ててそれを隠す為に、自らの顔を両手で覆っている。


「え、ちょ、先生!? どうしたんですか!?」

「な、なんでもない! なんでもないから……ッ!」


 小さく咽び、自らの体を抱える。

 そんな彼女を見ていると、ちょっと調子に乗り過ぎたのかもしれないな、とこの時初めて気付いた。暴走しかけていた理性が戻ってきて、ようやく落ち着いてくる。

 危なかった。さっきの様子だと、行くところまで行ってしまいかねない勢いだった。

 まだ付き合って初日どころか、一時間も経っていないのに……ちょっと暴走し過ぎだ。俺も彼女もまだ恋愛に慣れていないから、お互いにストッパーの掛け方がわからなくて……おそらく 、今の俺達では進み過ぎたのだ。

 焦る必要はない。ゆっくり、ゆっくり進んでいけば良いのだ。焦って俺まで元カレのようになってしまっては、元も子もない。


「先生、ごめんなさい。ちょっと張り切り過ぎちゃいましたね、俺達」


 恥ずかしそうに顔を隠して咽び泣いている彼女をそっと抱き寄せて、その背中を撫でてやる。

 なんだかさっきからこんな事を繰り返している気がするけれど、きっと俺達は色々溜め込み過ぎていたのだ。溜め込み過ぎて、気持ちが結ばれた事が嬉しくて、暴発してしまっている。

 俺達はお互い恋愛にも、気持ちの伝え方にも、自分の限度にも慣れていなくて。その気持ちを伝えたいが為、自分の限界を超えてしまっていたのだろう。でも、その全部を今日全て伝えきる必要はない。ゆっくり、ゆっくりと進んでいけば良いのだから。

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