第32話 この天然小悪魔の天然発言何とかしてください。
さすがに鍋を弱火にしてからもう一度キスを、という空気にはならなかった。
先生はそのままキッチンから戻って来なくなってしまったし、俺は俺で、またソファーの方に戻るしかなかった。
さっき洗濯が終わって、乾燥機に俺の衣服を入れていたから、あと三〇分もしないうちに、服は乾くわけで……それさえ乾いてしまえば、帰るってのも、あり、なのかな。
(……帰りたく、ないな)
せっかく先生の部屋に来れて、初めて先生の本音が少しだけ聞けた気がするのに。
『誰にでも、するわけじゃ、ないんだよ……?』
先生の言葉が蘇る。
俺の空耳でなければ、おそらくキスの事だ。しかし、これがキスの事だとすると、先生は最初から俺に対して、キスをしても良いと思うくらい好意的な気持ちを持っていたという事になってしまう。それは嬉しいのだけれど、同時に、どうしてたった一か月家庭教師をやった程度の生徒に、そこまでの好意を持っているのだろうか、という別の疑問も浮かんでしまうのだった。
扉の隙間から見える先生の横顔はもう泣いてなく、どこか機嫌が良さそうな感じすらする。ただ、その横顔からは彼女の本心は何も読み取れなかった。
◇◇◇
三〇分ほど経過して、乾燥機はもう止まっていた。でも、先生はそこから洗濯物を出そうとする気配もなく、「ご飯できたよ!」と笑顔で言ってくれた。まだ俺は、ここに居てもいいという事なのだろうか。
「えっと……俺、ご飯よそいます」
「うん、じゃあお願い」
先生はしゃもじと二人分の茶碗を渡して、にこりと微笑んでくれる。
炊飯器の前まで行って、炊き立てのご飯を茶碗によそっていく。先生は無言でシチューを容器によそい、テーブルに運んでいた。テーブルの上には、ビーフシチューと、先生が即席で作った青野菜シーザーサラダが並んでいる。
テーブルまで茶碗を運ぶと、先生は「ありがとう」と御礼を言ってから、少し座る場所をずらしてくれた。そして、彼女の横に並んで座って、目の前の料理を見てふと思う。一体何の夢を見ているのだろうか?
「品数少なくてごめんね? 来るってわかってたらもっとたくさん作ったんだけど……」
「いえ、十分です! 先生の手料理食べれるの嬉しいですし」
「そう言ってくれると嬉しいな。あ、シチューはたくさんあるから、おかわりしてね」
「は、はい!」
二人で『いただきます』を言い、シチューを口に運ぶ。
「……美味しい」
思った以上に美味しくて、何のひねりもない感想しか出てこなかった。肉がとろけていて、よくわからないけれど何かのハーブの匂いがうっすら鼻を通っていって、味をより美味しく際立たせている。
「ほんと? よかったぁ!」
先生が嬉しそうに微笑んでくれた。
その笑顔が、さっきまでの気まずさなど全て吹っ飛ばしてしまいそうなくらい可愛くて、思わず視線を逸らす。
無音だと少し気まずいと思ったのか、先生はテレビをつけて、適当なバラエティー番組を流していた。
「あっ……そういえば」
ふとテレビに表示された時間を見ると、もう八時に差し掛かろうかという時間帯になっていた。走りに出てから随分時間が経ってしまっている。しかも、親には『ちょっと走りに行ってくる』と一言言ったきりだ。
「どうしたの?」
「俺、今スマホ持ってなくて、親に連絡してないんですよね……母さん、心配してるかも」
「ああ、えっと……それなら」
先生が自分のスマホを取り出して、俺に見せてきた。
「さっき『偶然湊くんと会って、ご飯一緒に食べる事になりました』って、お母さんに連絡しちゃった」
「え!?」
「あ、もしかしてまずかった?」
「いえ、まずくはない、と思いますけど……」
それに、事実だし。お風呂を貸してもらって押し倒した後に、というものは伏せられているけれど、嘘ではない。
「母さん、何か言ってました?」
「うん、『うちの子を宜しくお願いします』ってさっき返信着たよ?」
先生がスマホを開いて、母さんとのLIMEトーク履歴を見せた。
それを見て、母さんも先生とLIMEを交換していた事に驚く。キスのご褒美やら諸々を考えると、とても危うい橋を渡っていたと思う。もし母さんにチクられていたら、俺はきっと地獄を見る事になっていただろう。
それにしても、『うちの子を宜しく』って……別の意味に捉えられるのではないのか。いや、そう捉えてもいいのだけれど。
でも、まあこれでもう少し先生の家に居ても平気か。
「おかわり、いる?」
先生が空になったシチューの容器を見て、訊いた。
「はい、是非!」
「こうやっていっぱい食べてくれるの、すごい嬉しいかも」
先生はにこにこしながら、キッチンへと立った。その際にふわりと彼女の香りが鼻腔を擽って、思わずどきりとする。
「チャンネル替えたかったら好きに替えていいよ」
「いえ、これで大丈夫です」
俺の前にシチューのお代わりを置きながら言った。
正直に言うと、テレビなんてあんまり見ていない。見ているふりをして、彼女を横目で盗み見ているので精いっぱいだ。
先生は芸人の下品なギャグに「やだ、もう。汚い」と可笑しそうに笑いながら、テレビから目を逸らした。ちょうど芸人の出川のケツがアップになったところだ。
「もう……食事中なのに。ね?」
先生がこちらを困り眉で見て微笑んでくるのがとても可愛くて、それだけで幸せ一杯になってしまう。
それからテレビを見ながら好きな芸人について話しながら笑いつつ……幸せな食事の時間を過ごしていた。
「もし……」
その時、ふと先生がテレビを見ながらぽそっと呟いた。
「もし、同棲とかしたら、こんな感じ、なのかな……」
「はい!?」
どうにも聞き逃せない言葉が聞こえてきて、驚いてそちらを見ると、先生も自分の声が漏れていた事に気付いたのだろう。
あっと声を上げて、顔をかぁっと赤くしている。
「ちがッ、そういう意味じゃなくて……ッ!」
あたふたして否定しているが、じゃあむしろどういう意味で受け取ればいいのか教えて欲しい。
この天然! 天然小悪魔! どれだけ俺を惑わせば気が済むんだよ!
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