第25話 先生に誘拐されました。

 先生と次に会うのは来週だ。暫く日が空くので、それまでに気持ちを落ち着けて、いつもの状態に戻せばいい──そう思ってはいるものの、全然気持ちが回復してくれない。ずっと心の中はどんより雨模様である。

 あのオープンキャンパスの日から、もう三日が経っている。あの後、先生から心配する旨のLIMEが届いていたが、『大丈夫です、ありがとうございます!』と一言だけ送って終わらせてしまった。それ以降、先生から連絡はない。彼女は空気を読めるタイプの人だから、こうして会話を終わらせるような返信をすると、それ以上何かを送ってくる事はない。

 せっかくオープンキャンパスでやる気になっていたのに、色んなモヤモヤが心の中を埋め尽くしていて、そのモヤモヤが何なのかもわからなくて、全然勉強に集中できなかった。夏休みだから先生からの宿題もたくさんあるし、暗記しなければいけない事もたくさんある。それなのに、全く気持ちが勉強に入ってくれない。


(あーっ、くそ! やめだ、やめ!)


 俺はばたりとベッドに倒れ込んだ。

 勉強したいのにできる精神状態になってくれない自分の頭と心が憎らしい。先生の御蔭で勉強のやる気が出ているのに、先生のせいで勉強ができない。


(いや……先生は悪くないだろ)


 全部俺がダメなのだ。自分に自信が持てないのも、集中できないのも、ちょっとした事で不安になってしまうのも、信用できないのも……全部、自分が悪い。先生は悪くない。

 それに、俺がこんな態度を取ってしまっているのは……ただ、拗ねているだけだ。彼女に心配して欲しいだけなのである。そんな自分を垣間見てしまって、余計に自己嫌悪に陥ってしまった。

 対等に見られたいだけなのに、完全に逆走してしまっている。俺が子供な証拠だ。


(はぁ……ダメだ。ちょっと走って来よう)


 窓の外を見てみると、もうそろそろ日が沈んできて、気温も下がってきている。まだ蒸し暑さはあるけれど、昼に比べればマシだ。ちょっと曇り空が見えてきてるから雨が不安だけど……きっと、部屋でうじうじしていても何も変わらない。

 そう決意した俺は、スウェットに履き替えてから、そのまま外へと走りに出た。


◇◇◇


 ……最悪。

 そう心の中で愚痴っていた。三〇分ほど走って、折り返して帰っている途中で、大雨が降ってきたのだ。真夏によくあるスコール的な大雨である。雨宿りする余裕すら与えられず、たちまち俺は全身からシャワ―を浴びたようにビショビショになってしまっていた。

 もうここまで濡れてしまえば、どうなろうと知った事かと諦めて歩いていた。シャツはもちろん、ズボンもパンツも靴下もびしょ濡れなので、もう走る気力はない。

 水分を吸って重くなった衣服と足を引きずるようにして歩いていると、前からぴしゃっと足音がした。少しだけ顔を上げて前を見ると、ショートパンツを履いているらしい女性の生足とサンダルが目に入った。


「……え、湊くん!?」


 不意に聞き覚えのある声で名前を呼ばれて顔を上げると、そこには傘を差した先生がいた。手には買い物袋をぶら下げている。夕飯の材料でも買った帰りなのだろうか。


「ちょっと、ずぶ濡れじゃない! どうしてこんな雨の日に傘も持たないで……!」


 先生が慌てて俺に駆け寄って、俺の頭上を傘で覆ってくれた。


「いえ、雨降ってなかったのでちょっと運動がてら走ろうかと思ったら、いきなり降られまして……」

「もう……天気予報見てなかったの? 今夜、降水確率九〇%だよ?」

「見てませんでした……」


 言うと、先生が溜め息を吐いて、困ったような笑みを浮かべた。


「私の部屋、ここの近くだから、寄って行って? お風呂もちょうど沸いてるから」

「え!? いや、でもそれは……」

「このままでいたら、風邪引いちゃう」


 先生は少し怒ったような口調でそう言い、俺の手を取った。


(あ……)


 オープンキャンパスの日みたいに、また先生が手を取ってくれた。

 さっきまで凄くモヤモヤしていて、走っていても全然それは取れてくれなかったのに、こうして先生が手を取ってくれただけで、嘘のように消えてしまった。


「だから……ほら、早く行こ?」


 先生は優しく微笑んでくれていて、その笑顔の前では、ただ頷く事しかできなかった。そうして笑いかけてくれた事が、ただ嬉しかった。

 そして……さっきまでのモヤモヤが嘘みたいに晴れて嬉しく感じている自分に、腹が立った。

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