第36話 先生、無賃労働ですよ?

 約束の金曜日──ただお祭りに行くだけ、というわけではなかった。というのも、お祭りに行く前に先生宅でガッツリと勉強するという条件が加わったのだ。

 先生からすれば無償で俺に勉強を教えるのだから、無賃労働でしかない。それについて訊いてみると、


「受験生をお祭りに連れ出すんだから、これくらいはしないといけないかなって」


 だそうだ。

 普通なら、せっかくのお祭りなのに勉強なんて、と文句を垂れそうなものだが、もはや先生と一緒に居れるだけで嬉しい俺にとっては(しかもまた先生の家に行けるし)、文句など出ようはずもない。

 そんなわけで、今日は先生の家で、ひたすら昼から勉強である。ただ、いつもの授業よりも時間が長いので、結構ハードだ。


「そろそろ休憩する?」


 夕方四時を回った頃、彼女がそう提案してくれた。


「……さすがにちょっと疲れました」

「今日は凄く頑張ってるね。正答率もかなり上がってきてるし……何か良い事あった?」

「はい」

「何があったの?」

「先生がお祭りに誘ってくれました」


 正直に言うと、彼女は一瞬固まって、ボッと頬を赤くした。


「もう、口が上手いんだから。そんな事言ったからって、採点の手は抜かないんだからね」

「バレましたか」


 言うと、先生は可笑しそうにくすくす笑った。


「お茶淹れるから、ちょっと寛いでて。紅茶は飲める? アールグレイしかないんだけど」

「はい。何でも大丈夫です」


 先生はにこりと微笑むと、キッチンへととことこと歩んでいき、お湯を沸かした。

 俺はソファーにぐでっと横になって、先生の部屋を見渡す。

 ほんの数日前まで、ここに来れるなんて夢にも思っていなかったのに……なんだか、夢みたいだな、と思ってしまう。

 他にこの部屋に入れた人はいないと言っていたけれど、今俺は先生にとって、どれほど近い男なのだろうか。何番目に近い男なのだろうか。こんなに先生と距離が近い男が他にいたら……嫌だな、と思うのだけれど。でも、俺は彼女の事を何も知らない。今までどんな人と付き合っていて、大学ではどんな感じなのか、とか……知りたいけれど、知りたくない──そんな何ともいえないもどかしい気持ちを抱えている。

 そして、あの伏せられた写真立て。あれについては、更に謎だ。今日に至っては、部屋に着いた時点で眼に着く場所にはなかった。おそらく予めどこかに移動させられているのだろう。絶対に俺に見られてはならない、という意思すら感じる。

 こうして家に招いてもらっているのに、先生の事は何もわからない。でも、それも当然だ。俺はただの受験生で……ご褒美でキス生徒に過ぎないのだから。

 今日は前回の授業で出された宿題の添削と、その添削をしている間に先生が用意していた問題集をひたすらやる、という感じだった。今ようやく古文の添削が終わって、間違ったところの解説が終わったところだ。完全に生徒と先生という関係で、ラブコメムードなど一切ない。


(英語と古文は……まあ、結構上がってきたな。でも、現代文が不安定なんだよな。対策もいまいち何していいかわからないし)


 俺は自作ノートを見直しながら、小さく嘆息する。


「それ、何のノート?」


 先生が紅茶とクッキーを乗せたトレイを持って、キッチンから戻ってきて訊いた。


「ああ……えっと、演習問題とか模試とかで間違えたところを教科別でまとめたものです」


 と言っても間違えたところの解説を写しただけですが、と苦笑して付け加えた。


「わ、そんな事してたんだ? えらい!」


 先生が感心したように笑みを浮かべた。何だか、そうして褒められると悪い気はしない。


「そっか、それでだったんだ」

「え? 何がですか?」

「自分で気付いてるかわからないけど、湊くんって、一回間違えたところは次はほとんど間違えないんだよね。そうやってちゃんと復習してるからだったんだなって」


 言われてみればそうだった。同じところを間違えなくなったお陰で少しずつ成績も上がって行っている。


「……教えてる人が優秀なだけですよ」

「まあ、それも確かにあるかもしれないけど」

「おい」


 言うと、先生が舌を出して笑ってから、テーブルに紅茶とクッキーを並べた。


「このノート、私も見ていい?」

「はい、どうぞ。何か変なとこあったら教えて下さい」


 俺は英語と世界史の科目のノートを先生に渡してから、今間違えた箇所を古文ノートに書き写していく。

 実際に効果があるかどうかはわからないのだけれど、このノートを見返しているうちに、間違えた箇所は強く意識するようになる。ここに書いてある事は全て俺が一度間違えた箇所だからだ。加えて、二度間違えたものはそこにチェックマークを付けている。歴史科目や単語などの暗記モノについては、オレンジのペンで間違った箇所を書いて、赤シートで答えを隠せるようにした。これでセルフ問題集代わりになる。


「このノート、すごく良いと思う。復習だけじゃなくて、自分で作ってるから記憶にも残りやすいし……湊くん、私より全然優秀だよ」


 先生は一通りノートを見て、そう言った。褒められるのは嬉しいけれど、そこまで褒められるとちょっとこそばゆい。


「いえ、そんな。俺なんてまだまだです。この前の模試の判定もCだったし」

「ううん、違うよ」


 彼女はノートから俺に視線を移して、優しく、でもはっきりとそう断言した。


「こんなに短期間でもう〝C〟まで上がったんじゃない。それってすごい事だと思う。この調子で頑張れば、法学部も射程圏内じゃないかな?」

「そう、ですかね……?」

「そうだよ。湊くん、もっと自分に自信持っていいと思う」


 先生が俺の古文ノートに何か書きながら言った。


「あれ、何か間違ってました?」


 訊きながら、覗き込むと……そこには、『ここ注意!』という吹き出しと共に、俺を模した可愛いイラストが描かれていた。

 まだ描きかけだが、結構特徴を捉えていて上手い。女の子だなぁと思わされた瞬間だった。


「あ、やだ。まだ見ちゃダメ」

「すみません、見ちゃいました」

「もう……」


 先生は恥ずかしそうに自分の描いたイラストを見せた。


「こういうイラストもあった方が記憶に残りやすいかなって思って」


 先生がイラストを描いていた箇所は、俺が三回も間違えている所だった。何度も横にチェックが入っているから、先生もそれに気付いてイラストを描いてくれたのだろう。


「確かに……思い出しやすいかもしれませんね」


 何だかあたたかい気持ちになって、自然と笑みが浮かび上がってきて、彼女に微笑みかけた。すると、先生が少し驚いた顔をしてから、頬を染めて微笑み返してくれた。

 先生の可愛いイラストが注意喚起してくれていたら、四度目は間違えるわけにはいかない。何だか、こうした彼女の小さな気遣いが、俺は好きだった。


「もう少し休憩したら、キリの良いところまで終わらせちゃおっか」

「はい!」


 先生と二人きりの夏休み。それは、恋人でもなく友達でもなく、家庭教師と生徒でしかないのかもしれないけれど。でも、そんな肩書なんてどうでもいいと思うくらい、俺はこの時間を幸せに感じていた。

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