四品目 最高のホワイトデー
顔をチョコで汚しながら、一人の女の子がキッチンでお菓子作りに励んでいる。
ひょっこりとその女の子の母親が顔を覗かせる。
「好きな子にあげるの?」
「……そうだよ」
母親はカレンダーをチラリとみて、少女に目線を戻した。
「明日よ? 間に合うの?」
「…………間に合わなくても、作るの。どうしても、あげたいの」
「手伝おうか?」
「いらない! ほっといて!」
母親に背中を向けたまま、少女はヒステリック気味に叫ぶ。普段、もっと言えば小学生の頃から高校に上がった今の今まで、彼女のそんな姿、声を荒げるなんてことは全くと言っていいほどなかった。
驚いた母親は、目を丸くしたまましばらく固まるしかなかった。
少しして、冷静さを取り戻したのか、少女が俯き気味に後ろを気遣い、小さく「ごめん」と漏らす。
「大丈夫。自分でできるから……」
「わかった……」
母親は、彼女の声色や少しだけ見えた横顔から、彼女が泣いているのを知り、そっとしておこうと判断した。
約一か月前のこと。
「美奈子ちゃん、これ、バレンタインデー」
「え、ありがとう、朱里ちゃん!」
放課後、もうほとんど生徒が帰って人気のなくなった校舎の三階で、二人の少女が談笑している。
一人は黒髪を真っ直ぐ下した、パッチリとした目の少女。村井朱美。彼女は大事そうに鞄から箱を取り出すと、それをもう一人の少女に手渡した。それを受け取った少女は嬉しそうに笑う。彼女は羽下美奈子。動くたびに肩に触れるほどの長さのボブがふわりと揺れ、愛らしさがあった。美奈子は物珍しそうに箱を眺めてみたり、微かに香るチョコの匂いを、箱に鼻を近づけて嗅いでみたりした。
しかし、箱を大事そうに鞄にしまいながら、徐に苦笑いを浮かべてポツリと言葉を絞り出した。
「でも、今年も朱里ちゃんからだよね」
「当然よ。チョコの予約が始まったらすぐ予約して、それで買ってるんだから」
「流石の行動力……。だけど、たまには私があげたい」
「ホワイトデーにくれてるじゃない」
「そうじゃなくて、バレンタインにプレゼントしたいの」
不思議そうな表情を浮かべる朱美に、美奈子も食い下がる。だが、朱美も譲らない。
「大差ないわ。それに、私の楽しみを作ってあげてるんだと思って、バレンタインにチョコをあげるのは私の役目だと思って下さいな」
「なにそれー。て言うか、朱里ちゃんの楽しみって何?」
美奈子が尋ねると、それまで冗談っぽく話し、笑みを浮かべていた朱里が、少し改まったような顔になる。
「笑わずに、聞いてくれる?」
「え、うん。わかった」
「美奈子ちゃんからのホワイトデーのプレゼントは、春の訪れみたいな、自分の誕生日が来たような、そんな喜びと嬉しさがあるの。それが待ち遠しくて、いつも先にプレゼントする側に回っているようなものなの。だから、今年もお願い。毎年の、私の誕生日を祝ってるんだと思って、私に、ホワイトデーのプレゼント、頂戴……?」
いつになく真剣な顔でそういう朱里に、美奈子も最後まで真剣に聞いていたが、ついに耐え切れず、話し終わった直後、小さく噴き出して笑ってしまった。
「ぷふっ、あははは……」
「ちょ、ちょっと。人が真剣に言ったのに」
「ごめん。でも、そんな大層に言わなくたって」
「もう……知らないんだから」
「あぁ、もう、ごめん。朱里ちゃん、好きだよ」
「調子よすぎ!///」
朱里は軽く美奈子の頭にチョップを食らわせる。おどけたように頭を押さえ、笑う美奈子。それを見て笑顔になる朱里。
その時は突然訪れた。
バレンタインが終わって二週間ほどが経ち、もうすぐで三月になろうかという時、唐突に家の電話がけたたましく鳴った。
血の気の引いた顔で、電話を受ける美奈子の母。胸騒ぎがして落ち着かない美奈子に、母親が徐に尋ねる。
「美奈子。あなたの同級生に、朱里ちゃんって子がいるの、知ってる?」
「え、うん……」
「さっき、交通事故で……」
美奈子は茫然自失となってそれからのことをはっきり覚えていない。
あまりのショックで顔を真っ青にしていたとは後になってから聞いた。とにかく彼女は喪服を着て、気が付いたらその他の同級生たちと並んで参列していた。
告別式も終わり、少しずつ日常に戻ろうと皆がし始めるころ、遅れて波が美奈子を襲った。
否応なしに現実を認識してしまい、それから毎日毎日、何気ないときに、時間や場所を選ばず涙があふれた。来る日も来る日も涙を流し、時に、彼女のことを憎んだ。
誰にも二人の関係を言えず、それを噛みしめ合い、共有し支え合う人もいなくなった。ただ一人、たった一人でその現実と向かい合わねばならない。
お通夜の日も、告別式も、それ以前もあの日以降も。彼女はただの、朱里という女性の友人の一人。恋人でも、家族でもない、その他大勢の中の一人。
ホワイトデーが近付いてきたある日、嫌でもそのことを気づかされ、美奈子は朱里が言った言葉を思い出した。
「美奈子ちゃんからのホワイトデーのプレゼントは、春の訪れみたいな、自分の誕生日が来たような、そんな喜びと嬉しさがあるの」
「私の誕生日を祝ってるんだと思って、私にホワイトデーのプレゼント頂戴」
そして前日。突き動かされるように、受け取る人もいない、食べてくれることも、「美味しい」と愛しい笑顔を向けてくれることもないチョコ作りが始まった。
翌日、玄関先で母親が彼女を送り出しに来た。
「お母さん、昨日はごめんなさい。気が動転してたって言うか、その……」
「ほら、チョコが溶けちゃうわよ。急いで持って行ってあげなさい?」
「え……?」
気まずさを誤魔化すように伏せていた顔を上げると、彼女の真意に気付いているような、全てを悟り、受け入れているような、そんな微笑を母親が浮かべていた。
「いいから、早く渡しに行ってあげなさい」
「……行ってきます」
朱里の家に向かうと、彼女の母親が優しく美奈子を出迎えた。
今にもていの悪いドッキリを誤魔化すように、明るくおどけながら朱里が飛び出してくるんじゃないかと美奈子は思ったが、残念ながらそんなことはなかった。
仏壇の前に行き、改めて現実なんだと知らしめられ、思わず泣きだしそうになるのを堪える。
震える手で、昨夜頑張って作ったチョコクッキーの入ったタッパーをそっと供えた。
「実はね、お葬式の後、朱里の部屋から日記が見つかって……」
そっと美奈子の横に来て、朱里の母親がその日記を差し出した。美奈子はそれを受け取り、断って中を開いた。
そこには、懐かしい、彼女の字が並んでいた。
「それを読んで、朱里とあなたのことを知ったの」
美奈子は彼女の母の言葉を聞いて顔を上げた。否定されるのではないか、恨み文句の一つや二つ言われるのではないかと危惧した。
「うちの朱里と仲良くしてくれて、友人としても、恋人としても、朱美を愛してくれてありがとう」
予感は大いに外れた。思いもしなかった。朱里の母親が泣きながら美奈子にお礼を言い、頭を下げたのだ。
美奈子は気付いた。これまで、朱里が亡くなってから自身の母が美奈子にしてきた接し方。きっとこの日記を見つけた朱里の母が、美奈子の母に話をしたのだ。
「こちらこそ、ありがとうございます」
気が付いたら美奈子の頬にも涙がつたっていた。
きっとこれが最初で最後、最高のホワイトデー。
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