第3話

 何故男子トイレの個室の上から女が降ってきたのか?笹川は無言でそれを問い詰める意図を込めて、彼女に視線を送った。


 見つめ合うこと数秒。


 その静寂を破ったのは、笹川でも無く、彼女でも無くーー誰かの足音だった。


 先ほどまでの煩い足音とは違い、スタッスタッという軽い足音だった。


 やはり、足音は段々大きくなり、こちらに近づいているようだ。


 足音が止まった。


「チッ……何処いった」ドスの効いた男の声が聞こえた。


 男は誰かを見失ったようだった。


 男は廊下の突き当たりの窓に向かい、下を覗いた。


「ここから逃げたのか?」男はそう言ったが、納得いかない様子だった。


 それもそのはず、ここは校舎の五階である。


 仮にこの窓から飛び降りたとしたら、骨の折れる音だったり、悲鳴の一つでも聞こえてくるだろう、と男は窓下に広がっているコンクリートを見て思った。


 男は引き返し、今度は彼らがいる男子トイレに入ってきた。


「まさかここに逃げた訳ないよな……」男はそう呟きながら近づいてきた。


 笹川は独り言の多い奴だな、と思った。


 反射的に耳を澄ませていた笹川は、目の前に佇んでいる女の存在を思い出し、改めて彼女を睨んだ。誰だこいつは、と問い詰める。


 しかし彼女は笹川の視線を意に介せず、慌てているようだった。


 彼女は「や」「ば」「い」という形に口を動かす。


 笹川は訳が分からずに、声に出して彼女に問おうとしたが。


「……んんっ!」彼女に思いっきり口を手で塞がれた。


 "黙れ!"彼女は無言で叫んだ。


 男がトイレの廊下を歩いてきた。


 カツ、カツ、カツとトイレのタイルの上を硬質の靴で歩く音が、すぐ近くで聞こえる。トイレの個室の品定めをしているような、ねっとりとした視線を扉越しに感じているようで、笹川は気持ちが悪かった。


 たしか、五つある個室の中で、人が入っていて鍵がかかっているのは、真ん中のここだけだったはずだ。


 ーーコンコン。


 軽くドアがノックされた。その音は小さかったが、よく通る高音で、確かに響いた。


 彼女は片手で笹川の口を塞いだまま、全身をビクッと震わせ目を見開いた。


 正直、これには笹川も心臓が飛び跳ねるほど驚いた。


 まさか、ノックされるとは。


「入ってるか?」男の声が聞こえる。笹川は彼女を見た。


 どうすればいい?ーー暗に彼女に問う。


 彼女は、笹川の口を塞いでいた片手を取った。その動きは、僅かに震えていた。


 彼女はじっと笹川を見つめる。笹川は何かを感じた。


「は、入ってます」笹川は声の震えを必死に隠しながら答えた。


「あ、これは、失礼した」すぐに男が返す。


 そのまま男はコツ、コツとゆっくりした足取りでトイレを出て行った。


 コツ、コツ、コツ……。


 やがて足音は聞こえなくなった。


 周囲は静寂に包まれた。その場を満たすのは自分の鼓動のみ。


 トク、トク、トク、トク。


 次第に元の心拍間隔に戻るのを感じる。


 ふう。

 数秒後、やっと、笹川は息を吐くことができた。


  一気に緊張が解け、首を回すとポキポキと気持ち良く鳴った。


 訪れた静寂の中、笹川は改めて目の前の女を見た。


 明るい色のボブカットに、綺麗に澄んだ瞳と華奢なボディが印象的な、よく見たら可愛らしい人だった。


 彼女はバツが悪そうに身を捩り、頬をポリポリと掻いていた。これは彼女の癖なのだろうか、と笹川は思った。


「んと……え、まず、何から話そう……って、きゃあ!」そう彼女が切り出した途端、彼女の足元からクチャア、と何か柔らかいモノが潰れた音がした。


「「あっ」」二人の声が重なる。


 彼女は片足を上げ、踏んでいたモノを露わにした。


 それはーーほんの数分前までは笹川の腿上に載っていた弁当の中身であった。


 彼女の上靴には、米粒の潰れたものがべったりと付着していた。


 周りには卵焼きや冷凍食品の揚げ物など、中身のほとんどすべてが散乱している。個室の壁際にはひっくり返った弁当箱も見つけた。


「うっそ!」笹川は叫ぶ。


「うわ、ごめん、これは、ごめん。いや……ちょっと後でコンビニ行って替えのご飯買う、よ。さすがに」彼女は下を向いて、如何にも申し訳なさそうに呟いた。


 そんな女の子の姿を見てなお、怒りが収まらないような人物では、笹川はない。


「わかったよ。しょうがないから」笹川はやれやれと肩を竦めたが、余りに理不尽極まりないこの状況の、一体何がしょうがないのか。笹川は分からなかったが、しかし言ってしまったものはしょうがない。


「これ、ここに入れてもいい?」彼女は手を伸ばし、すっかり空になってしまった弁当箱を拾い、床に散らばっている中身を指差して言った。


「いやいいよ、俺やっから。君は取り敢えずこの個室から出て?これ拾うのにちょっと邪魔だし」さすがに、目の前で女の子にグッチャグチャの飯を拾わせる趣味はない。というか、どんな気持ちでそれを眺めればいいのかが分からない。


「ごめん……」彼女のテンションはすっかり下がってしまったようだ。


 彼女は他の人に見つからないように、男子トイレから出た。


 笹川は彼女から受け取った弁当箱に、見るも無惨な中身を詰める。取り敢えず入れたはいいものの、どこに捨てよう。


 どちらにせよ、母さん、ごめん。


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